分岐の釣果と無風の選別
クロは、トイレの方を鋭く見張る四人組のもとへと、姿を消したまま静かに歩を進めた。空気を揺らすことなく、その気配を殺しながら。
その一角に集まった男たちは、明らかに苛立ちを募らせていた。
「いつになったら出てくるんだ……!」
一人が吐き捨てるように言葉をこぼす。その声には、焦りと苛立ち、そして――どこか、恐怖に似た色が混ざっていた。
「知りませんよ。トイレに押し入るわけにもいきませんし……」
やや怯えたように返す仲間に対し、最も異様な風貌の男が牙を剥いた。頬の一部が陥没し、顔の輪郭がひしゃげたその男――アレクだった。
「あいつは俺の顔を……こんなにしやがったんだぞ……! 殺してやらなきゃ、気が済まねぇ……!」
その目は怒りと怨念に濁り、常軌を逸した光を放っている。
「でも……兄貴、顔は……ほら、直せるって言ってたじゃないですか」
控えめな声でそう言った男に、アレクは金切り声のような怒鳴りを返した。
「金がねぇんだよ!! ギルドは俺を追放しやがった! 保釈金で、手持ちなんて吹っ飛んだんだよ!」
肩を震わせながら、アレクは血走った目を公園に向けた。その視線の先には、まだ現れぬクロの気配がある。
「……もう、道は一つしかねぇ。海賊に転身するしかない。けど、その前に――クロだけは、殺す」
それは、決意というにはあまりに歪んだ執着だった。もはや復讐心だけが彼を動かしている。それは、燃え滓のようにくすぶる感情の先にあるのは、目的ではなく怨念――もはや、復讐心だけが彼の足を動かしていた。
そんな男を、クロは無言のまま背後から見ていた。気配を殺し、姿を隠したまま。ほんの数メートルの距離にいながらも、その存在に誰ひとり気づいていない。
(ここで殺して、塵に変えてしまえば、それで済む)
頭をよぎるのは、あまりにも即物的な結論だった。たった一撃で終わる。迷う要素など、本来ならひとつもない。
けれど、クロはすぐには動かなかった。
(……さすがに、ここはまずい)
周囲には、子どもたちの無邪気な笑い声が響いていた。ベンチでは、親たちが穏やかに談笑しながら午後のひとときを過ごしている。
砂埃の舞うグラウンド。乾いた芝生。浮かぶ雲と、微かに揺れる木の葉。そのすべてが、何の変哲もない“日常”を形作っていた。
だからこそ――クロは決断する。
(ここで、壊すわけにはいかない。だけど……)
その一歩は、何よりも静かで――けれど、確かなものだった。空気の膜を剥ぐように、透明化を解除する。音もなく、気配だけがその場に満ちていった。
「……何か用ですか?」
その声は、背後からふわりと降ってきた。威圧も、怒気もない。けれど、染み込むような硬さがあった。
アレクたちが、一斉に振り返った。そこに立っていたのは、つい先ほどまでトイレにいるはずだった少女――クロ・レッドライン。
さっきまで、確かに“後ろにいなかった”はずの存在。けれど今、その空白を埋めるように、ただ静かに――犬を肩に載せそこに、立っていた。
空気が、一瞬で張りつめる。公園の柔らかな陽光さえ、その輪郭を曇らせたように思えるほどだった。
その気配は、明らかに“日常”の外側にあった。誰もが無意識に目を逸らしたくなる異質――圧。
「出てこられたんですね。……変態さん」
クロの声は平坦だった。淡々と告げるその言葉には、感情の起伏というものがほとんど感じられない。
「さて。ここでは、何かと目立ちます。人けのない場所へ――案内してもらえますか?」
一拍置き、淡い笑みすら浮かべず、続けた。
「もちろん、今すぐ私から離れるという選択肢もあります。……生きるか、死ぬかの分かれ道です。ゆっくり、選んでください」
言葉の端々に、怒気も挑発もない。ただ、平坦で、冷ややかで――それでいて、はっきりと感じ取れるものがあった。
それは“殺す”という意思だった。声に乗せられたわけではない。目に見えたわけでもない。
けれど、アレクたちは理解した。喉元に、確かに見えない刃が突きつけられている。冗談ではなく、この目の前の少女は――本気で命を奪いにきている。
逃げ場のない現実が、冷たいものとなって足元から這い上がってくる。それに耐えきれず、アレクたちは硬直を解いた。
「……さて、どうします?」
クロの声は穏やかで、なおかつ容赦がなかった。
「案内していただければ――苦しまずに、殺してあげます。ここから去り、二度と関わらないのなら……生きることも、できます」
命の分岐を指し示すその言葉は、あまりにも平坦だった。それがかえって、アレクたちの背筋を凍らせる。
一拍の静寂の後、誰よりも早く動いたのはアレク自身だった。言葉も残さず、踵を返して走り出す。仲間たちも、慌ててその後に続いた。
彼らが選んだのは、“生”だった。背中を向けて逃げるという、最低限の理性が残っているうちに。
その様子を、クレアは鋭い目で睨みながら見送っていた。獣としての威嚇を解かぬまま、ふと問いかける。
「……良かったのですか?」
問いには、わずかな驚きと、少しだけ安堵が混じっていた。
「はい。殺すのは簡単ですが……まあ、私も“学んだ”ということです」
クロは静かに答える。その表情は無風の水面のように整っていて、どこにも後悔の色はなかった。
「もし、ここに誰もいなければ?」
「殺してましたね。すぐに塵にして」
即答だった。しかも、それを躊躇なく言える程度には、本心だった。
クレアは、じっとその顔を見上げる。けれど、口には出さなかった。
(……学んでないのでは?)
そんな疑念を胸にしまい込んだまま、クレアは小さく息をついた。
そしてふたりは、何事もなかったかのように背を向けて――暮れかけた光の中、家路についた。