膝上の報告と神の伝言
食器の片づけが終わり、リビングにはニュースの音声が静かに流れていた。シゲルはいつもの定位置で缶ビールを片手に、今回のつまみに選んだスルメを咀嚼している。一方で、クレアはその匂いにまるで興味を示さず、クロの膝の上でくつろいでいた。尾を巻き、柔らかく身を預けている。
アヤコが画面越しにニュースを見つつ、ふとクロに目を向けて声をかける。
「クロ。今日は、ありがとね」
クロはゆっくりと目をニュースから外し、アヤコに視線を向けた。
「……何のことでしょうか?」
アヤコは少しだけ頬を緩めて、小さく肩をすくめる。
「ウェンと私のことよ。あの子と一緒にやってた設計――ずっと煮詰まってたんだけど、クロに頼まれてた案件に向き合ってたら、ふと気づいたの」
アヤコはそう言って、ソファの肘に肘を乗せながら続けた。
「“一つにまとめるのが無理なら、別にしちゃえばいい”って。なんであんなに一体化にこだわってたのか、自分でもわかんないくらい、視野が狭くなってた」
クロは少しだけ目を細め、アヤコの言葉を受け止めるように頷く。
「いえ。私の場合は――すべてを別空間に放り込んでおけば済む話ですから。今すぐ必要でもありませんし」
クロは落ち着いた声でそう返し、リボルバーを別空間から取り出し再度仕舞う。
その言葉に、アヤコが肩をすくめるのを横目に、シゲルがスルメをかじりながら口を開く。
「アヤコ、それにウェンもだが……もっと視野を広く持たねぇと、設計が袋小路に陥るぞ」
ビールを口に運び、ひと息ついてから、さらに続けた。
「本来ならな、それは自分で気づかないといけねぇ。結局、気づかないまま突っ走って――疲れるだけだ。まだまだお子ちゃまだな」
その言葉に、アヤコの目元がぴくりと動く。反論したい気持ちはある。けれど、図星すぎて言葉にできず、睨むだけにとどめた。
シゲルは気にする様子もなく、ビールを煽りながらスルメを咀嚼し続ける。
「それにな、お前たち――“一から設計”ってのは確かに大事だ。だがよ、全く過去のもんを参考にしねぇってのは、ただの意地だ。昔あった武器や今ある“スライムタッカー”すら見向きもしない」
低く、だが静かな語気に変わる。
「お前らがやってるのは、“先輩たちの積み上げてきた技術”をまるごと無視した袋小路の設計だ。いいか? 完全な新規設計だって、過去に似た事例はいくらでもある。――使えるもんは、使え」
その言葉には、経験者としての重みと苦味が滲んでいた。
技術とは、ゼロから生まれるものではない。それは――積み重ねの上にしか成り立たない。その事実を誰よりも理解している男の声が、ゆるく、しかし重みをもって響いた。
「……じいちゃんだったら、どうしてた?」
アヤコの問いかけに、シゲルは肩をすくめて笑った。
「俺ならな、迷わず既存品を改造一択。面倒ごとは嫌いだからな」
ビールを片手に、口元を緩める。
「もちろん、違法スレスレくらいは平気で攻める。ギリギリがちょうどいいんだよ」
その言葉に、アヤコは思わず苦笑いを浮かべた。
「……結局は、経験の差ってことか」
「そういうこった」
シゲルはスルメを咀嚼しながら、どこか楽しげに頷いた。
その傍らで、クロはゆるやかに視線を落とし、膝の上で落ち着いているクレアに声をかける。
「クレア、今日はどうでした?」
呼びかけに、クレアはぴくりと耳を揺らして顔を上げる。
「はい。色々と見て回りました。この辺り一帯は、おおよそ把握できたかと」
誇らしげに言ったものの、そこでふと言葉を切る。耳がかすかに伏せられ、瞳にわずかな影が落ちる。
「ただ……少し、威嚇されたり、変な者に会ったりしました」
慎重に選ばれた語尾は、どこか引っかかるような余韻を残していた。
クロはその様子に首をかしげ、柔らかく問いかける。
「……何があったんですか?」
クレアは少しだけ唇を噛み、悔しげに尾を揺らす。
「……威嚇されました。名前は“ロック”とか言ってました」
言葉に棘が混じる。
「威嚇には、私も全力で応じました。ですが――あれ、全然引かないんです。私の威嚇に微動だにしないどころか怯まず、こっちの“我慢”のほうが限界に達しそうで……もう、限界で、塵にしてやろうかと……!」
怒気を隠しきれない声。
だが、そこで言葉が止まる。
「……けれど、ちょうどその時。飼い主らしき人物が現れました。金髪の女性で……雰囲気が、アヤコお姉ちゃんやお父さんに似ていたんです」
クレアは少しだけ視線を落とす。
「だから――塵にするのは、やめておきました」
その最後のひと言は、少しだけ尾を伏せながらも、どこか誇らしげでもあった。まるで「手加減してやった」とでも言いたげな、自負のにじむ静けさだった。
クロ、アヤコ、そしてシゲルは顔を見合わせる。クレアの言う“ロック”と“金髪の女”――それだけで、誰のことかは察しがついた。
場所は――ロック・ボム。クレアが遭遇した“威嚇”の正体は、店内に鳴り響いていた音楽・ロック。そしてその主こそが、あの金髪の女性――店員のウェンだった。
「クレア、クロみたいに何でもすぐ塵にしようとしちゃダメだよ」
アヤコが苦笑まじりにたしなめると、クロが少し目を伏せ、どこかバツの悪そうな声で口を挟む。
「……はい。私の口から言っても、まるで説得力がありませんが……お姉ちゃんの言う通りです」
そのやり取りを横目に、シゲルはスルメをちぎって噛みながら、ビールをあおる。そして、あきれたようにぽつりと漏らした。
「……どの口が言ってんだか、ほんとに」
その一言に、アヤコが思わず吹き出し、クレアはふくれ顔のまま、じとっとシゲルを睨む。
けれど、その場の空気はどこかあたたかく、緩やかで、笑い声のような静けさが、ゆっくりと部屋に満ちていった。
そんな中、クレアは膝の上で身じろぎをひとつ。話の続きを切り出すように、尾をゆらりと揺らして言った。
「それでですね。そのあと、別の場所にも行ったんですが――そこで、“シロ”という猫に会いまして。どうやら、何者かに取り憑かれていたようです」
クロとアヤコが表情を引き締め、視線を向ける。クレアは淡々と、けれど少しだけ口元を引き結びながら、続けた。
「案内されました。よりにもよって――あの、憎き野菜のフィールドに、です」
言葉の最後には、ほんの僅かな恨み節がにじむ。
だが、それを口にする姿には、いつものクレアらしい芯の強さも滲んでいた。
「そこで――その猫に取り憑いていた存在が、こう言いました。『クロ様……いえ、バハムート様の知り合い』だと」
名を口にした瞬間、クロのまなざしがわずかに揺れる。思い当たる節があった。
(シロ……農業プラント……それに、俺の正体を知っていて、“知り合い”を名乗る男の声――それは、おそらく……)
クロは静かに目を伏せる。それが何者かをすでに察していた。
クレアは表情を曇らせ、ためらいながらも言葉を継ぐ。
「――それで、伝言を預かっています。本当は伝えたくないんですが……約束しましたので」
そこでひと呼吸置き、クロを見上げて言った。
「『前の星の技術を、あまり使わないでほしい』と。――『今まで作ったものは構わないけれど、これから先は、極力控えてくれ』……そう言われました」
その声には、ただの伝言をなぞるだけではない、クレア自身の感情がにじんでいた。困惑、警戒、そして――僅かな苛立ちすら混ざっている。
「今あるものについては、慎重に扱ってほしいそうです。この世界の技術と“合いすぎる”らしくて……悪い方向に転べば、クロ様の望む生活ができなくなるかもしれない、と」
その言葉に、クロはしばし思案するように黙し――やがて、静かに応じる。
「……そうですか。では――極力、今後は使用を控えるようにします」
簡潔であって、けして軽くはない言葉。そこには、判断を下す者としての重さがあった。
「ちっ……ドックにも、この家みたいに“無敵仕様”を施してほしかったんだがな」
スルメを噛みしめながら、シゲルが不満げに呟く。
ビールをひと口、口に含み、ややぶっきらぼうな調子で尋ねた。
「で、クロ。その“知り合い”ってのは……誰だ?」
視線を向けられたクロは、特に迷う様子もなく、すっと答える。
「――神ですね」
その一言で、リビングの空気が一変した。テレビの音だけが、場違いなほど平然と流れ続けている。しかし、室内の誰もが、その言葉の意味と重みに思考を止めていた。