無敵の家と、破壊神からの命令
そして翌朝。
湯気とともに立ちのぼる朝食の香りが家を包み、いつも通りの穏やかな時間が流れていた。
朝の挨拶を交わし終えたクロは、静かに腰を上げると、店舗奥の作業場へ向かって歩き出す。
「クロ、今日はお休み?」
ソファに腰かけ、パンを頬張りながら、アヤコが軽く振り向いて問いかけた。
「はい。今日は一日、この家の強化作業と……腕輪の制作を進めようと思います」
そう返したクロは、ふと肩に目を向ける。
そこには、いつものようにちょこんと乗っていたクレアの姿があった。
「クレア。今日はコロニー内を自由に散策することを命じます」
やわらかくも、どこか“指揮官”のような響きを残した声で言い添える。
「目的は、このコロニーに何があるのかを確認すること。そして、地理を覚えてきてください」
真面目な命令口調ではあったが、その語尾には、どこか優しさがにじんでいた。
「わかりました。見て回ってきます。……そうすれば、クロ様が迷子になることもありませんしね」
クレアは素直に返しつつも、どこか得意げな笑みを浮かべる。
その無邪気な一言に、クロは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
胸の奥を、細く鋭い何かが軽く突いたような、そんな微妙な感覚。
――言い返せないのが、つらい。
そんな空気を察したのか、ソファに座っていたシゲルがくくっと肩を揺らして笑いながら、さらに追い打ちをかけた。
「クレア、全部は無理だが、できるだけ隅々まで見とけよ。クロの迷子放送なんざ、面白すぎてニュースにされちまうぞ」
悪意のない茶化しだが、容赦もなかった。
クロは何も言わずにそっと目を逸らし、肩をすくめるように小さく苦笑を浮かべた。
「……そういうことではないんですけどね。クレア、お願いします」
「了解です。行ってきます!」
明るく元気な声を残し、クレアはクロの膝からひょいと飛び降り、玄関へと駆けていく。
だが――
「……開きません」
店の自動ドアの前で足を止め、クレアが小さく振り返った。
「クロ様」
「はいはい。今、開けますね。――行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
ようやく開いたドアから勢いよく飛び出し、小さな尻尾を揺らしながら、クレアはコロニーの通りへと駆けていった。
その姿を見送り、クロは静かにドアを閉めると、そのまま奥の作業場へと足を向ける。別空間から取り出した一枚の石板。それは見た目こそただの平たい灰色の板だったが、クロの指が触れた途端、その表面に微かな光が走った。
まるで古の契約をなぞるかのように、彼女の指先が静かに滑っていく。描かれていくのは、見る者にとって判読不能な、複雑な古代文字。だがその動きには、確かな意味と意志が宿っていた。
一方、店舗では朝の準備が静かに進んでいた。
朝食を終えたアヤコがカウンター席に腰を落ち着け、端末を起動。軽快に指を動かしながら、クロ専用アプリのシステムプログラムを組み上げていく。
やがて、天井に取り付けられた照明がふわりと灯り、店舗入り口に『OPEN』のサインが柔らかく浮かび上がった。
開店準備完了を告げる、いつもの静かな合図。
その頃、奥の作業場にはシゲルの姿があった。
手にしているのは使い込まれたビームカッター。古びた部品の表面を切り離しながら、ふと手を止め、クロの様子に目を向ける。
「クロ、お前……何してんだ? 家の強化って言ってたけど、どういう意味だ?」
素朴な問いかけに、クロは手元の作業を止めることなく、静かに答える。
「万が一のためです。もしかしたら……軍が、この家を狙ってくるかもしれません」
その言葉に、シゲルはビームカッターの動作を完全に止めた。
短く、低く唸る。
「やっぱり……その可能性があるか」
「はい。可能性はゼロではありません。ですので、備えます」
そう言って、クロは手元の石板を持ち上げ、途中まで刻まれた模様を見せる。
精緻な文字と幾何学的な文様が淡く光りながら浮かび上がるその板は、ただの道具ではない――“何か”を内包した力の媒体であることを感じさせた。
「それは……なんだ?」
シゲルが顔を寄せ、興味深げに覗き込む。その目には、整備士としての純粋な好奇心と、家長として家族を守ろうとする静かな警戒が同居していた。
「これは……ゲーム、やったことありますか?」
クロが問いかけると、シゲルはあっさりと答える。
「やらんし、家にもそんなもんはねぇな」
(――だから“世界樹”の話にピンと来なかったのか)
クロは内心で納得しつつ、どう説明すべきかと少しだけ考え込む。そして、手元の石板に視線を戻しながら、静かに言葉を紡いだ。
「この石板を、床、屋根、それに左右の壁――四か所に取り付ければ、家全体がシールドで覆われます。エネルギー攻撃も物理的衝撃も、無効化できるはずです」
クロはそう言いながら、指先で石板の表面を静かになぞった。
刻まれた古代文字が、淡く脈打つように光を放つ。
「つまり――この家そのものが、“無敵”になるということです」
静かに、しかし確かな意志を宿した声だった。