クレアと重低音の挑戦
コロニーの朝――空気は澄み、人々は仕事や学校へと向かう時間帯。その流れの中、小さな黒い影が、人々の足元を器用にすり抜けながら駆けていく。
豆柴ほどのサイズの小さな狼――クレアだ。「可愛い」「撫でてみたい」そんな声があちこちから聞こえるが、当の本人は耳をピクリとも動かさず、ただ静かに通り過ぎていく。
目を細めながら、行き交う人々の服や姿を観察していく。
(同じ姿の人はいない。けれど、同じ服の人はいる)
そんなことを考えながら、クレアは街の中を自由に駆ける。小さな箱が集まる住宅街を抜け、視界が開けたかと思えば、そこに広がるのは緑の草地――
いや、よく見ると、そこには見慣れぬ葉の列が並んでいた。
(これは……野菜か!)
身構えるように低く構え、警戒心を露わにする。だが、クレアはまだ知らない。その“敵意”を向けた野菜たちこそが――自分の大好きな“お肉”の源になっていることを。
そんな事実を知る由もなく、軽やかにその場を離れ、再び走り出す。今度の目的地は、中くらいの箱が立ち並ぶ区域――学校や会社が集まる場所だった。
そこでは、学ぶ子どもたちと、働く大人たちが入り混じり、慌ただしくもどこか充実した空気を放っていた。クレアは人々の表情をひとつひとつ見上げながら、静かに思考する。
(何をしているのか判りませんが……色々な表情をしていますね。楽しそうな顔に、悲しそうな顔。嬉しそうな顔に、苦しそうな顔……さまざまあります)
だけど――
(クロ様みたいな表情の人はいない)
走りながら、ふと主の顔を思い浮かべる。
何を言われても、ほとんど表情を変えない少女。けれど、クレアは知っている。嬉しいとき、楽しいとき――クロの表情は、ほんの少しだけ柔らかくなる。
そしてもうひとつ――
バハムートの姿で現れる時。そのときの姿は、“人”ではなかった。しかし、喜怒哀楽がそのまま顔に浮かび、時に笑い、時に怒り、時に哀しみ――ころころと表情を変えていく。
(あれは、今さっき見た子どもたちの表情に、どこか似ている)
そう思いながら、クレアはまたひとつ角を曲がる。
すると――地面の奥から、ずん、と重く響く音が聞こえてきた。うるさいというほどではない。だが、腹の底にじわじわ響くような重低音が、次第に近づいてくる。
(……なんですか、この音は)
首をかしげつつも、興味を惹かれて足を向ける。けれど、近づけば近づくほど、その音はどんどん大きく、威圧的になっていく。
(……なるほど。これは、威嚇ですね)
クレアは真剣な顔で頷く。
(あの場所に近づかせまいとしている。つまり――この先に、何かを隠している!)
完全に勘違いを確信に変えたクレアは、一気に加速して音の発信源へと駆け出した。音に負けじと耳をふさぎ、歯を食いしばる。
(そんなことで、クレアは止まりません!)
そうしてたどり着いたのは、どこか無機質な中くらいの箱だった。周囲の壁には光るラインが走り、内部からは重低音――おそらくは音楽らしきものが響き出ている。
けれど、クレアにはそれがただの騒音にしか思えなかった。
「わんっ!」
威嚇には威嚇を。自分に向けられた“大音量の挑発”に応じるように、クレアは思いきり吠え返した。
風に毛を逆立てながら、黒い小さな体が全力で主張する――その姿は、実に堂々たるものだった。
「わんっ!!」
クレアは声を張り上げ、さらに強く吠えた。しかし、相手――重低音を鳴らし続ける箱は、微動だにしない。
(……こいつ、私に恐れをなしていない!)
小さな体を震わせながら、クレアはぐっと踏み込む。
(いい度胸です。ならば――塵に)
牙を剥こうとした、その瞬間。
扉が、ふわりと開いた。
中から流れ出たのは、さらに強烈な重低音。音圧で毛が逆立ち、身体がぶるりと揺れる。
(まさか……ここまでの威嚇を仕掛けてくるとは!もう、許さな……!)
「おっ、犬の声がすると思ったら……かわいい豆ちゃんだなあ」
その声に、クレアは動きを止めた。
現れたのは一人の人間だった。少女のような、柔らかな口調の持ち主。全く威圧感はなく、むしろ無防備な笑みを浮かべている。
「吠えちゃって、どうした?うるさかった?ごめんね~。ウチの家族の趣味でね、ロック流してるんだよ」
そう言って、しゃがみ込みながらクレアの頭にそっと手を伸ばす。
(ロック……?これは威嚇ではなかったのですか……)
思わず首をかしげるクレア。先ほどまで“塵にしてやる”つもりだった相手に、あっさりと頭を撫でられていることに、自分でも気づかない。
「君、どこから来たの?この辺、うるさいのに、よく平気で来たね」
そう言いながら、くしゃくしゃと撫でる手のぬくもりに、どこか懐かしさを覚える。それはアヤコや、シゲルの手に似ていた。
(敵ではありませんでした。むしろ、お姉ちゃんやお父さんに似た、面白い人間です)
満足したのか、その人間はゆっくりと立ち上がり、手を振る。
「良かったら、またおいで。バイバイ」
扉が再び閉まり、音も少しだけ和らいだ。
クレアはもう一度振り返り、その家を見上げる。そして、音に警戒していた自分を少しだけ恥じながら、軽く鼻を鳴らした。
(……まあ、今回は特別に許してあげます)
そうして、再び前を向き――走り出す。黒い小さな影が、朝のコロニーに溶けるように駆け抜けていく。
クレアの冒険は、まだまだ終わらない。