血漬石の記憶と、黒き加護
「無敵って、それはまあ……喜ばしいことなのか、なんというか――規模がえげつないな」
ぽつりと漏らしたシゲルの声に、クロは手を止めずに答えた。
「軍が何もしなければ、ただの置き物です。万が一に備えただけですから」
淡々とした口調だったが、語尾にわずかに滲むのは、自覚された力への距離感。クロはそのまま、静かに刻みを再開した。均等な速度で手を動かしながら、無駄のない所作が、音もなく空気に溶けていく。
隣では、シゲルが切り取った端部からパーツを分解していた。指先の動きは荒々しくも確かで、工具が金属を撫でるような音だけが、微かに作業場を満たしている。
「で――その石板は、特別なもんなのか?」
ふとシゲルが問いかける。興味というより、感覚の確認。何気ない一言に見せかけた職人の目だった。
クロは少しだけ顔を上げ、そして静かに返す。
「石板そのものは普通の鉱石です。ただ……およそ百年ほど、私の血に浸してありました」
言葉を区切り、手を止める。
「……いわゆる“血漬石”ですね」
その響きには、どこか淡く――そして、長い時の重みが宿っていた。
「それって……なんで、そんなもんを?」
シゲルの問いは、ごく素朴なものだった。だがその声には、理解が追いつかないことへの戸惑いが滲んでいる。
クロは少しだけ手を止め、視線を彫り跡から離さずに答えた。
「……暇だったんです。あまりにも、永く」
その言葉には、冗談のような軽さがあった。けれど――そこにこもる意味は、決して軽くなかった。
「だから、私に挑みに来る者のために……休める場所を用意したんです。万全の状態で挑んで来てほしかったですので」
そう語るクロの声には、一片の迷いもなかった。だが、その理屈を聞いたシゲルの顔が引きつる。
「そうか……そうかい。だがな――」
口の端を引きつらせながら、シゲルは工具を置いた。
「お前、バカ!」
その一言には、怒気よりも呆れが勝っていた。
「なんでお前に挑まなきゃなんねぇんだよ!最強のやつに挑むとか、どう考えても頭バカしかいねぇだろ!」
言い放った瞬間、作業場に静寂が満ちる。クロは返す言葉を探すように動きを止めた。けれど、シゲルはその間すら与えず、さらに声をぶつけてくる。
「大体な、お前……前の星で“最強”として認知されてたんだろ?お前が一般人だったとして、そんな相手に挑みたいか?」
それはもはや、正論などという生やさしいものではない。無償の情が込められた、真正面からの叱責だった。
クロはしばし沈黙し、手元にあった工具をそっと置いた。そして、あくまで静かに――だが自嘲めいた口調でつぶやく。
「……たぶん、暇すぎて……脳が麻痺してたんでしょうね」
苦笑まじりの言葉に、シゲルが呆れたように鼻を鳴らす。
「都合のいい言いぐさしやがって」
言葉の端に呆れが混じる。けれど、その声音にはもう怒気はなかった。
そんな空気の中で、作業は再び静かに進んでいく。クロは卓上の石板に最後の一文字を刻みつけ、ゆっくりと手を止めた。
四枚の石板。そのすべてに、古代の符文がびっしりと刻まれている。淡い光を放ちながら、ひび割れ一つなく完璧に仕上がったそれを見下ろし、クロは軽く息をついた。
「それ、どのくらいの広さで使えるんだ?」
洗浄液にパーツを沈めながら、シゲルが問いかける。水音とともに、油膜がさっと弾けた。
「この店舗と、住居部分までなら余裕です。ただ、それ以上は……無理ですね。何事も制限は要りますから」
クロはあくまで淡々と答えた。その言い回しが、妙に律儀だった。
「お前の力は無制限のくせして、よく言うわ」
「一応、上限はあると思ってます。全力を出したことがないので、確証はありませんけど」
そう言いながら、石板を一枚手に取り、無言のまま立ち上がる。
まずは作業場の壁に一枚。次に店舗の内壁に一枚を据えつける。
外へ出ると、玄関から屋根に飛び乗り、一枚設置。最後の一枚は、玄関の足元、目立たない隅にそっとはめ込んだ。
微かな共鳴音を残して、すべての石板が周囲の空間に溶けるように馴染んでいく。それを見届けたクロは静かに踵を返し、再び作業場へ戻った。
そしてクロは、何気ない調子でシゲルの方を振り返った。
「これで大丈夫です。試しに、切ってみます?」
真顔で放たれたその一言に、シゲルの眉が一気に跳ね上がる。
「切らねえよ!なんでわざわざ自分の家を切らなきゃならねえんだ!」
怒鳴り声が工房に響く。が、それにも怯むことなく、クロは淡々と作業に戻った。まるで、その反応すら想定済みだったかのように。
彼女が手に取ったのは、山積みになった鉄くず。それを手のひらで包み込むようにすると、まるで粘土細工でもするかのように――指先を動かし、捏ね始めた。
ぎり、と鈍く軋む音。
「……お前はな、ほんとに常識ってもんがねえよ」
シゲルが呆れた声を漏らす。言葉より先に、脳が否定を叫んでいる。
「鉄くずを捏ねるって、なんだ……どうやってんだよ、それ……」
問いかけというより、もはや諦めの吐息だった。
「力技です」
クロはごく当然のようにそう返すと、再び手元へと意識を戻した。その指の間からは、きらりと光る金属粒子がふわりと零れ落ちる。微かな熱と共鳴するように、捏ねられた鉄片が少しずつ形を変えていく――まるで、命を吹き込まれるかのように。
やがてクロは、空間を指先でなぞるようにして小さな“歪み”を開く。そこから、静かに一つのツボを取り出した。深紅の液体がたっぷりと満たされたそれを、無言のまま掌に傾ける。
滴る赤――それはバハムートの血。
クロは、鉄片の中心にその血を少量、そっと流し込む。掌で練るたび、金属の質量が変わり、輪郭が明確になっていく。まるで、意志を宿すように。
やがて、その両手からこぼれ落ちたのは、二つの腕輪だった。光を吸い込むような黒金の地に、赤が滲むように絡みついている。滑らかで、どこか禍々しい気配を秘めた造形。
クロは最後に、人差し指でそっと表面をなぞった。瞬間、古代文字がふわりと浮かび上がり、黒の中に深く刻まれていく。
「――完成です」
言葉と同時に、その手の中で静かに光が収まった。視線を落としながら、クロはぽつりと続ける。
「名前は……そうですね、“バハムートの加護”でいいでしょう」
クロが静かにそう告げたその作業台には、二つの腕輪がそっと乗っていた。
それは、漆黒の輝きを湛えた黒い輪――まるで光そのものを呑み込むかのように、周囲の明かりを吸い寄せている。
黒の中に沈む微かな紅が、まるで深海に浮かぶ残火のように揺れていた。禍々しさすら感じさせるその意匠には、しかし不思議なほどの安らぎがあった。ただ破壊を纏うのではない。まるで、それが誰かを包み、守るために存在するかのように――
それはまさしく、“バハムートの加護”と呼ぶにふさわしい存在感を放っていた。