交誼の酒26
時間は少し遡る。まだ遠征軍とサザーネギア軍がアレスニールの仲立ちで和平交渉をしていた頃のことだ。
この頃、アルヴェスク皇国の摂政ライシュハルトは、夜遅くまで執務を行うことが多かった。この日もまた、彼は夕食を妻のマリアンヌと一緒に食べた後、執務室に戻って仕事の続きをしていた。
このところ、彼はまともに休んでいない。睡眠時間は少なく、休日は皆無である。マリアンヌを含め側近たちは休むよう言っているのだが、本人は笑って「大丈夫」というばかりで取り合おうとしない。
『夜は静かで、来客もないから仕事がはかどっていい』
かつてライシュは笑いながらそう言っていた。実際、摂政の仕事は激務である。メルーフィスを併合してからまだ日が浅く、かの地を完全に皇国の一部とすることはまだできていない。また国内交易の活性化による内需の拡大に、そのための道路網の整備計画と、幾つもの大きな事案が彼の双肩にはかかっていた。
ただ、ライシュが身を削るようにしてこれらの仕事に打ち込むのは、彼の個人的な理由によるところが大きい、とマリアンヌなどは考えている。それは実の父である先皇レイスフォールへの憧憬や劣等感であり、また遠くサザーネギアの地で戦う二人の友人らへの羨望と危機感である。
(結局のところ、何かしていないと落ち着かないのね……)
困った子だわ、とマリアンヌは嘆息する。こういうところは昔と少しも変わらない。加えて今は気負いのせいで力が入りすぎている。
(それを、一概に悪いことと言うつもりはないのだけれど……)
しかし、ライシュが進もうとしている道は危うい。父であるベリアレオスから、彼が皇国北部への出兵計画を作成していることを知らされ、マリアンヌはそう思うようになっていた。
反乱が起こった場合、飛び火する前にこれを速やかに鎮圧することは正しい。その観点で言えば、不穏な空気のある地域への出兵計画をあらかじめ練っておくことも正しのだろう。しかしマリアンヌはライシュが進めているそれに、単なる準備以上のものを感じてならなかった。
(まるで、国を駒に遊戯を楽しんでいるかのような……)
そんな無邪気とも思える稚気を感じてしまうのだ。これが本当にただの遊戯なら、マリアンヌも微笑ましく見守ることが出来ただろう。しかし国家の政は決して遊戯などではない。そこには実際に幾千万という人々がいて、日々の暮らしを懸命に生きているのだ。醜いほどに血の通った現実なのだ。今のライシュには、そういう観点がごっそり抜け落ちているような気がしてならない。
(もしかしたら……)
もしかしたら、それがライシュとレイスフォールの差であるのかもしれない。マリアンヌは最近、そんなふうに思うことがある。
レイスフォールはアルヴェスク皇国という国を、単なる国土や領地の集まりではなく、そこで暮らしている人々の生きる場所であるとして考えていたのではないか。切れば血が出るという当たり前の現実を、当たり前であることを越えて胸に刻み込んでいたのではないか。それが、彼に対外遠征という事業を忌避させたのではないか。マリアンヌはそんなふうに思うのだ。
もちろん彼女はこのことを、ライシュはおろか他の誰にも話してみたことはない。結局、彼女の想像でしかないからだ。その上、彼女自身の願望や理想も混じっていそうだ。摂政の妻として、人に聞かせるような話ではない。
(なんにせよ……)
なんにせよ、この頃のライシュは見ていて危なっかしい。そして、恐らくは本人がそのことに気づいていないことが、何よりも危なっかしい。
(これは久しぶりに叩いて言い聞かせないと駄目かしら?)
こういう時、マリアンヌは妻というより義姉の思考になる。それこそライシュが小さかった頃は、彼が悪さをするたびに拳骨を落として泣かせていたものだが、さて今回はどうなることか。決意と少しの不安を胸に抱きながら、マリアンヌは彼の執務室の扉をノックした。
「マリアンヌです。少し、よろしいでしょうか?」
「マリアンヌ? いいぞ、入ってくれ」
部屋の中からそう返事を貰うと、マリアンヌは「失礼します」と言って扉を開けた。部屋の中は、思っていたよりも明るい。その部屋の奥に、執務に用いる立派な机がある。かつてレイスフォールも使っていたという机だ。そして今はその机を、他ならぬライシュが使っている。
「こんな時間にどうした? ジュミエルかリーンになにかあったか?」
「二人とも、ぐっすり眠っていますわ」
少し心配そうな顔をしたライシュに、マリアンヌは小さく首を振りながらそう言った。それを聞いてライシュは「そうか」と言って胸を撫で下ろす。こうやって彼が子供のことを心配してくれるのが、マリアンヌには心強かった。
「少し、お話したいことがありまして」
「かまわないが、珍しいな」
マリアンヌはライシュが摂政となってからというもの、ひたすら皇太后イセリナと皇王フロイトスとの関係を良好に保つことに腐心していた。摂政と彼らの間に軋轢を生ませず、宮殿内が二派に分かれて割れることのないように努めてきたのだ。
彼女の働きのかいもあって、皇家一族内の現在の関係は極めて良好である。特にフロイトスはジュミエルとリーンにまるで兄であるかのように接していて、そっと見守る二人の母親の口元をほころばせていた。
こうしていわゆる“奥”の管理を徹底する反面、マリアンヌはライシュの摂政としての仕事にこれまで一切口出しをしてこなかった。それは外戚として権勢を得るつもりのないベリアレオスの意向が関係していたり、また彼女自身にそのつもりがなかったからでもある。
そのため、マリアンヌがライシュの職場とも言うべきこの執務室に足を運ぶことは、これまでほとんどなかった。話がある場合も、食事のときなど、もっと私的な時間を選んでその話をしていた。
しかし、今回はわざわざライシュの仕事中に彼の執務室にまで足を運んだ。しかも夜遅くに。彼の言うとおり珍しいことだった。
「あまり、子供に聞かせるような話でもないと思いましたので……」
「ふむ、そうか。……ああそれと、無理に畏まった話し方をする必要はないぞ。こんな時間だ。どうせ誰もいない」
部屋の前には警護の兵がいたし、誰もいないと言うことはないのだが、確かに体裁を気にしなければならないような時間でもない。それでマリアンヌは言われたとおりに言葉遣いを崩した。加えて、これから話す事柄はこちらの方が話しやすいというのもある。
「別に無理をしているつもりはないけど……。じゃあ、お言葉に甘えて」
「立ち話もなんだし、座ったらどうだ?」
ライシュはそう言ってマリアンヌにソファーに座るよう勧めるが、自分は執務机の前から動こうとしない。ペンを動かし、仕事を続けた。
「それで、話とはなんだ?」
「……最近、あまり寝ていないようだけど、身体は大丈夫なの?」
マリアンヌはそう言って、まずは当たり障りのない話題から入った。間合いを計るような会話の進め方である。
「大事無いさ。俺の身体が昔から頑丈なのは、マリアンヌも良く知っているだろう?」
「ええ。拳骨を落すのを躊躇ったことはないわね」
「少しくらい躊躇ってくれても良かったんだがな」
あれは本当に痛かった、とライシュはおどけてみせる。
「……今だから言うけど、私だって手が痛かったのよ?」
石頭なんだから、とマリアンヌが少々不満げに口を尖らせた。それを見たライシュは愉快げに声を上げて笑う。そういう顔は、昔と少しも変わらない。
「だけど、いくら身体が頑丈でも、休息は必要よ。もう少し休んだ方がいいんじゃない?」
「そうは言ってもな。やるべき事が多いのだ」
政務を滞らせるわけにはいかん、とライシュは言う。彼のその言葉は本心だろう。レイスフォールの後を継ぎ、またその背中を追う者として、彼のなすべき仕事は多い。そしてそれらの仕事を人任せにせず、こうして自らの手で行う彼は、摂政の職責に忠実であるといえるだろう。
それは立派なことだとマリアンヌも思う。しかしそうやって仕事に打ち込むライシュの姿に、危なっかしさを覚えるのもまた事実だ。
「レイスフォール陛下も、こうして夜遅くまで政務をされていたのかしら……?」
その姿を、当然マリアンヌは見たことがない。ベリアレオスであれば知っているのかもしれないが、彼女は父からそのような話を聞いたことはなかった。
「亜父殿から聞いた話では、やはりお若い頃はがむしゃらに政務に励んでおられたらしい」
マリアンヌの呟きにライシュはそう応じた。彼女にとっては初めて聞く話だ。彼女の知るレイスフォールの姿とはあまり似付かず、意外に思えた。そしてそれはライシュも同じなのだろう。話す言葉に、含み笑いが混じっていた。
「しかしまあ、それではやはり身体が持たんのだろうな。徐々にそういうこともなくなっていったそうだ。『要領よくなられた』と亜父殿は言っていたよ」
「なら、ライシュもそれに倣ったらどうなの?」
マリアンヌが少し呆れたようにそう言う。「身体が持たない」と分かっているくせに休もうとしない。それは結局、愚かなことだ。それが分からないライシュではあるまい。
「俺もまだまだ未熟ということさ。父上のようにはまだなれぬ」
まあ若いうちは体力に物言わせてやるさ、と諦念と皮肉が混ぜこぜになったような声でそう言った。それを聞いて、ふとマリアンヌはこう思った。
(ライシュは、焦っているのかしら……)
ライシュが摂政でいられる時間は限られている。皇王であるフロイトスが二十歳になるまで。それが彼に与えられている時間だ。もちろん、彼は自らが皇王になることを諦めてなどいないだろう。しかしその限られた時間が、彼を焦らせ駆り立てているようにマリアンヌには思えた。
「……だから、エルスト殿と争うの?」
マリアンヌがそう尋ねると、ペンを走らせるライシュの手が止まった。そしておもむろに顔を上げてマリアンヌの方を見る。それからまた彼は視線を手元の書類に落とし、ペンをまた走らせながら、動揺の見られない声でこう尋ねた。
「亜父殿から聞いたのか?」
「……ええ。父上も懸念を覚えておられる様子だったわ」
マリアンヌがそう言うと、ライシュは「やれやれ」と言わんばかりに首を小さく左右に振った。
「何事にも準備は必要だ。事が起こってからでは遅い。ロキの今の立場が特殊であることは、お前にも分かるだろう?」
危険とは言わずに「特殊」という言葉をライシュは使った。それはもしかしたら、マリアンヌの言う懸念を払拭するためだったのかもしれない。だが彼女の顔色は晴れない。
「決戦を、望んでいるの?」
誰との、とはマリアンヌもあえては口にしない。しかし彼女の言わんとしていることは明白だった。
「何を馬鹿な……」
再びペンを持つ手を止め、ライシュは顔を上げた。そして少し困ったような笑みを浮かべながらこう言った。
「備えであると、そう言ったはずだが」
「でも……」
「俺のほうから事を起こすつもりはない。起こるとすれば、それはロキがそう決断した時だ。奴が挑んでくるのなら、俺は受けて立たねばならん」
納得できない様子を見せるマリアンヌに、ライシュははっきりとした口調でそう告げた。そして言うべきことは言ったといわんばかりに、再び視線を書類に落す。しかし彼の持つペンが再び動き始めることはなかった。
「……待って、いるのね。エルスト殿が動くのを」
「なに……?」
マリアンヌの言葉に、ライシュはまた頭を上げた。彼の視線は、先程までと比べて鋭さを増している。それを見て、マリアンヌは自分が彼の心の深いところに触れようとしているのを察した。
「……確かに貴方は、自分から動くことはしないでしょう。そして、エルスト殿を不当に追い詰めたり、粛清してしまったりすることもしないでしょう」
マリアンヌはゆっくりと立ち上がると、ライシュの執務机の前に立ってそう言った。そしてさらにこう言葉を続ける。
「それは確かに摂政として、為政者として正しいことだと思うわ」
そう語るマリアンヌを、ライシュは椅子の背もたれに軽く身体を預けながら見据え、そして無言のまま続きを促した。
「だけど、貴方は待っている。エルスト殿が事を起こすのを。いいえ、それを望んでさえいる」
それは決戦を望むことと同義だわ、とマリアンヌは言った。その言葉を、ライシュは否定できない。実際、彼女の言うとおりそれを望んでいたからだ。そしてこのままいけばほぼ確実に、その望みは叶う。ライシュにはその確信があった。その先に行き着くのは、マリアンヌと言うとおり決戦である。
「……もしそうだとしても、なにか俺に非があるのか?」
心の内でなにを望んでいるにせよ、ライシュの側から動くつもりがないことに変わりはない。事を起こすか否かは、自分ではなくエルストが決めることだ。そしてその可能性を見過ごせない限り、起こりうる事態のために準備を進めておくのは摂政としての務めである。
マリアンヌの言葉を認めることはせず、仮定の話ということにしながらも、彼はそう自分の考えを説明した。いや、自分の正しさを主張した。それに対し、マリアンヌはさらに別の視点から彼に言葉を投げかける。
「カルノー殿は、貴方達を戦わせなくないと思っているわ」
妹を嫁がせた義弟にして、エルストと並ぶもう一人の友人の名前を出され、ライシュは思わず苦笑した。確かにカルノーならばそう思うだろう。彼はそういう男だった。
「そしてそのために、今もサザーネギアで戦っている」
カルノーが今回の遠征で、極めて危険かつ重要な任務を任されていることは、マリアンヌもベリアレオスから聞いて知っていた。そしてその話を聞いたとき、マリアンヌは彼の願いを察した。
そして彼女が察していることを、ライシュが見落としているはずがない。彼ならば十分に理解しているはずだったし、また実際理解していた。カルノーが何を思い、また願ってあの作戦を立案し、実行し、そして今戦っているのかを。
「ライシュは、何もしないの?」
まるで懇願するように、マリアンヌはそう尋ねた。それに対し、ライシュは思いがけず辛そうな顔をした。
「……国を富ませ、力を蓄え、その差を歴然たるものとし、もってこれを抑止力とする。それでは、駄目なのか?」
その問い掛けは、まるで縋りついているかのようにマリアンヌには聞こえた。彼女はたまらなくなり、大きな執務机を回ってライシュの傍へ行き、彼を後ろから抱きしめる。ライシュは抵抗することなく、頭を彼女の胸に預けた。
「エルスト殿は、それで思いとどまってくれるの?」
「無理だろうな……」
大きく息を吐きながら、ライシュはそう答えた。エルストは己の内側に野心を飼っている。だから同じく野心を抱える彼には、よく分かってしまうのだ。いずれ、我慢できなくなる、と。
それは、今回カルノーがどれほど懸命に働き、大きな成果を上げたとしても、覆すことのできない最終的な結末だ。ライシュにはそれが分かる。
仮に今回のサザーネギア遠征で何も得るものがなかったとしても、エルストはすでにギルヴェルスを掌中に収めているのだ。彼の頭の中では、すでにアルヴェスク侵攻のための戦略が構築されつつあるに違いない。今回の遠征はいわばその成功率を上げるためのものに過ぎず、彼の野心を遂げるために必須というわけではないのだ。
つまりライシュのいう「抑止力」は、抑止力たり得ていない。そのことを彼自身が一番よく知っていた。
「……覚えてる? 三人でうちの屋敷に来たときのこと」
「……ああ」
「貴方、とても楽しそうだったわ」
「ああ、楽しかった。三人でいるときは、いつも」
「それを壊してしまうの?」
マリアンヌがそう問い掛けると、彼女の腕の中でライシュが苦笑する気配がした。そしてしばらくの沈黙の後、彼は口を開いてこう言った。
「…………三人でいられれば、それが一番幸せなんだろうなと、そう思う」
「ええ、そうね」
「だけど、血が騒ぐんだ……。ロキと競っていると……」
その先にはどちらかの破滅しかないと分かっていても。それはある種の破滅願望なのかもしれない。ライシュはそんなふうにさえ思っている。
「……レイスフォール陛下の背中は遠い?」
「ああ。果てしなく、な……」
深いため息と共に、ライシュはそう言った。レイスフォールに、実父に認められたいという彼の願望は、摂政の座についてからというもの日増しに強くなっている。そして同時に、追うべきその背中はどんどんと遠くなる。
追えども追えども追い付けず、それどころか遠く離れていく。虚しさともいえるその感覚は、ライシュを焦らせた。彼には時間がないのだ。このままではフロイトスを、血の繋がった弟を無残にも引きずり下ろして皇王と成らねばならなくなる。それはたまらなく醜悪なことのように思えた。
そんな彼の前にあったのが、エルストとの決戦と言う道だったのだ。彼との決戦に勝利し、最終的にはギルヴェルスまでも掌中に収める。これで二カ国を併合したことになる。空前絶後の巨大な版図であり、それを実現せしめた摂政ライシュハルトの名は永遠に歴史書のなかで輝き続けるであろう。賢君と言われたレイスフォールの名と共に。
さらにエルストと競い合うことはライシュの心を躍らせた。子供っぽい言い方をすれば、楽しかったのだ。虚しさと焦りを感じていた中で、それだけが輝いていた。それで、彼はそれにのめり込んでいくことになる。
「ライシュは、皇王になりたいわけじゃないのね……」
マリアンヌのその言葉に、ライシュは何も答えない。何も言わない彼の代わりに、マリアンヌはこう言葉を続けた。
「貴方はただ、レイスフォール陛下から一言褒めていただきたかっただけ……」
「そうかも、知れん……」
ライシュは小さくそう呟いた。
『獅子となれ』
レイスフォールは我が子と認めたライシュに、ただその一言だけを贈った。今の自分は、父が望んだ獅子となれているだろうか。彼は胸を張ることができない。
『よくやった。さすがは我が息子だ』
たった一度、たった一言、その言葉を掛けてもらえれば。しかしそれはもう不可能だった。死者はなにも語らない。欲しかったその一言は、もう永久に失われてしまった。
「失われては、いないわ」
マリアンヌは強い口調でそう言い切った。彼女の腕の中で、ライシュが小さく身じろぎする。そんな彼に言い聞かせるようにして、彼女はさらに言葉を続けた。
「貴方が胸を張りたいのは、レイスフォール陛下だけなの?」
違う、とライシュは心の中で呟く。まるでそれが聞こえたかのように、マリアンヌはさらにこう続けた。
「カルノー殿やエルスト殿に、どう思われても、例えば軽蔑されてもいいの?」
「違う」
今度こそ声に出して、ライシュはそう答えた。カルノーやエルストにどう思われても構わないだなんて、そんなことはまったくない。そんな事は論外だ。それだけははっきりと答えることができた。
「正々堂々と相対すれば、エルスト殿は貴方を尊敬するでしょう」
しかしカルノーはどうだろうか、とマリアンヌは問い掛ける。
「それを防ぐための努力を何もせず、ただそれに向かって準備していくだけの貴方を見て、カルノー殿は貴方を尊敬できるのかしら?」
そう問い掛けられ、ライシュは苦笑した。カルノーはそんなライシュを尊敬などするまい。むしろ苦しげな顔をしながら奔走するのだ。二人の友人を争わせないために。その友人の姿に、ライシュははっきりと申し訳なさを感じた。
「……だがな。そうは言うが難しいぞ、これは。俺たちはもう、気楽な学生ではないのだ」
ライシュはアルヴェスクの摂政であり、カルノーは近衛将軍であり、エルストはアルクリーフ公爵にしてギルヴェルスの王配だ。それぞれに立場がある。学生だったことのようにはいかない。あの頃には出来ていたのに、今は出来なくなってしまったことが数多くある。
「『出来ることもまた多くある』。レイスフォール陛下は、そう言われたのではなかったのかしら?」
それは士官学校の卒業式での言葉である。あれはライシュに宛てた言葉だった。彼はそう信じている。
「そうだな……」
「それに、エルスト殿には健在でいてもらった方が、ライシュには得だと思うわよ」
マリアンヌは言う。アルクリーフ公爵にしてギルヴェルスの王配たるエルストを、二十歳になった皇王フロイトスは御しきれるだろうか。
「無理だろうな」
ライシュは即答した。フロイトスが二十歳になった時、エルストは今よりさらに手強い存在になっているだろう。それをまだ若造のフロイトスが御しきれるはずがない。これは、決して彼の能力を疑っているわけではない。ライシュ自身が二十歳だったころを鑑みての判断である。
「ならその時、貴方はまだ必要とされるんじゃないかしら?」
皇王になることはできないかもしれない。しかし摂政として国政に関わる時間は、もっと長くすることができるかもしれない。他ならぬエルストの影響力によって。マリアンヌはそう言っているのだ。
「では、ロキには長生きしてもらわねばな……」
含み笑いを漏らしながらライシュがそういうと、マリアンヌは優しい声で「そうね」と応じた。
「今日はもう晩いわ。もう休まない?」
話すべきことは全て話した。そう思ったのだろう。マリアンヌの声は明るい。
「いや。もう少し、きりのいいところまで片付けるさ。……心配するな、ちゃんと休む」
「そう? じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
最後にライシュの額に口付けを一つ落すと、マリアンヌは執務室を後にした。その背中を、ライシュは苦笑と共に見送る。
(仕事に逃げてしまったか……)
自嘲気味にライシュは軽くなった胸中でそう呟く。きりのいい所まで仕事を終わらせたかったのは本当だ。しかしそれ以上に、今はマリアンヌと一緒に行きたくなかった。今一緒に行けば、きっと閨の中でまで子ども扱いされていたことだろう。それはさすがに遠慮したかった。
「やれやれ……」
そのみっともない理由を、ライシュは仕事に没頭することで頭の中から追い出す。ちなみにこの夜、彼は寝室には戻らずに執務室のソファーの上で横になって休んだ。翌朝、マリアンヌに呆れられたのは言うまでもない。




