59. 愛のお説教
「ほら、こちらに来なさいな」
スフェーンはアヤメの手を引きながら、フォルナ公爵が用意してくれた客間の一室へと続くドアを潜った。アヤメの手を握るスフェーンの手は、ひどく傷ついたアヤメの心を癒したいという想いからか、優しさに満ちると同時に、絶対に離さないという強い意志も秘めていた。
アヤメ自身に心が深く傷ついている自覚はなく、本当は皆と一緒にビュラン伯爵をどのように「悪魔」から解放するかの相談をしたかった。しかしキウイに、アヤメの持つ結界でスフェーンを「瘴気」から守るように厳命されていたため、スフェーンの手を離すことはできない。それに、過保護だと感じつつも、自分を想うスフェーンの行動を拒むことはできなかった。
スフェーンは、部屋の中ほどにあるベッドに近づくと、ゆっくりと腰かけた。そして、納得いかない様子で立ち尽くすアヤメを、厳しくも優しい眼差しで見つめ、隣をぽんぽんと叩く。
「隣に座りなさい」
「スフェーン、私、本当に……」
「いいから」
スフェーンの有無を言わさぬ物言いに、観念したアヤメは言われた通りに隣に座る。するとスフェーンは、アヤメをそっと抱きしめた。
「やっぱり、お説教なんて、嘘じゃないですか」
「お説教」とは名ばかりの優しい抱擁に、アヤメは呆れたようにそう呟く。過保護だと思いながらも、その温かさに張り詰めていた心がふっと緩んでいくのを感じた。
「いいえ、これはお説教よ。私からの、愛のお説教なの」
スフェーンは目を閉じた。腕の中にある確かなアヤメの体温。それは何より愛おしくて、何にも代えがたい、スフェーンの宝物そのものだった。
「……ひどい顔して……ビュラン伯爵の言葉に、深く傷ついたのでしょう」
スフェーンはアヤメの髪を梳きながら、アヤメを心配するように囁く。アヤメは、スフェーンとは目を合わせず、どこか遠い目をしたまま応えた。
「いいえ……あの方に酷いことをしたのは私です。あのように感じる人がいることを、想像できなかった、私の責任ですし、甘んじて受け入れなければなりません。繊細に傷つく権利など、私にはないのです」
スフェーンは、アヤメの強すぎる責任感を、危うく感じていた。
「アヤメ……万人に受け入れられる作品なんてないわ。みんな、好きな色も、形も、それぞれなのだから……いいと思う人がいれば、悪いと思う人もいる……それは、当然のこと。それでも……自分を作った物を嫌いと言われたときに、傷つく権利は、誰にでもあるのよ」
スフェーンがそう言ってもなお、アヤメは納得のいっていない顔をしていた。
「……アヤメがビュラン伯爵を救いたいのは、何故なの?」
「それは、私が『聖なる巫女』で……」
スフェーンの問いにいつもの調子で応えるアヤメに、スフェーンはその唇をそっと指で抑え、言葉を止める。
「私が聞きたいのは、そういうことじゃないのよ」
唇に当てた指で、そのまま頬を優しく撫でる。
「その役目は、あなたが望んだわけではなく、勝手に与えられたものよ。あなたの気持ちとは、関係ないわ」
スフェーンは、ずっと思っていたことを話した。アヤメは『聖なる巫女』の役目に縛られているように感じていた。
「アヤメが重圧に感じているなら、『聖なる巫女』のお役目なんて捨ててしまいなさい。もしそうなっても、私はアヤメについていくし、例えそれで世界が滅びてしまっても、滅びた世界でアヤメと一緒に暮らすわ」
「スフェーン……」
スフェーンが紡ぐ重い愛の言葉は、心地よくアヤメを包み込んだ。アヤメは、自分が愛されていることを実感し、心の中にじんわりと温かい気持ちが広がるのを感じた。
「アヤメは、『聖なる巫女』じゃなかったら、私を助けようとしてくれなかったのかしら?」
「そんなこと……ありません!」
スフェーンの言葉に、アヤメは思わずスフェーンの瞳を見て応えた。アヤメの愛する、黄緑色の煌めく瞳が、アヤメを見据えていた。
「そう、そうでしょう。アヤメはきっと『聖なる巫女』のお役目がなくても、ビュラン伯爵の様子に心を痛めるはずよ。それは……何故かしら。あなたの、心の言葉を聞かせて?」
そう言いながら、スフェーンはアヤメの心に寄り添うように、そっとアヤメの胸に手を当てた。アヤメは、その手を握り返しながら、応える。
「私は……目の前で誰かが苦しむのに……耐えられないです。その人を私が救えるなら、何だってしてあげたい……皆が、笑顔になれる世界を、作りたいです」
「そう。それが、アヤメの心だわ」
スフェーンは優しく微笑む。
「それなら……アヤメのしないといけないことは、『悪魔に魅入られたビュラン伯爵の解放』ではないわね。ビュラン伯爵を笑顔にしないと」
「はい。……でも、彼女の怒りの対象そのものである私が、どうやって……」
アヤメが俯いて言うので、スフェーンは両手でアヤメの頬を包み込み、その顔を上げさせる。
「アヤメ。あなたの作った『刻凍ナイフ』……きっと、それそのものが、ビュラン伯爵の怒りの『原因』ではないわ。もともとビュラン伯爵の中にあった苦しみや悲しみを溢れさせる、最後の『きっかけ』だったのよ」
「きっかけ……」
アヤメはスフェーンの言うことを反芻するように呟く。スフェーンは、アヤメのことをぎゅっと抱きしめた。
「闇雲に言葉をかけても、きっとビュラン伯爵の心には届かないわ。アヤメ……辛い記憶かもしれないけど、思い出しましょう。ビュラン伯爵の怒りの言葉に、何かヒントがある筈よ」
スフェーンの言葉に、アヤメは目を閉じて思い起こす。頭の中で響くビュラン伯爵の怒りの言葉に、思わず身体が震える。でも今は、スフェーンが優しく抱きしめてくれている。その温かさが、記憶の中のビュラン伯爵の怒声から自分の心を守ってくれるような、そんな感覚を感じた。アヤメはその温かさに包まれながら、記憶の中のビュラン伯爵の言葉に耳を傾けた。
「私たち職人を、尊敬していない……と、怒りを露わにした後に……私たち職人は、言われた通りに、言われた物を作る、便利屋じゃ、ない……ビュラン伯爵様は、そう、言っていましたね」
そこまで思い出した後、アヤメはゆっくりと目を開けた。
「ビュラン伯爵様は、言われた通りに、言われた物を作るような……望まない仕事を……している?」
言葉に出してみたその予想は、アヤメの心のなかにすとんと綺麗に収まった。
「今日ビュラン伯爵様の鍛冶工房で、ビュラン伯爵様が投げつけてきた、可愛らしい髪留め……私、あれと同じデザインの物を、フィオーレ王国の雑貨屋で見たんです。『瘴気』の話を聞いたきっかけの雑貨屋で……」
アヤメは、記憶を反芻するように、宙に手を伸ばす。
あの時、なぜかその髪留めが気になって仕方がなかった。まるで何かに呼ばれるように、手を伸ばした瞬間、ぞわぞわ粟立つような感覚が指先から全身に広がった。それは『負の魔力』の残滓だった。まるで弾かれるように、反射的に手を離したのを覚えている。
「フィオーレ王国の雑貨屋にあった髪留めも、きっとビュラン伯爵様の作品だったのでしょう。あの時、髪留めに触れた時に感じた、何かを訴えかけてくるような感覚……あれはもしかしたら、ビュラン伯爵様の、助けを求める声だったのかもしれません」
アヤメは目の前にない髪留めを慈しむように、そっと手を握りしめた。
「あのように綺麗で繊細な金物細工、その仕事を愛していなければできないと思うのです」
花の意匠がついた、美しく繊細で、それでいて力強い髪飾り。それは、造り手による愛が込められた作品のように思えた。
「この国は、鍛冶の腕が全てとされているのでしたね……もしかしたら、ビュラン伯爵は、鍛冶の仕事がお好きでないのでしょうか……」
「あり得ない話ではないわね」
アヤメの呟きに、スフェーンも静かに頷いた。
「私も飾りを造るのが好きだから、わかる気がするの……稼ぐためだけに望まないものを造り続けないといけないのなら、それは魂がすり減っていくようなものだわ」
アヤメの髪の毛を梳きながら、スフェーンは続けた。
「もしそれが本当なら、ビュラン伯爵はずっと苦しんでいたのかもしれないわね……」
その言葉に、アヤメはビュラン伯爵の苦しみを想像し、胸が締め付けられるような気がした。
「……でも、私たちはビュラン伯爵のことを知らなすぎるわ。その予想が真実かは、情報が少なくて、まだ判断できるに足らない。もうすぐ夕飯だから、その時にフォルナ公爵の意見も伺ってみましょう」
そう言いながら、スフェーンはアヤメの頬に手をかける。アヤメの瞳には、もう恐怖や迷いはないようだった。
「いい顔になったわ、アヤメ」
「ふふ、スフェーンの『愛のお説教』のおかげですね」
そのままスフェーンは、アヤメの唇にそっとキスをした。優しい、それでいて確かな愛を込めたキス。アヤメはその温かさに包まれて、全身から力が抜けていくような感覚を覚えた。そして、心がじんわりと温かいものに満たされていくのを感じた。
こういう、百合のイチャイチャシーンだけを一生書いていたい……




