好き嫌いと食卓の攻防戦
アヤコが風呂場から上がり、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ戻ってきた。身につけていたのは、淡いピンクのパジャマ。装飾のないシンプルなデザインながら、彼女の持つ柔らかな可愛らしさを際立たせていた。
「アヤコ、今日は肉野菜炒めで」
シゲルがソファから視線を外さずにそう告げると、アヤコはタオルを首にかけたまま返事を返した。
「了解。じいちゃんは肉野菜炒めね~。で、クロとクレアは?」
「同じもので。いいですね、クレア」
「はい。同じのでお願いします。できれば――お肉、多めで」
膝の上にちょこんと乗ったまま、クレアがわずかに首を傾けて素直に答える。その小さな声と遠慮がちで図々しい願望に、アヤコは思わず吹き出した。
「はいはい、お肉多め仕様ね~。任せといて!」
軽快に返しながら、アヤコはキッチンに向かい、構築プレートを手に取る。そのやりとりの空気には、どこか“家族”としてのぬくもりが、当たり前のように溶け込んでいた。
クロは、そっとクレアを膝から下ろし、ソファの隅に寝かせると自ら台所へ足を運ぶ。アヤコの横で、構築された料理を丁寧に受け取り、テーブルへと運び始めた。
皿が一枚、また一枚と並べられていく。香ばしい湯気とともに、肉野菜炒めの香りが部屋いっぱいに広がる。配膳がちょうど終わるころ、浴室の扉が開いてシゲルが風呂から上がってきた。
白いタンクトップにハーフパンツというラフな格好。そのまま冷蔵庫へ向かい、缶ビールを一本引き抜く。
「今日のつまみは……そうだな、ビーフジャーキーがいいな」
ウキウキとした声を響かせながら、シゲルは構築装置の端末に向かって操作を始めた。間もなく、ぷしゅ、と小気味よい音を立ててビールの缶が開く。
そしてそのまま、どかりとソファに腰を下ろし、満足げにひと息。
「じいちゃん、食べてからにしなよ」
キッチンからアヤコが呆れたように声を飛ばす。それに対して、シゲルは一切悪びれもせず肩をすくめた。
「大丈夫だ。食べながら呑みながらだ。これが一番うまいんだよ」
言い切る口調はいつも通り。すでに一口目のジャーキーに手を伸ばしていた。
やがて、テーブルに全ての料理が並び終わり、夕食の準備が整う。クロはクレアをそっと自分の膝から抱き上げ、小さな皿ごとテーブルの上へ移した。
「クレア、こちらですよ。お肉多めです」
その言葉にクレアはぱっと顔を輝かせ、すぐに前足を揃えてぺこりと一礼。
「ありがとうございます。……では、いただきます」
クロはその様子を見届け、静かに手を合わせた。
「いただきます」
湯気の立つ皿が温かく、笑い声の混ざる食卓には、今日一日の終わりを告げる穏やかな気配が、静かに流れていた。
けれど、食事が進む中で――ひとつの異変が起きた。
クロがふと視線を落とすと、クレアの小さな皿の上で、キャベツやピーマンなどの野菜が隅へと押しやられていた。
「……クレア」
「なんですか、クロ様?」
澄ました顔で振り返るクレアに、クロはほんのわずか目を細める。
「なにをしているんです?」
静かに問いながら皿を覗き込む。そこには、肉と野菜が見事に“仕分け”されていた。
「なぜ、野菜だけ分けているんです?」
「え? あまりおいしくないからです」
何の悪気もない、真顔での返答だった。
クロはしばし無言になる。言葉が見つからないというより、苦笑するしかないような沈黙だった。
そこに、アヤコから声が飛ぶ。
「クレア、ダメだよ」
ソファから身を乗り出しながら、アヤコは穏やかながらも真剣な口調で言い添えた。
「あとで食べるならいいけど、残すつもりなら――次からご飯、出さないよ?」
「えっ……食べないとダメですか? あんまりおいしくないんですけど……」
しょんぼりとした声で返すクレアに、アヤコは優しく微笑みながら言葉を重ねる。
「もったいないよ。せっかくのご飯だし、好き嫌いしてると大きくなれないよ?」
「……わかりました。あとで、食べます……たぶん」
しゅんとしたまま、クレアは肉だけを慎重につまみ上げるように口に運ぶ。その姿に、クロとアヤコはつい、口元をほころばせた。
「一緒に食べると美味しいですよ。食感も楽しみのひとつです」
クロが静かにそう声をかけると、クレアは少しだけ首をかしげた。
「でも……複雑になるんです。美味しいと、美味しくないが混ざったみたいで……」
その返答に、クロは思わず考え込むように腕を組んだ。
「なるほど。まだ幼いのと、進化して味覚が繊細になったばかりなので、味の調和が感じられていないのかもしれませんね……残念です。あの野菜と肉のバランス、実に良いのに」
まるで学術的な研究結果のように語るクロに、アヤコが笑いながら茶化す。
「クロ、それほとんど自分の感想じゃん」
「感想ではなく事実です」
真顔で返すクロに、アヤコは吹き出すように笑い、クレアはもぐもぐと――それでも、しっかりと野菜を一枚、口に運んだ。