家族の時間と湯気の中の練習
ジャンクショップに戻ると、店内では閉店作業が進んでいた。日が傾き始めた工房の空気は、どこかまったりとしていて、金属の焼けた匂いと油の残り香が漂っている。
「ただいま帰りました」
クロが静かにそう告げると、奥のカウンターから顔を出したシゲルが、眉ひとつ動かさずに応じた。
「……ここは玄関じゃねぇ。家族なら玄関から入れ」
その言葉に、クロは目を細める。少しだけ間を置き――ふっと微笑みを浮かべて答えた。
「はい、お父さん」
不意に、作業室の方から元気な声が響く。
「クロ、おかえり~! あと注文ありがと~! 請求は完成してから送るからね~!」
赤髪を跳ねさせながら、アヤコが工具を片手に飛び出してくる。スパナを投げ捨てる勢いでクロに駆け寄り、そのまま勢いよく抱きついた。
「いや~、ほんと儲けさせてくれるいい妹だよ、まったく~」
「そうですか。では、期待してますよ。ただ――家族割、してくださいね」
肩に乗っていたクレアが、呆れたように小さくため息をついた。けれど、クロはその反応にも動じず、相変わらず穏やかな微笑みを浮かべたままだった。そんなやりとりを、シゲルは特に何も言わずに聞き流していた。トレーに工具を収める手を止めることなく、ただ口元だけが、わずかに緩んでいた。
やがて、クロはクレアと共に風呂場へと向かった。湿り気を帯びた空気に包まれながら、湯気がゆるやかに立ちのぼる。
湯船に肩まで浸かったクロの隣で、クレアも専用の桶に身体を沈め、ぬくもりに目を細めている。静かに揺れる湯面と、満ちていく心地よい熱。室内には、柔らかな静けさが漂っていた。
けれど、その空気を破るように、クロがふいに声を上げる。
「クレア、泳ぎの練習をしましょう。両足で水をかいて、顔は水面に出したまま。沈んでも、死にませんから――まずは、やってみましょう」
湯気の中、クロが静かに声をかける。その表情は、どこまでも真剣だった。
クレアは小さく瞬きをしてから、こくりと頷く。
「……はい」
返事のあと、桶の縁からぴょんと身を乗り出す。恐る恐る湯船へと足を踏み入れ、ぴくりと尻尾を立てたまま前足で湯面をたしかめる。
やがて――両足を一生懸命動かし始めた。
ばちゃ、ばちゃ。水音を立てながら、細い脚が水をかく。湯の中でふわりと浮いた体は、わずかに前へと進みかけて――
ぽちゃん。
あっけなく沈んだ。
「……あ」
すぐさまクロが手を差し伸べ、湯の底からクレアの体をそっと引き上げる。濡れそぼった毛並みのまま、クレアは静かにその腕に収まった。そして、何事もなかったように――いつもの桶に戻される。
「……確かに、死にはしませんが。思うように動けないというのは……気持ち悪いですね。宇宙とは……違います」
ぬくもりの残る桶の中で、クレアは小さく身体を丸めながら、ぽつりと呟いた。耳も尻尾もびしょ濡れで、どこか不満げに。
「ゆっくり練習しましょうか。溺れないなら、いくらでも練習できます」
そう言ってクロは湯に肩まで沈み、軽く息をついた。
「あ~~~……気持ちいい」
その一言が、湯気の中に溶けていく。
その横で、桶の中のクレアは口をとがらせながら、じっとクロの横顔を見つめていた。不満とも諦めともつかないその視線に気づいてか、クロは湯船の中で軽く目を閉じたまま、何も言わなかった。
湯上がり後、クロはふわりとしたタオル地のカラフルなパジャマに袖を通す。アヤコのお古――派手すぎる配色も、気にしないようにしていた。
洗面所を出ると、ちょうどアヤコがバスタオルを抱えて入れ替わる。
「おっ、ナイスタイミング~! 交代だね~」
明るく笑いながら浴室へ消えていくその背を見送り、クロはリビングへと足を運んだ。
室内では、シゲルがソファに腰を下ろし、モニター越しに流れるスポーツ中継を流し見しながら、手元のデータを整理していた。目線は画面に向けたまま、作業の手は止めない。
「……あがりました。今日は、すみませんでした」
クロが立ち止まり、静かにそう声をかける。
シゲルは視線を動かさぬまま、ぼそりと返す。
「……ま、仕方ねぇよ。いずれお前のことは相談するつもりだった。遅かれ早かれだ」
軽く肩をすくめたあと、視線をモニターから外し、ようやくクロの方を見た。
「それはそれとして――今日は、儲けたか? 俺の恥ずかしい過去を帳消しにできるくらいには」
わずかに口元を釣り上げながら、シゲルが意地の悪いような目を細める。
クロはその視線をまっすぐに受け止め、ほんのわずかに唇を持ち上げる。いたずら心を忍ばせたような、穏やかな笑みだった。
「確定分だけで、5,000万C。資源や物資も大量に回収済みで、現在査定待ちです。それと――軍用の大型輸送艦を、二隻ほど確保しました」
さらりと告げた報告に、シゲルの目がぐっと見開かれる。
「……お前は最高だ!」
手元のデータ端末を放り出すようにして、立ち上がらんばかりの勢いで叫ぶ。そして、その顔には少年のような――いや、商人の顔が浮かんでいた。
「マーケットに行くタイミングで良い物を……! これで今まで以上に仕入れができるし、あれも、これも、交渉が……ふふっ、ふははははっ……!」
嬉々とした表情のまま、完全に“自分の世界”へと入り込んでいく。クロは微かに肩を揺らし、ソファに腰を下ろした。
その肩から、クレアがひらりと降りる。そして、ためらいなくクロの太ももに体を預け、くたりと寝そべった。
「……だらけてますね」
湯上がりのせいか、どこか脱力した声だった。けれど、それは責めるような響きではなく――むしろ、心地よさの裏返しのようにも聞こえた。
「家とは、そういうものでは? お父さんがそうですし」
クロは少し驚いたように目を見開き――そして、ふっと微笑む。
「……そうですね。正解です」
そのまま視線をモニターに向ける。画面の中では、選手たちが歓声に包まれながら走り、跳び、汗を流していた。それを、クロは静かに眺めていた。戦いのない世界で、ただ“全力”を尽くす姿を――どこか、遠いもののように。




