31. 救済の抱擁
「ルリお姉様、サクラお姉様を連れてどこへ行ってしまったのでしょうか……」
アヤメは、ルリがサクラを連れて行ってしまった方向をじっと見ていた。
「……妹がすまないね。それにしても、あの子たちに、何が起きているのだろうか……」
アヤメと一緒に取り残されたアメジストも、事態が飲み込めず途方に暮れていた。先ほどのスフェーンは、明らかに平時とは違っていた。先程アヤメが述べた「何か悪いものに魅入られた」という予想が、アメジストの頭をよぎる。たしかにそれなら、スフェーンの変貌ぶりにも納得がいった。
その時、アヤメの全身を冷たい魔力の奔流が駆け抜けた。
「これは……また、さっきスフェーンさんが暴走していた時と、同じ魔力を感じます……。でも、今の方が、比べものにならないぐらい、濃い……」
「なんだって?」
アメジストが驚いて、アヤメの指し示した方に目を向ける。それは、ルリとサクラが向かった方向だった。アメジストには何も感知することができなかったが、先ほどの異常なスフェーンを見て、アヤメのことを疑う余地はなかった。
「また、スフェーンなのか……?」
困惑するアメジストに、アヤメは目を伏せた。
「それは、私にはわからないようです……。ただ、この負の魔力は『災い』だと、私の中の巫女の血が告げている……そんな確信があります。だから、私に何かできる筈なのです」
アヤメは固く拳を握りしめ、強い決意を瞳に宿らせた。
「……あの、私に任せてみていただけませんか?」
アメジストの目をまっすぐに見据え、アヤメは言葉を続けた。
「私、『災いから世界を救う聖なる巫女』という存在らしいのです……残念ながら、今のところ、自覚はないのですけれど。でも、この負の魔力を感じるたびに、この血が、何故だか疼くのです。私にできることを成せと、そう命じているかのように」
アヤメのその鋭い目を見て、アメジストは察した。
「わかった。私は、オニキス母さまとパール母さまに相談に行くよ。長く生きているから、何か情報を持っているかもしれない……。アヤメも、気をつけて、無理はしないように」
アメジストは、幼い妹たちにしてきたのと同じように、アヤメの頭を優しく撫でた。アメジストの感覚では赤子とさほど変わらない歳の娘に、このような運命を背負わせる世界の残酷さを感じ、歯がゆく思った。だがその瞳に宿る使命感は、幼子とは思えないほど強く、逞しかった。
アメジストの胸の内にある複雑な想いを察したかのように、アヤメは頼もしく微笑む。その笑顔は、アメジストの胸中にあったすべての懸念を吹き飛ばすほどだった。
「ありがとうございます、アメジスト様。行って参ります!」
そうしてアヤメは、強く水を蹴り、負の魔力の方へ向かった。
負の魔力の反応を追って、アヤメは泳ぎ続けた。
(あれは……)
そして、負の魔力が溢れ出す、水の底に辿り着く。そこでアヤメが見たのは、世界を呪わんとする勢いで憎悪の言葉を発し続けるスフェーンだった。
(やはり、スフェーン様が……)
アヤメはその負の魔力に触れ、胸が締め付けられるような深い悲しみを感じた。
アヤメは導かれるように、背後からスフェーンに近づく。嫉妬にかられているスフェーンはアヤメに気づいておらず、手を伸ばせば届く距離まで難なく近づくことができた。
そしてアヤメは、スフェーンを優しく抱きしめた。
「なっ、なに、誰よ!? ……っ、あなたは……あの憎いサクラの仲間でしょう! あなたも私からルリを奪うのね!? あなたたちがいるから、だから、ルリは、おかしくなったんだ……っ!」
スフェーンは抱擁を解こうと、乱暴にアヤメを突き放そうとした。しかし、アヤメは決して腕の力を緩めず、その温かさはスフェーンの呪いのように荒れ狂う心を、じわりと包み込む。
「違います……っ!」
アヤメはスフェーンを落ち着かせようと、言葉を絞り出す。
「そんなこと……、誰も、しません! 私も、もちろんサクラお姉様も……っ!」
アヤメの必死の言葉は、スフェーンの心にはまだ響かない。
「嘘よ! 離してっ……、離しなさいよ、この忌まわしいニンゲンめ!」
力いっぱい暴れるスフェーンに振りほどかれないように、アヤメは必死だった。スフェーンの、ルリすらも疑う、その悲しみに満ちた視線。その瞳の奥に、アヤメは少し前までの自分を見た。
「わかります、私も少し前まで同じだったのです! スフェーン様は、ルリお姉様の愛が幻なのではないかと、怖くなったのでしょう?」
その言葉は、固く閉ざされたスフェーンの心の扉を、優しくノックする。アヤメの言葉に、スフェーンは一瞬はっとした表情を浮かべた。アヤメの言葉は、スフェーンが心の奥底に封じ込めていた「ルリに捨てられてしまうかもしれない」という恐怖を、優しく、しかし確実に揺さぶったのだ。だが、すぐにその感情を打ち消すように、怒りの表情を取り戻す。
「そ、そんなことないわっ……! 私はルリを深く愛しているし、お前たちさえいなければ、ルリは同じだけ私のことを愛してくれるんだから!」
アヤメは、少し前の記憶を思い出す。
成人の儀で属性石が黒に染まらなかった時、母から授けられる筈の時属性適性がない事実を突きつけられた。その時、母であるローズから今までに与えられた愛も偽物だったのではないかと、そんな気持ちに囚われてしまったのだ。
「私は一時、母からの愛を疑うことがありました」
アヤメの声は、そっと、スフェーンの耳に届く。
「でも、思い出の中の母は……、母と今まで過ごした時間は、決して嘘ではないと、確かな事実であると気づいたのです。スフェーン様の思い出の中のルリお姉様は、どんな顔をしていらっしゃいますか?」
アヤメの言葉は、スフェーンが心の奥底に閉じ込めていた「ルリに捨てられてしまうかもしれない」という恐怖に優しく寄り添った。その瞬間、ルリとの数々の思い出がスフェーンの脳裏に蘇る。
生まれて間もないルリの手にそっと触れた時の、あどけない表情。初めてルリからプレゼントに綺麗な貝殻をもらった時の、太陽のような笑顔。悪戯をして怒られたルリの、むくれた顔。
そして、ずっと好きな人がいると告白したルリの、照れながらはにかんだ顔を思い出す。ルリが想う人に嫉妬もしたが、それ以上に、ルリに幸せになってほしいと、そう願った。
走馬灯のように、愛しい記憶が脳内を駆け巡った。ルリは自分にたくさんの愛をくれたし、自分を信用して相談したり、助けを求めたりしてくれた。そのことは、スフェーンの中で誇りであり、誰にも奪えない、かけがえのない宝物だった。
「私……わたしっ……!」
スフェーンの心の中に確かにある、ルリとの温かい記憶。それは、胸の中に巣食っていた憎悪を、まるで雪のように溶かしていった。
「そう、そうです。サクラお姉様と、スフェーン様は、別なのです! たとえ伴侶とつがいになっても、ルリお姉様は、スフェーン様のことをちゃんと大事に思っている筈です!」
アヤメの言葉は、スフェーンの心を優しく抱きしめる。その瞬間、スフェーンは自分の胸から、まるで何かが抜け落ちるかのように、憎悪の気持ちが完全に消えたのを感じた。それと同時に、ずっと溢れていた負の魔力がぴたりと止まる。そこには、嫉妬に荒れ狂う人魚はおらず、一人の純粋な心を取り戻した人魚が佇むのみとなった。
「私、なんてことを……」
スフェーンは自分が放った数々の暴言を思い出し、呆然と立ち尽くした。顔から血の気が引いていくのがわかる。その手は震え、心臓が凍りついたかのような冷たさを感じた。
「スフェーン様は、何か悪いものに囚われていたのです。スフェーン様は何も悪くありません」
アヤメはそう言って、優しくスフェーンに微笑みかけた。その笑顔はまるで春の陽だまりのように、スフェーンの凍りついた心をゆっくりと溶かしていった。
スフェーンは落ち着きを取り戻すと、アヤメに背中から優しく腕を回して抱きつかれていることが、なんだかとても恥ずかしく思えてきた。背中から感じる温かみが、ただの体温とは違う熱をほんのり広げていくのを感じる。
「……その、そろそろ、気恥ずかしいから、離してくれるかしら」
その言葉で、アヤメはスフェーンを抱きしめたままだったことに気づいた。心臓が跳ね上がるのを感じる。
「す、すみません!」
アヤメは慌ててスフェーンから離れる。その頬は、ほんのり赤く染まっていた。そんなアヤメを見て、スフェーンの心にじんわりと温かさが広がる。こんなに純粋で優しい存在が、荒れ狂う自分を助けてくれた。その事実に、胸がいっぱいになった。
「……あの、スフェーン様は、とても付与魔法に明るいと聞きましたの。私、お会いできるのをとても楽しみにしていて……お話を聞かせていただいてもいいでしょうか」
アヤメは、火照らせた顔に微笑みを浮かべながら、スフェーンの方にそっと手を差し出した。さっきまで醜い嫉妬にかられていたような自分に「会えるのが楽しみだった」と言うアヤメに、スフェーンは驚きを隠せずにいた。差し出されたその細くしなやかな手は、自分を拒絶しない、たったひとつの希望の光のように見えた。
「……いいわ、来なさい」
スフェーンは差し出された手を取ることはなかったが、わずかに口元を緩め、ゆっくりと泳ぎ始めた。その様子は先ほどまでの荒々しさはなく、穏やかなものだった。
「……あなた、名前は?」
スフェーンは恥ずかしそうに顔を伏せながら、アヤメに問いかけた。
「アヤメと申します、スフェーン様」
「……そう。ありがとう、助かったわ、アヤメ」
スフェーンはアヤメの顔をまともに見ることができず、そっぽを向いた。
アヤメはその背中を追いかけながら、胸の内に温かいものが広がるのを感じたのだった。それは、新しい絆が生まれた、確かな証だった。
急展開に感じたらすみません。ひとまず、スフェーンさんは一段落です。




