狙われた公園と、姿なき獲物
クロの曖昧な説明を、クレアは必死に咀嚼するようにして自分の内に落とし込んでいった。
(消える。自分の周囲の空間を、膜のように歪ませて――お風呂で泡に包まれる、あの感覚を想像すれば……)
不安げに目を伏せながらも、クレアは自身の意識を集中させる。その様子を、クロは静かに見守っていた。
(そんなにわかりにくいか……。いや、わかりにくいよな。俺にとっては呼吸と同じ――『どうやって息をしているの?』って聞かれるようなもんだから……)
クロが思考の海に沈みかけたその時だった。ふと、目の端に違和感が走る。
気配が――揺らいだ。クレアの姿が、すうっと薄れていく。まるで空気と溶け合うように、黒い毛並みが輪郭を失い、そして――見えなくなった。
「……クレア?」
思わず名前を呼ぶ。けれど返答はない。姿も、声も、気配さえも消えかけていた。けれど、わずかに残る痕跡が示している。
そこに、確かに“いる”。
「やったな……成功してる。やっぱり、私の説明がよかったんだな」
自画自賛のような独り言に、空間の一角がわずかに震えた。次の瞬間、淡く歪んだ気流の中から、クレアの声がふわりと漏れ出す。
「いえ。アヤコお姉ちゃんとお風呂に入った時の、泡まみれの感覚でやってみたんです。……クロ様の説明は、難しかったので」
その言葉に、クロはわずかにまばたいた。自分の中では当たり前の感覚――それを伝えることの難しさに、静かに改めて気づかされる。
「……そうですか。良かったです。ちゃんと、できましたね」
口元にだけ、微かな笑みが浮かぶ。クレアの力。それは、確かに芽吹きはじめていた。
そして同時に――クロの胸に、じんわりと温かいものが灯る。伝わらないのなら、伝わる形にすればいい。それが、教えるということならば。
(……なるほど。人間は“泡まみれ”で、空間操作を学ぶのか)
呆れと感心がない交ぜになった思いを胸に、クロはそっと目を細める。ほんの少しだけ、あたたかいものが胸の奥をくすぐった。
「クレア。肩に乗ってください」
静かに声をかけると、空気の層がかすかに揺れた。次の瞬間、右肩にふわりと重みが加わる。豆柴ほどの小さな存在――それは確かに、そこに“いる”。
クロはそっと息を吸い込み、身体の輪郭を空間に溶かす。空気がわずかに歪み、視界の中から自分自身の姿が消えていく。
「……出ます。さて、なにが釣れたかな」
誰に聞かせるでもなく、ひとりごとのように呟いたクロは、静かにトイレの戸を開けた。
外に出ると、そこには穏やかな日常の光景が広がっていた。子どもたちが元気に走り回り、その声に笑みを浮かべる親たち。談笑しながら見守る彼らの傍らに――不自然な存在がひとつ、混ざっていた。
鋭い視線と無駄のない所作。公園には似つかわしくない、明らかに“それ”とわかる者たち。ハンターだ。
「あいつ等ですね。しかし……ハンター?」
クロが呟くと、肩の上の空気がわずかに震える。クレアの声が、静かに届いた。
「グレゴさんが、私たちの護衛に付けたんでしょうか?」
「いえ。私ですよ。……要らないことは、一番よくわかっているはずです。それに――どこかで見たような、見ていないような……」
思案を巡らせるクロの視線の先に、新たな人影が加わる。遅れて合流してきたその男を見た瞬間、クロの表情がわずかに引き締まった。
顔面の左頬が深く陥没し、顔全体が“くの字”の逆を描くように歪んでいる。人相を保っているのが不思議なほどの変形――けれど、記憶の中にある特徴と、確かに一致していた。
「ああ。変態と、その取り巻きですか」
ごく自然に、嫌悪の色を滲ませて言い放つ。
「……変態?」
クレアが小首を傾けながら、ぽつりと反応する。その声には、純粋な疑問と、かすかに滲んだ警戒の色が混ざっていた。
「ええ。以前、私を攫って――いかがわしいことをしようとした連中です」
クロは淡々と告げる。
「私がビンタ一発でギルドの壁を犠牲にして黙らせましたけど、本来なら今ごろ拘束されているはずなんですけどね……保釈でもされたんでしょうか」
その口調に感情の起伏はなかった。けれど、その奥に流れるものは――決して穏やかなものではなかった。
「クロ様になんてことを……!」
肩の上で、クレアの声が震える。怒りと混乱とが絡み合い、鋭い感情となって響いた。
「制裁はしたんですけどね。……どうやら、まだ足りていなかったようです」
クロは静かに目を伏せた。その声音には、揺らぎも熱もない。ただ、風が止む直前のような、張りつめた静寂だけがそこにあった。