41.5. 《幕間》オニキスの家出
「むー……? なんか、オニキス母さまが来るみたい」
結婚式から数日後、ルリがいつものように部屋にある海水の水場に手を翳したまま、不思議そうに呟いた。
「オニキスさんから連絡がきたの?」
ルリが水場から魔法で思念を飛ばして、人魚の里に住む家族たちと連絡を取り合っているのは、もはや日常の光景だった。
「そうなの。いま、連絡がきて……」
「それでは、ドレスの用意をお願いしないとね。パールさんもご一緒かしら?」
ルリの両親、オニキスさんとパールさんはとても仲が良く、いつも二人で一緒にいる。なので、今回も当然二人で来るものと思った。
「それが、一人みたいなの……」
ルリが少し不安そうにそう言うと、私の胸に小さな波紋が広がった。
「そうなの? 珍しいわね……。ひとまず、一人分のドレスをチェリーにお願いするわね」
珍しく一人で行動しているオニキスさん。そして、ルリの心配そうな様子に、私は嫌な予感を感じずにはいられなかった。
「しばらく、置いてほしい……」
ほどなくしてそう呟きながら現れたオニキスさんは、無表情なのはいつものことだが、その瞳の奥には、はっきりと影が差していた。オニキスさんは水場から上がると尾を脚に変化させ、手配しておいたドレスをチェリーに着つけてもらった。
「どうしたの、オニキス母さま?」
「パールを怒らせた」
「ええっ!?」
あまりに衝撃の告白に、ルリが素っ頓狂な声を上げた。
「わたし、パール母さまが怒るの、みたことないよ……」
「たまにある……百年に一回くらい……」
「百年に一回の、だいじけんってこと……?」
ルリの表情が、どんどん神妙なものになっていく。
ドレスの着付けが終わり、オニキスさんはソファにちょこんと腰掛けた。相変わらず無表情ではあったが、どこか覇気がなく、いつものオニキスさんからは想像がつかないほど、肩を小さく縮めていた。
「オニキス母さま、なにをしたの……?」
「屋敷の飾り付けに夢中になりすぎて……寝床まで埋めてしまった」
ルリの問いかけに、オニキスさんはぽつりとそう答えた。
オニキスさんとパールさんの住まいである「屋敷」に行った時、パールさんが「飾りの全てはオニキスさんの趣味だ」と言っていたのを思い出す。屋敷が洒落た飾り付けでいっぱいだったことを思い起こすと、十分にあり得る話だと思った。
「ああー……まあ、ねるのは、だいじだもんねぇ……?」
ルリはそう言いうものの、何だか納得いかない顔をしている。確かに、百年に一度の「だいじけん」にしては理由が小さすぎるように感じた。
私は部屋に流れる気まずい雰囲気を払拭しようと、明るい声を出す。
「とりあえず、外の空気でも吸いながらお話ししますか?」
肩を落として小さくなっているオニキスさんを、私たちはひとまず外に連れ出すことにした。
私たちは、城下町とは反対側の、川沿いの道を歩き始めた。昔、ルリと海へデートに行ったときに通った、人通りの少ない道だ。オニキスさんの話を落ち着いて聞くのにいいと思ったのだ。
川の水面が、太陽を受けてきらきらと輝いている。水の流れる音が心地よく耳に響いた。
「……ねえ、オニキス母さま? なにか、べつのことで、なやんでる?」
ルリが歩きながら、オニキスさんの顔を覗き込むように尋ねた。オニキスさんは一瞬、言葉に詰まったようだったが、やがて、わずかに口角を緩ませた。
「……ルリには敵わない」
オニキスさんは歩みを止め、川の水面を眺めながらそっと呟いた。
「……ローズに嫉妬した」
「ローズ母様に?」
その意外な言葉に、私は思わず驚きの声を上げた。
「……パールとはもう千年以上連れ添っている。私が一番長くパールと一緒にいると自負していた」
オニキスさんは、そう言って少し視線を落とした。以前アメジストさんが、「母さまたちほど長寿な人魚は珍しい」と言っていたことを思い出す。千年以上もの長い年月を共に過ごしていれば、誰よりも長くパールさんと一緒にいると、そう信じ込んでしまうのは当然だろう。
「そこに……私の知らないパールを知っているローズが現れた」
私は、先日の城の温室で聞いたパールさんの言葉を思い出す。「ローズと私が最後に会ったのはオニキスと出会う前」と、そう言っていた。
まさか、自分が出会う前のパールさんを知る存在がいるなんて、オニキスさんは思いもしなかったのだろう。
「……私は独りで生まれた」
オニキスさんが静かに放ったその言葉を、私はすぐに理解することができなかった。
「えっ……? 産んでくれたお母様は……」
「人魚は卵生だからそういうことが稀にある。殻を破った時、周りには誰もいなかった」
人間の赤ちゃんは独りで生まれてくるなんてあり得ない。産まれた時には必ず産みの母が側にいる。
独りで生まれ、誰にも守られず孤独に生きる……そんな想像もつかない寂しさが、私の胸を締め付けた。
「独りで、おそらく十年ほど生きた。その時の私は言葉も知らぬ野生児だった」
オニキスさんは、まるで他人事のように淡々と語った。しかしその言葉の裏にある、想像を絶する孤独と辛さが、私には痛いほど伝わってきた。教えてくれる親がいないのだから、言葉を知らないのは当然だろう。
「そうして……パールと出会った」
そう言ったオニキスさんは、昔を懐かしむように、少し表情を柔らかくしていた。
「パールは私に言葉と愛を教えてくれた。パールにとって私は子のようなものだから、つがいになりたいと言ってもなかなか聞き入れてくれなかった。百年ほど生きたところで、ようやくつがいになれた」
その時まで孤独な人生を歩んだオニキスさんにとって、パールさんとの出会いは、まさに世界を救う光だったのだろう。パールさんが広大な海でオニキスさんを見つけてくれて、そして愛してくれて本当に良かったと、心からそう思った。
「千年生きて、私の人生は殆どパールと共にいた。だが、これほど永く生きて尚、まだパールの人生の半分以上に私はいない。……それがたまに寂しくなる」
たとえこれから何年生きても、パールさんの人生全てをオニキスさんが埋めることは、永遠に不可能だ。過去は変えることができないのだから。
どうしようもないその事実を、オニキスさんは歯痒い思いを滲ませながら語った。
「私の知らないパールを知っているローズが気になって……気を紛らわせるために屋敷を飾り付けして、寝床まで埋めてしまった」
「パールさんが、怒ったのは……」
「うじうじするなと……そう言われた」
パールさんが怒ったのは、飾り付けにより寝床が使えなくなったことではなく、それほどまでに、オニキスさんが、思い詰めてしまっていること。パールさんはきっと、そんなオニキスさんを、愛ゆえに深く心配しているのだと、私はようやく理解した。
「もー。オニキス母さまは、むずかしく、かんがえすぎだよ」
ルリが、オニキスさんをそっと抱きしめた。その優しさで、オニキスさんの沈んだ心を溶かしてゆくようだった。
「気になるなら、聞けばいいじゃん。一人でそうやってるから、パール母さま、おこるんじゃない?」
しかしオニキスさんは暗い表情のまま、静かに首を横に振る。
「私が知らないパールを知るのが……怖い」
過去を知れば、愛を疑ってしまうかもしれない。そんな不安に、オニキスさんは怯えているようだった。
「でもそれも、オニキス母さまが愛する、パール母さまでしょう?」
ルリはオニキスさんを抱きしめているのをそっと離し、ぴょこんと私の側にやってきた。そして、私の手をぎゅっと握る。
「……わたしは、わたしが知らないサクラを知ったら、うれしくなっちゃうよ! だって、あたらしいサクラを、また好きになれるもん!」
ルリは陽だまりのような笑顔でそういった。そのあまりに純粋な愛の言葉に、私の心臓は止まりかけた。
ああ、ルリは私に、こんなにも真っ直ぐな愛をくれるんだ。そう思うと、胸の奥から温かい気持ちがこみ上げてきた。
「それに、過去に何があっても、パール母さまはオニキス母さまを、千年以上、たった一人の伴侶にえらんでるんだよ……それって、とっても、すてきじゃない?」
そのルリの言葉は、オニキスさんの心の奥深くに突き刺さったようだった。オニキスさんは、はっとした表情で、しばらくの間呆然としていた。
「……やはり、ルリには敵わない」
そう、いつもより少しだけ優しい顔をして呟いたオニキスさんの表情は、もう、迷いなく澄み渡っていた。
「むむ……なんか……仲直り、したみたい!」
「パールと改めて話をしてみる」と言ってオニキスさんが帰っていった次の日の朝、ルリはまた、水場に手を翳してオニキスさんと連絡を取っていた。
「そう……よかったわね、本当に」
「ねー! だれがどう見てもラブラブなのに、じぶんは気づいてないんだから!」
そう呆れたように笑うルリの笑顔からは、安堵の気持ちが漏れ出ていた。
「ふふっ……千年も一緒にいるって、どんな感じなのかしら」
「んー? どうなんだろうねー? でも……」
ルリはそう言うと、私のことをぎゅっと抱きしめた。
「千年もいっしょにいなくても、わたしとサクラは、おなじくらい、ラブラブだよ〜!」
「もう……」
「ルリには敵わない」……オニキスさんが言っていた台詞を、私も胸中で繰り返したのだった。
オニキスさんの話でした。
当初は「黒だし、とりあえず寡黙なキャラにしとくか……」ぐらいの感じだったのですが、最終的にとてもいいキャラに仕上がってくれました。
明日はアヤメとスフェーンの話です。スフェーンさんの話をだいぶお待たせしてしまいました。
※ムーンライトノベルズに、オニキスさんとパールさんの話(話数は39.5話)を公開中です




