釣り人の策と透明の術
クロはギルドを出て、静かな通りを歩き出す。夕暮れに差しかかる街並みを背に、クレアがぽつりと尋ねた。
「クロ様、転移で帰らないんですか?」
「帰りません。帰りはなるべく歩いて帰る方が、気分がいいんです。それに――今日は釣りもできそうですよ」
何気なく返された言葉に、クレアは小首を傾げる。
「釣りって……なんです?」
「簡単に言うと、餌を紐の先に括りつけて、水の中に垂らします。獲物がその餌に食いついたら――引き上げて、捕まえるんです」
クレアは「なるほど」と素直に頷きつつ、肩からクロの顔を見る。クロの瞳は前方だけでなく、背後にも静かに意識を向けていた。気配があった。ほんのりとだが、嫌なものが、後方に。
「……今回は、私たちが“餌”ですね。水がコロニーだとすれば、釣り上げようとしてるのは――あの気配の“獲物”です」
「ということは……」
「そう。こちらから仕掛ける必要はありません。ゆっくり歩くことで、相手の動きを誘導できます」
クロは、あえて“釣り”という比喩を選んでいた。このまま無防備に歩き続ければ、背後の敵が焦れて動く。釣り糸を垂らすには、まず水面を静かに揺らす必要がある。――それは、狩人の目をした釣り人の策略だった。
「だから、少し遠回りして、公園にでも行こうかと思ってます」
さらりとそう告げたクロは、ふと視線を横に向け、クレアを見やる。
「……何が釣れるか、楽しみですね」
そのまま、気の向くままに足を進めた。途中、クレアにコロニーの印象を尋ねたり、街並みを覚えさせるように適当な道を選んで歩いていく。
明確な目的のないその行動は、背後に潜む気配の主をじわじわと焦らせていた。しかし――そんなことはまるで意に介さず、クロはただのんびりと、気ままに歩き続ける。
そうして一時間ほどが過ぎたころ、公園の入口にたどり着いた。そこでは、無邪気に駆け回る子どもたちの声が響き、傍らでは保護者たちが和やかに会話を交わしていた。人工的なコロニーの空間にあっても、そこには確かに“日常”が息づいていた。
「さて――トイレに行きましょうか」
不意に呟かれたその一言に、クレアは首を傾げた。
「クロ様……トイレ、しないのでは?」
「ええ、しませんよ。ただ、姿を消すだけです」
さらりと返された言葉に、クレアは「???」という顔のままついていく。クロは人気のない公園の隅にある女性用トイレへと入り、個室のひとつに静かに入った。
扉が閉まると同時に、クロは右肩からクレアをひょいと持ち上げ、便座の上にそっと座らせる。
「クレア。今日から、貴方にもできるようになってほしいことがあります」
そんな言葉を聞き、クレアの耳がぴくりと動いた。
「は、はいっ!」
軽く背筋を伸ばしたクレアに、クロは淡々と説明を始める。
「今から、周囲の空間を歪ませて、姿を透明に“見せる”技術を見せます。実際に消えるのではなく、そう“見せる”んです」
「ど、どうやってやるんですか!?」
目を丸くするクレアの前で、クロは静かに両手を下ろし、淡く呼吸を整えた。個室の薄暗がりの中で、空気が微かに揺らぎ始める。
まるで陽炎のように空間がぼやけ、クロの輪郭が徐々に淡くなっていく。
「……こうして、“見えなくなる”という意識を、自分の周囲に広げていくと――こうなります」
空間が歪んでいく。クロの輪郭がじわじわと薄れ、やがて完全に視界から消え去った――かと思うと、すぐにまた静かに姿を現す。
「……どうですか?」
「……全くわかりません」
間髪を入れずに返された一言に、クロの動きがぴたりと止まる。そのまま、じっとクレアを見下ろした。
「……そうですか」
「“そうですか”じゃないですっ!」
小さな前脚をぷるぷると震わせながら、クレアが声を上げる。その瞳には純粋な困惑と、少しの苛立ちが滲んでいた。
「クロ様、説明が下手すぎます! もっとこう、段階を踏んで……言い方とか、順序とかあるでしょう!? “空間を歪ませて見えなくなる”って、意味わかりませんから!」
「……努力します」
反省しているような、していないような。クロの声音は、いつもと変わらず平坦だった。
そして、少しだけ考えるように間を置いてから、静かに口を開く。
「でも……感覚でやってきたことを言語化するのって、難しいんですよ」
その言葉には、ほんのわずかに困ったような色が混じっていた。
「たとえるなら……体の外側に、薄い膜のようなものを張る感覚です。見えないけれど、意識を外に伸ばして、その膜で自分を包むような――そんな感じです」
抽象的な説明ではあったが、クロなりに真剣に伝えようとしているのは伝わった。けれど、クレアは眉を寄せて、唸るように言った。
「うう……クロ様、もっと“常識のある言い回し”ってものをですね……」
「……難しいですね。常識って、人によって違いますから」
淡々と返すクロに、クレアはぎゅっと口を引き結ぶと、改めて便座の上で姿勢を正した。
「わかりました。やってみます!」
次の瞬間、空気がぴくりと震えた。