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人魚と姫 〜私達が結婚すると、世界が救われる!?〜  作者:
第四章 ドワーフの国

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72. あなたの花の咲くべき場所

 サクラたちがイグニス・コアとの死闘を繰り広げている、その時。

 アヤメ、スフェーン、カナの三人は、ビュランの鍛冶場に到着していた。


 鍛冶場に入るとアヤメの目に入ったのは、炉の前に膝をつき、苦しげに呻くビュランの姿だった。金床には、熱を失いつつある、一見すると整った剣が置かれている。しかし、ビュランは両手で自らの髪をぐしゃぐしゃに掴み、その剣を凝視していた。

 その口から漏れるうめき声は、よく聞けば「なぜだ」「ありえない」などと、自問自答と絶望の言葉を繰り返していた。

 アヤメには、その周囲に「瘴気」が渦巻いているのが確かに感じられ、まるで近づいてくるあらゆる者を拒絶しているようにも思えた。

 しかしその強烈な負の力の奥底で、アヤメは逆に、何かが自分に助けを求め、強く呼び寄せているような、不思議な感覚を覚えた。


「人魚の里で、ルリお姉様は『負の魔力』に襲われたとお話ししていました。私、思っていたことがありますの……」


 アヤメは独り言のようにそう呟くと、徐ろにキウイからコーグ公国に入国する際に受け取った、瘴気の結界のペンダントを首から取り外した。


「人魚の里で感じた『負の魔力』……あれは、体内に入ると健康を害しそうという雰囲気を感じましたが、私に直接の害をなしそうという思いは、不思議としなかったのです。その時から温めていた予想……それが今、確信に変わりました。――『聖なる巫女』の私は、『負の魔力』、すなわち『瘴気』に耐性があります」

「……アヤメ?」


 アヤメのその静かで揺るぎない様子に、スフェーンの心はざわめきを覚えた。アヤメは、首から外した「瘴気」の結界のペンダントを、有無を言わさぬ力でカナの手に押し付けるように渡した。


「……カナ伯爵様、こちらのペンダントは『瘴気』の結界の核です。あなたに託します。この石はスフェーンにとっては毒のようなものなので、絶対に触れないように気をつけてください。……私は、一人で行きます」


 ペンダントをカナに押し付けたアヤメは、二人に背を向け、息を止めて恐る恐る離れた。そして、結界の範囲から外に出ると、アヤメは意を決して、ゆっくりと深く深呼吸をした。


「ああ、やはり……この『瘴気』は、私には……無毒です。スフェーン、あなたは結界から出てはいけませんよ」


 アヤメは少し離れたところで二人を振り返り、静かに微笑んだ。その瞳には、一切の迷いがなかった。


「では、私はビュラン伯爵を救って参ります」


 ただ、優しさに満ちた笑みを浮かべたアヤメは、ビュランの方に向かって、ゆっくりと進み始めた。


「アヤメ、ダメよ、待って……! あなたは、私がっ……!」


 スフェーンが悲鳴のような声を上げ、思わずアヤメの腕を掴もうと手を伸ばす。その必死な声に、アヤメは足を止め、優しく振り返った。

 その手に持つ、フォルナ公爵の館でキウイに渡されたマカライトの石を一瞥すると、力を込めて握りしめ直す。そして、スフェーンの方をまっすぐ見て、ただ静かに微笑んだ。


「大丈夫です。私にはキウイさんの『切り札』の結界もありますから。スフェーン、私を……信じてください」


 その、スフェーンに対する絶対的な信頼を込めた瞳に見つめられ、スフェーンは、はっと息をのんだ。伸ばしかけた手が、行き場をなくして宙で止まる。


―― 私のことは気にせず、あなたが一番いいと思う選択を選びなさい


 昨夜、自分がアヤメにかけた言葉が、スフェーンの脳裏によみがえる。

 そうだ、この子の覚悟を信じると決めたのだ。

 スフェーンは、伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、代わりに胸の前で強く握りしめた。その瞳は不安に揺れながらも、口をきゅっと引き結び、もうアヤメを制止する言葉は紡がなかった。

 スフェーンのその様子を確認したアヤメは、再びビュランへと歩みを進めた。


「スフェーン様……」


 そんなスフェーンの葛藤に気づいたカナが、そっとスフェーンの背中に手を当てた。


「……アヤメ様を、信じましょう」


 スフェーンは、その言葉に、不安を押し殺すように小さく頷くことしかできなかった。




 ビュランの心の中は、逃れられない怒りに支配されていた。

 何故こんなにも、世界の全てが憎いのか。それすらわからず、ビュランは怒りの言葉を吐き出し続ける。


「ありえない」


 そうだ、自分が鍛冶を失敗するなど、あってはならないことだ。これは誰かの悪意に違いない。


「あいつら」


 今まで順調だった。あのナイフを手に入れるまでは。


「許さない」


 私が苦労の末に手に入れたこの地位を奪うなら、私は決して容赦しない。


 その時、ビュランは目の前に、眩い光のようなものが見えた気がした。

 怒りに燃える瞳でよく見ると、それは人だった。髪も瞳も純白の、神聖さすら感じる、年端も行かないような娘。


 その人物は、ビュランの記憶の隅に残っていた。自分の言葉に言い返しもせず、ただ俯いて抱きかかえられていた儚い小娘。弱く、庇護されないと生きていけないような様子に、苛立ちすら感じた記憶がある。

 その娘が、まっすぐに自分の方を見て、迷いなく近づいてくる。それを本能が拒否しろと言うように、ビュランの鼓動は激しく波打った。


「来るな……っ」


 ビュランが絞り出すように声を出す。しかしその娘はこちらの声など聞こえないかのように、歩みを止めない。

 なぜかその純粋な瞳を見るだけで、身体の奥底から制御不能な怒りが湧き上がる。この娘を拒絶しろ、憎めと、何者かの強い意志に心を塗りつぶされているように、ビュランの身体は本能的にその存在を拒否していた。


「止まれ、やめろっ!」


 ビュランの脳は激しく「逃げろ」と警告を出している。しかし、神聖な鎖に繋がれたようにその瞳に射止められたビュランの身体は、石のように動かない。

 やがてアヤメはビュランの前にそっと膝をつき、その華奢な腕で、屈強なビュランの身体を力強く、そして優しく抱きしめた。

 ふわりと、鉄と汗の匂いしかしないこの鍛冶場にはおよそ不釣り合いな、甘く優しい花の香りが、ビュランの鼻腔をくすぐった。


「ああ……あああああっ! やめろ、触るなっ、私にっ」


 ビュランは獣のように声を上げ、抜け出そうと必死に暴れる。しかし、その細い腕を振りほどくことは、なぜか叶わなかった。身体が鉛のように重く、まるで地面に縫い付けられたようだった。抗おうとするほど、胸の奥で何かが悲鳴を上げているような、妙な感覚を覚えた。


「……お花って、自分に合った場所でしか咲けないんです」


 アヤメの囁きが、ビュランの心を温かく包み込む。


「最適な土壌に、それぞれに合った気候……咲いた後も、適切な量のお水をあげないと、すぐに枯れてしまうのです」

「知らない、やめろっ」


 この言葉を聞いてはいけないと、ビュランの中の誰かが、耳の奥で悲鳴のように叫んでいる。だが、アヤメの優しい声は、その叫びを打ち消すように、ビュランの心に直接囁きかけてくる。


「ねえ、ビュラン伯爵様……。あなたのお花は、どこだったら綺麗に咲きますか……?」


 ビュランの心の奥底で、その言葉の続き、自分が望んでいた答えを求めている自分がいた。


「だって、そんな、私、私は……っ」


 全てを捨ててでも、その先の一言が聞きたかった。


「ここじゃなくても……いいんじゃないですか? 私、ちょうど、腕のいい金属細工師を探していますの」


 アヤメの囁きは、そっとビュランの心に寄り添い、そして光を灯した。

 自分の愛することを、心から求められている。自分の居場所は、ここではない。そこで、自分らしく輝ける場所で、咲き誇りたい。ビュランは今、心からそう願った。


「可愛らしくて、それでいて力強い。私、ビュラン伯爵様の細工に、心から惚れ込みましたのよ」


 アヤメの言葉が、まるで光のように、ビュランの心に巣食った闇を晴らしていく。


「ああ……っ、私っ……、あたしは……」


 その、アヤメの優しい言葉。

 その言葉が、ビュランの胸の奥に深く刺さっていた棘を、一気に引き抜いた。重かった身体から圧迫感が消え失せ、心が羽が生えたように軽くなっていくのを感じた。


「あたしっ、本当はかわいいものを、たくさん創りたい……。でもっ、皆が品評会で、あたしを選んでくれたから……っ」


 ビュランの肩に、長年ずっと伸し掛かっていた重圧が、溶けるように軽くなっていく。


「みんなが、あたしに期待してるっ、それに応えないと、いけない……っ」


 胸のうちにあった苦しみを吐き出す。隠していた本音を吐き出せば吐き出すほど、心が、軽く、軽くなっていく。


「ビュラン伯爵様、できることと、やらないといけないことは、別なんですのよ」


 アヤメは、優しく、的確に、ビュランが今一番聞きたかった言葉を囁く。


「私も巫女としてのお役目があります。私は今は、それを嫌だとは思っていないんですけれど……それでも、親愛するスフェーンが、『嫌なら別にやらなくていい』って言ってくれた時……肩の重荷が降りて、本当に心から救われたのを感じました」


 深く共感に満ちたアヤメの言葉に、ビュランは温かく包まれた。


「あたし……いいのかなっ、あたしが本当にやりたいことを、求めて……っ」


 ビュランの引き締まった腕が、アヤメの体温を確かめるように抱きしめ返す。


「ええ、いいんですのよ。一緒に探しましょう? ビュラン伯爵様が一番綺麗に咲き誇れる、その場所を」


 その言葉は、熱く、強く、ビュランの心の奥底の枷を打ち砕いた。

 心を絶えず満たしていた暴れるような怒りの感情が、ゆっくりと、確実になくなってゆく。それは、アヤメの細い身体から伝わる確かな体温に、まるで溶かされるように消えていった。

 胸の奥に蔓延っていた憎しみや重圧が、一気に軽やかな安堵に変わっていくのをビュランは感じた。それと同時に、辺り一面に溢れ出ていた「瘴気」もぴたりと止まった。

 鍛冶場を支配していた重苦しい空気が消え失せ、ビュランは代わりに残った静寂と、アヤメの優しい匂いに包まれた。伯爵の爵位を得てからずっと苦しく感じていた呼吸が、今までよりずっとずっと楽に感じた。

 ビュランは抱きしめていた腕をゆるめ、名残惜しむようにそっと身体を離すと、素直な光を湛えた銀色の瞳で、アヤメをまっすぐ見つめた。


「ありがとう……あんた、ええと……」

「アヤメと申しますわ、ビュラン伯爵様」


 そう言って、アヤメは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


「伯爵なんて……本当は、そんな柄じゃないのさ。ビュランでいいよ、アヤメ」

「ふふっ、ビュラン……。あなたって、本来はそういう喋り方をする人でしたのね」


 アヤメがそう言うと、ビュランは少し顔を赤らめ、照れたように笑った。


「仕事中は、ちょっと……『スイッチ』が入っちまうのさ。仕事中は、怖いって言われたりもするけど、一応、こっちの方が素だよ」

「ふふ、どちらのビュランも、私……心から素敵だと思います」


 アヤメの、ビュランの全てを受け入れるその言葉に、ビュランも心からの笑みを返した。


「どちらも……ね。ふふ、あたし、そんな風に言われたのは初めてだよ」


 ビュランの瞳は、アヤメをまっすぐに、そして真摯に捉える。


「ありがとう、アヤメ。……あんたのおかげであたしは生まれ変わった気分だよ」


 ビュランが絞り出すようにお礼の言葉を言うと、アヤメは慈愛に満ちた優しさで微笑んだ。


 ビュランは闇から解放され、「瘴気」は完全に止まっていた。鍛冶場を支配していた重苦しい空気は消え失せ、温かい静寂が二人の間に流れる。

 その様子を、気に入らないとばかりに、憎悪の視線で見つめている「何か」がいた。だが、幸福な空気に包まれたビュランとアヤメは、そしてその様子を少し離れたところから安堵したように眺めるスフェーンとカナも、その不吉な影を認識することは、まだできなかった。






解放後のビュランのキャラ、いかがでしょうか。

本当は、かわいい子なんです……!

どうぞよろしくお願いします。

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