白き媒介者と禁じられた技術
威嚇の場を離れ、クレアは自分たちの住まう区画とはまったく異なる、小さな箱が並ぶエリアを駆けていた。だが、どこまで進んでも景色は変わらない。同じような建物が連なり、道には区別すらつかない。その中を、彼女はひたすら走る。獣の本能だけを頼りに。
そして――ふいに。目の前に、白い影がふわりと舞った。
クレアはその場で立ち止まり、無言で構える。
(……こいつは)
警戒が、毛並みごと逆立つ。ただの猫ではない――格が違う。存在の密度が違う。強者に対する本能的な“直感”が、喉の奥で低く唸りを上げる。
だが、白い猫は静かだった。ゆっくりとした足取りで、一直線にクレアの前へと歩み寄ってくる。
「……うにゃ」
白い猫が、短く鳴いた。
その声に、意味があるとは思えなかった。けれど――クレアの足は、自然と止まる。そして次の瞬間には、彼女の意思とは関係なく、身体が白い猫の背へと向かっていた。
(……ついて来い、ってこと?)
思考の奥に、誰かの意志が届いた気がした。逆らう理由は山ほどある。けれど、それ以上に――逆らえない“何か”があった。それは威圧ではなく、もっと根源的な、在り方そのものからにじむ圧。
白い猫が音もなく駆け出す。それを追い、黒い影――クレアが、まるで当然のように続く。
無機質な住宅地を抜け、空がゆっくりと赤みを帯び始める。気づけば二匹は、日が傾く農業プラントの敷地へと足を踏み入れていた。
(……野菜の群れ? まさか、ここで戦わせる気か?)
冗談のような想像が、頭に浮かんではすぐに消える。だが本能は、場の空気が変わったことを確かに察知していた。
白い猫は振り返ることもなく、そのまま一直線に歩を進める。やがて、農場の端にある古い倉庫へと足を向けた。
(――入るのか)
クレアの足が止まらない。警戒はしている。だが、それ以上に――呼ばれている。
そうして彼女は、一歩、また一歩と、白い猫の背を追い――ひっそりと開かれた倉庫の中へと足を踏み入れた。
中には誰の姿もなかった。空気はひんやりと澄み、加工前の大豆が山のように積まれている。ただその中央に、あの白い猫がぽつんと座っていた。
クロの家とは異なる、閉ざされた空間。けれど、どこか“整えられた場”のようにも感じられた。
「……さて。ここまでくれば、もう誰にも聞かれない」
白い猫が、突然――男の声で言葉を発した。
その声は、不自然なほど澄んでいた。音として耳に届くというより、脳に直接流し込まれるような感覚だった。
「ごめんね、君をこんな形で呼び出して。とはいえ、このシロはただの“依り代”だから、攻撃はしないでほしいな」
白い猫がゆっくりと振り返り、クレアをまっすぐ見つめる。
クレアはすぐに構え直す。視線は逸らさず、倉庫の出入口と死角を素早く確認。逃げ道は確保している。けれど、その目には明確な警戒が宿っていた。
「逃げなくていいよ。別に君に危害を加えようなんて思ってない」
白い猫の声は静かだったが、奇妙に透き通っていた。
「一応、僕はクロ君――いや、“バハムート”とは知り合いでね。……もっとも、向こうはもう、僕の顔なんて覚えられていないだろうけど」
その名が出た瞬間、クレアの肩がかすかに揺れた。けれど、声は出さない。出せない――というより、出す理由が見えない。
白い猫は、そんなクレアの反応を見て、わずかに笑ったような気配を見せた。
「クレア君。いや――“ヨルハ”ちゃんと言った方がいいかな?」
その声には、責めも探りもなかった。ただ、名を確かめるような――どこか懐かしさすら含んだ柔らかさがあった。
「話せるのは知ってるよ。だから、無理にとは言わないけど――喋っていいんだよ?」
クレアは警戒を解かなかった。むしろ、自分の正体――“ヨルハ”であることを知っているというその言葉に、警戒の度合いがさらに強まる。
「警戒は解いてくれないか。仕方ないよね、ごめん。じゃあ、率直に――クロに伝えてほしいんだ。この世界で、“あまり前の星の技術”を使わないようにって」
クレアの瞳がわずかに揺れた。
「今のところ特に問題は起きてない。でも、あの技術の中には“目覚めてはならないもの”や、“触れてはいけないもの”が混じってる。だから、今すでに作られたものに関しては構わないけど――これから先、なるべく控えてほしいんだ」
白い猫の声は、あくまで穏やかだった。けれどその奥に潜むものは、明らかに警告に近かった。
クレアは一瞬、言葉を飲んだあと、吐き捨てるように返す。
「……それなら、ご自身で伝えればいいのではありませんか」
問いというより、皮肉に近い反応だった。だが、白い猫はむしろ嬉しそうに小さく頷く。
「――喋ってくれたね。ありがとう」
その反応に、クレアはかえって表情を硬くする。
「こっちの事情で申し訳ないけど、今は直接会うのが難しい。クロに接触するには“段取り”がいる。だから、今自由に動ける君に――お願いしてるんだ」
白い猫はそう言いながら、わずかにその身を低くする。敬意というより、お願いの姿勢だった。
「伝えるだけでいい。作るなら――本当に必要な時だけにしてほしい。そして、すでに存在しているものについては……くれぐれも慎重に扱ってほしいんだ。お願いね、ヨルハちゃん」
その声はやわらかく、それでいて――どこか決定的だった。
クレアは一拍だけ間を置き、目を細めた。
「……わかりました」
その返答は短く、感情を抑えたものだったが、確かに“了承”の響きを持っていた。
「よかった」
白い猫はゆるく尾を揺らし、どこか安堵したように微笑んだ。
「クロの持つ技術は――この世界と“合いすぎる”。だからこそ、少しのきっかけで、世界そのものを変えてしまいかねない。そしてもし、それが悪い方向に傾けば……彼女が望む“生活”は、もう戻らなくなるかもしれない」
その言葉に、クレアは静かに視線を落とす。
「それは、君だって本意じゃないはずだよ。……そうだよね?」
問いかけに返る言葉はなかった。けれど、白い猫の前に立つクレアの表情には――わずかにだが、静かな“決意”が滲んでいた。
「――時間だ。クレア君。よろしく頼んだよ」
その一言とともに、猫を覆っていた“何か”がすっと消える。まるで空気の膜がはがれるように、威圧感が霧散した。
次の瞬間――目の前には、ぽかんとした顔のシロが立っていた。どこか茫然としたその表情は、先ほどまでの威圧的な存在とはまるで別人だった。
そして、クレアの姿を認めた瞬間――ピクリと身体を震わせ、驚いたように数歩距離を取る。
(……さっきまでの“圧”が完全に消えた)
クレアは冷静にそう判断し、静かに警戒を解いた。
「わん(危害を加える気はありません。あなたは――操られていました)」
「ニャー!?(え、私また記憶が飛んでるんですが……それって、操られてたからってことですか!?)」
目を丸くしたシロが、困惑の色を浮かべたまま、しっぽを大きく膨らませる。伏せた耳と揺れる瞳には、不安と戸惑いが渦巻いていた。
「ニュア~(す、すみません……あなたは?)」
「わふっ(私はクレア。クロ様の眷属です)」
「ニャ!(あっ……私を助けてくれた方の、あの名! なるほど、そうでしたか)」
短いやり取りのうちに、シロの混乱は次第に収まっていった。毛並みも落ち着きを取り戻し、伏せていた耳がゆっくりと元の位置へ戻っていく。
ひと息ついたあと、クレアは静かに顔を上げ、真っ直ぐな声で問いかけた。
「わん(……帰れますか?)」
「ニャ~(大丈夫です。もう、私の主人を悲しませたりしませんから)」
その言葉に偽りはなかった。シロはそっと頭を垂れ、礼を示すと、軽やかな足取りで倉庫を後にした。
その小さな背に、もはや操られていた頃の面影は見えなかった。
――残された静寂の中。
クレアはその場に腰を下ろし、ゆっくりと深く息をつく。倉庫の中には、夕闇の気配と、胸の内を揺らす思考の余韻だけが満ちていた。
(……今のこと、クロ様に伝えなければ。でも……あの“声”は――シロの声に、男の声が混じったような……気味の悪い感じだった)
胸の奥に残る、形のないざわつきを振り払うように、小さく頭を振る。そして、静かに立ち上がる。
外に出ると、空はすでに藍に染まり、街には夜の気配が静かに降り始めていた。遠くの灯りが滲み、薄暮の風が肌をなでる。
(帰ろう。家族のもとへ)
その言葉を胸に、クレアは地を蹴った。空気を切り裂くように駆け、夜へと沈みゆく街を――自分の帰るべき場所へ向かって、まっすぐに駆け出していった。