交誼の酒28
ギルヴェルスによるサザーネギア遠征は失敗した。彼らは一欠けらの土地も、僅かばかりの賠償金も得ることなく、その地から撤退したのである。
しかしながら、王都パルデースに帰還した王配にして遠征軍総司令官のエルストロキアの様子は、敗者のそれとは程遠く、ふてぶてしくも堂々としたものだった。
「諸君の働きと生還を、私は心から嬉しく思う。ささやかではあるが宴を用意した。楽しんでくれ」
そう言って簡単に挨拶を済ませてから、エルストは兵たちにご馳走を振舞った。もともとは遠征の成功を祝うために用意させておいたものである。遠征には失敗したものの、兵たちが死力を尽くして働いてくれたことに変わりはない。それに報いるべく、エルストはこうして宴を開いたのだった。
エルスト自身はその宴には参加せず、冒頭の挨拶だけ済ませると彼はすぐに王城へと向かった。数ヶ月ぶりに帰還した彼を、妻のアンネローゼが出迎える。
「おかえりなさいませ。無事のご帰還、心よりお喜び申し上げますわ、エルスト様」
「残念ながら無事ではありませぬ。カルノーにしてやられました。あばらが二、三本、折れていることでしょう」
言葉とは裏腹に、楽しげな口調でエルストはそう言った。それを聞いて、アンネローゼも朗らかに「まあ」と言って笑う。そんな彼女に笑みを返してから、エルストは表情を引き締めその場で跪いた。
「女王陛下の兵を損ない、にも関わらず何ら成果を上げることもかないませんでした。全てはこの身の不徳のいたすところです」
かくなる上はいかなる処分も覚悟しております、と言ってエルストは一層深く頭を垂れた。その言葉に一つ頷くと、アンネローゼは彼を咎めることなく、柔らかい声音のままこう言った。
「戦に勝敗は付きもの。まして、本来はこのわたくしが戦場に立って兵士たちを鼓舞しなければならないところを、エルスト様に代わっていただいているのです。この上、咎め立てなどできましょうか」
アンネローゼはエルストに何ら処分を下さないとした。彼らが夫婦であり、またエルストこそが最有力者であることを考えると、一種芝居じみたやり取りである。しかし今後彼の責任を追及させないためにも、この“女王による裁定”は必要な事柄だった。
「この度働いてくださった兵たちには、十分な賞与を出しましょう。死んでしまった者たちの家族にも、見舞金を出して厚く報いることにいたします」
「女王陛下のご温情に、感謝感服いたします」
エルストがそう言うと、アンネローゼは嬉しそうに微笑んだ。それから彼女はエルストを立たせてこう言った。
「さあ、エルスト様。食事の用意が整っておりますわ。それとも、先にお風呂にいたしますか?」
「では、先に湯を頂くとしましょう。薄汚れたままでは、せっかくの料理に砂が混じってしまいますゆえ」
エルストがそういうと、アンネローゼはまた朗らかに笑った。その笑顔を見て、エルストはようやく戦場からの帰還を実感した。
とはいえ、そうして日常に帰ってきたはずのエルストを待っていたのは、またしても戦いの日々だった。ただし今度の敵は、剣の刃を閃かせる兵士たちではない。この度彼の前に立ちふさがったのは、積み重なった書類の山だった。
日常の政務に加え、遠征の事後処理が彼の肩に重く圧し掛かる。さらにもう一つ、厄介な問題があった。予算不足である。
遠征には金がかかる。それなのに失敗した。つまり投じた資金は全て無駄になったと言っていい。そこへさらに、兵士たちに与える賞与や死傷者たちへの見舞金が加わる。はっきり言って大赤字だった。
唯一、不幸中の幸いと言えるのは、ギルヴェルスの領土が戦場とならなかったことか。おかげで農作物に被害はなく、今年も平年並みの収穫と税収が期待できた。このうえ冷害による不作が重なればもはや笑うしかなかったが、どうやら天もそこまで非情ではなかったようだ。
「とはいえ、予算の不足に変わりはない」
エルストは少々憮然とした様子でそう呟いた。予算を見直し切り詰めてはいるものの、とても間に合いそうにはない。王城に保管されている、当面使うつもりのない装飾品や死蔵されている美術品を放出することで一部はまかなえたが、それでも不足分全てを補うには足りない。
「仕方がない。公爵家から持ち出すか」
貸すのも借りるのもエルストだが、帳簿上はアルクリーフ公爵家からの借金という形になる。ちなみに当然のように無利子で催促もない。ただ、歴とした一国家が、他国の貴族から金を借りるのだ。ある意味でとんでもないことと言えたが、今更それを気にする者はいない。
しかしそれでもまだ予算は足りず、エルストはついに最後の手段として国債の発行に踏み切った。こちらは正真正銘の借金であり、利息が付く。なお、ギルヴェルス国債の最大の引き受け先は他ならぬアルヴェスク皇国であり、そのことにエルストは苦笑を浮かべるのだった。
「やれやれ、まずは財政の立て直しだな」
仕方がないとはいえ、今のギルヴェルスは借金財政で、エルストはそれが気に入らなかった。昔の箴言にもあるではないか。「金を借りる者は、貸す者の奴隷となる」と。ギルヴェルスがアルヴェスクの属国となる前にこの借金財政を解消せねば、エルストの野心の実現さえ危うかった。
加えて軍の再編も急がなければならない。隙を見せれば、またぞろ東の国境辺りに完全武装した“賊”が現れるやもしれぬ。恐れているわけではないし、撃退する自信もあったが、さりとて今のエルストにはそのような雑事にかまけている時間さえ惜しい。まずは隙を見せないことが重要だった。
さらに、ライシュが進める政策への対処も必要だった。彼がやっているのは、表向きは国内交易の活性化だが、その裏の目的が皇国北部におけるアルクリーフ公爵家の派閥の切り崩しであることに、当然エルストは気付いている。
これを放置しておくのは下策だ。むしろ積極的に関与する。そしてアルクリーフ公爵家の、ひいてはギルヴェルスを含めたエルストの影響力をアルヴェスク国内で増す。つまりライシュの策を逆手に取るのだ。
ただ、この三つ全てをエルスト一人でやるには手が足りない。アンネローゼも手伝ってはくれるが、しかし彼女はあくまでも補佐するだけ。主体的に物事を判断し、政策を進めることはできない。
(軍の再編とサザーネギアへの牽制は、ラジェルグ将軍にやってもらうか……)
エルストはそう決めると、新兵を2万5000ほど集めた。そしてそこへ、遠征の際に留守居役として王都に残しておいた5000の兵を加える。この合計3万の部隊をラジェルグに預けると、エルストは彼らを東にやった。
目的は二つ。一つはサザーネギアへの牽制であり、もう一つは新兵の調練だ。この新兵らが立派な精兵へと育てば、ギルヴェルス国軍の戦力は10万弱まで回復する。さらに時間が経てば内乱で混乱していた貴族らの領軍も動けるようになるだろう。これで新たな対外遠征でもしない限り、ギルヴェルスの軍事面はなんとかなる。
あとの二つについては、エルスト自身がこれに当ることにした。アルヴェスクの国内交易の活性化に便乗し、ギルヴェルスとの交易も活性化させるのだ。これによりギルヴェルスの経済を立て直し、さらにアルヴェスク国内においてもエルストの影響力を増していく。まさに一石二鳥といえた。
(これでまた、アルヴェスクへの依存度が上がるな……)
皮肉気に口の端を歪ませながら、エルストは胸中でそう呟く。両国の関係が深くなればなるほど、両国の同盟は重要度を増していく。そしてこれを破棄することが難しくなっていくのだ。
交易にせよ領地の経営にせよ、上手くいっているのであれば誰だって現在の体制に続いて欲しいと思うもの。それを破壊しようとするエルストを、彼らは疎ましく思うことだろう。これはアルヴェスクだけでなくギルヴェルスにおいても同じことが言える。そういう、現在の体制に満足している者たちにそっぽを向かれて孤立してしまえば、いかにエルストといえどもライシュに挑むことはできない。
(まあ、いい。どれだけ繁栄を極めようとも、不満を抱えるものは必ずいる)
そういう者たちを唆し、自らの側に付かせる。やりようなど、いくらでもあるのだ。
「しかしまあ、みっともないことだ」
我慢できず、エルストは口に出してそう言った。そうではないか。結局、自分は借り物の力で覇道を成そうとしている。それがなんだか、とても浅ましいことのように彼には思えた。
利用できるものは全て利用する。確かにそうでもしなければ、エルストの望む覇道は成し遂げられないだろう。しかしそれでも。彼は一抹の劣等感を刺激されずにはいられなかった。いや、もしかしたらそれは嫉妬であったのかもしれない。
気が付けば、無意識のうちに彼は脇腹をさすっていた。カルノーにやられた箇所だ。医者の見立てによれば、やはりあばら骨が二本ほど折れていたらしい。
「……やれやれ」
脇腹から手を放すと、エルストは苦笑を浮かべながら小さく頭を振った。ときおり、全てを投げ出してしまいたくなる。今が嫌になったわけではない。ただ、試してみたいのだ。自分の力というものを。
「…………」
エルストは深く息を吐きながら瞑目した。分かっている。今更全てを投げ出すなど、出来るはずもない。いや、彼はそれを選ばなかった。選ばないことを選んだのだ。ならば後は、それを突き通すほかない。自分にそう言い聞かせ、エルストは抱え込んだ自分の気持ちに、そっと蓋をした。
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カルノーが率いるアルヴェスク近衛軍3万の帰還準備が整ったのは、夏の終わりを前にしてのことだった。出発を前に、カルノーはランプゼン城砦へ彼らを見送りに来ている。兵士達の顔には、困難な作戦をやり遂げた達成感と安堵が浮かんでいた。
これから彼らはここへ来たときと同様の道順で帰還する。つまりガルネシア海を南下してナルグレーク領内に入り、そこから二手に分かれて、歩兵は船に乗ってフラン・テス川を南へ溯り、騎兵は馬を走らせて陸路で南下する。そしてフラン・テス川沿いの船着場で合流し、さらに南下してメルーフィスへと入るのだ。
「本当に、将軍はここに残られるのですか?」
「ええ。今、ジュリアを動かすことはできませんし、彼女をここへ一人残していくわけにもいきませんから」
ただ行きと違い、将であるはずのカルノーはサザーネギアに残る。彼の妻であるジュリアのお腹は、日に日に大きくなっていた。長旅が彼女とお腹の子供にとって負担になることは明白で、無茶をさせたくないと言うカルノーの考えは至って常識的だ。
後の歴史家の中には、そのために部隊の指揮を放り出すカルノーを、「公私混同である」と批判する者もいる。
とはいえ、彼の部下たちのなかでこのことに不満を持つ者はほとんどいなかった。彼らにとってジュリアは大切な「お姫様」であり、その一大事ともなれば例え指揮官の不在であっても大した問題ではない。どのような難敵が立ちふさがろうとも打ち破って見せようぞ、とまるでこれから決戦に挑むかのような士気の高さであった。
ただし、思っても見なかった事態に顔を青くしている方が約一名。副将のジェイルである。カルノーが不在のため、部隊の指揮は彼が執ることになる。
「大丈夫です。戦をしに行くわけではないのですから」
緊張して狼狽するジェイルの方に手を置いて落ち着かせながら、カルノーは彼にそう言葉をかけた。特別なことをする必要はない。訓練どおりにやればいい。そう言われ彼はようやく腹を据えたようだった。
「イングリッドもジェイル殿を助けてあげてください」
ジェイルの斜め後ろで少々不満げな顔をする自分の副官に、カルノーはそう言った。彼女は当初、「自分も残る」と言っていたのだが、カルノーはそれを許さなかった。彼がサザーネギアに残るのは、近衛将軍の職務ゆえではないからだ。それでもなかなか納得しようとしないイングリッドに、彼はある任務を与えた。
「報告書と手紙もよろしくお願いします」
報告書はこれまでの経緯を説明する公的なもので、カルノーが近衛将軍として摂政に宛てて書いたものだ。手紙は複数あり、カルノーがライシュに宛てたもの、ジュリアが同じくライシュと、さらにステラとマリアンヌに宛てたものがあった。カルノーはこれらの書簡をイングリッドに託し、それぞれ相手に渡してくれるよう頼んだのだ。報告書以外は私的なもので任務の範疇には入らないのだが、それはいまさらであろう。
「了解しました」
イングリッドは事務的にそう答えた。まだ不満が燻っているのだろうか。そう思い、カルノーは彼女に悟られぬよう、そっと忍び笑いを漏らした。
自らの部隊がランプゼン城砦から南へ向かって出立するのを、カルノーは城壁の上から見送る。これで彼は子飼いの戦力を失った。無論、それが必要になる事態を、彼はこの先想定していない。だが、不測の事態というのはいつ何時であっても起こるものだ。ましてここは祖国から遠く離れた異国サザーネギア。彼の胸には、拭いきれぬ一抹の不安があった。
(私は……)
寄る辺なき異国でただ一人。そんな自分はいざという時、ジュリアとお腹の子供を守れるだろうか。
(やれやれ……)
カルノーは頭を振って苦笑した。どうも思考が悲観的になっている。そもそも「寄る辺なき」というのも極端な話だ。現に今、彼はグリフィス公爵家に身を寄せているというのに。
「さて、戻るとするか」
部下の姿が完全に見えなくなると、カルノーは城壁の上でそう呟いた。ジュリアはこれから大切な時期だ。傍にいてやりたいと思う。
(それに……)
それに、これまでずっと働き詰めだったのだ。ここらで少し休んでもいいだろう。
(ライとロキは大変かもしれないが……)
戦後処理や同盟に向けた調整などで忙しくする二人の友人を思い浮かべ、カルノーは少しだけ意地悪げな笑みを浮かべた。
それからのカルノーとジュリアの日々は、穏やかでゆったりとしたものだった。アレスニールは秋の収穫とそれに伴う税の徴収などで忙しくしていたが、二人はするべきことも特にない客人である。思い思いに過ごしていた。
グリフィス公爵家の本邸は蔵書が豊富で、カルノーはよく書庫から何冊か引っ張り出しては読書にいそしんでいた。またある時はアレスニールの視察に誘われ、彼と一緒に街や村を見て回ることもあった。そしてそんな時、ジュリアは唇を尖らせながら不満を述べるのだ。
「お主ばかり、ずるい」
「身重のジュリアを連れまわす訳にはいきませんよ」
カルノーはそう言って拗ねるジュリアを宥めた。とはいえ、それがどこか言い訳じみていることは否めない。彼自身、屋敷でじっとしているのは少々暇であったし、そうであれば活動的なジュリアがなおのこと暇を持て余しているのは想像に難くない。
「ではジュリア様。お生まれになるお子様のために、今からおくるみを作っておかれてはいかがでしょうか?」
そう提案したのは、比較的年嵩の侍女だった。いわゆる高貴な女性達の間であっても、自分で手作りしたおくるみを使うことはよくある。手作りできるということはそれだけ裁縫の技術に優れているということで、ある種優れた妻あるいは母の証であるかのように見られているのだ。身重で動けない間の暇つぶしという側面もあるのだろうが、それはそれとして。ちなみに同じような理由で手作りした品を贈り物にするのも喜ばれた。
「う、うむ……。そ、そうじゃな……」
ジュリアの返事は歯切れが悪い。彼女は裁縫が苦手ではなかったが、同時に好きでもなかった。しかし侍女は退かない。彼女はジュリアを立派な良妻賢母にしてみせると意気込んでいるらしかった。
「デルフィーネお嬢様は、きっとジュリア様を見てお育ちになります。ここは一つ、よいお手本となっていただけますように」
デルフィーネの名前を出されると、ジュリアも腹を括るしかない。覚悟を決めて頷くと、彼女はまるで剣を取るかのような面持ちで針を一本手に取るのだった。
なお、この話を後で聞いたカルノーは思わず苦笑を浮かべた。彼の脳裏には、馬を乗り回して侍女たちをやきもきさせるデルフィーネの姿が浮かんでいた。
そして、そうこうしている内に冬が近づいてくる。ジュリアの出産の予定は、冬の初めである。




