交誼の酒19
「これはどういうつもりであるか、アレスニール殿!?」
サザーネギア軍の本陣では、エルストがおよそ予想したとおりの光景が繰り広げられていた。エドモンドが曲がりなりにも敬語と敬称を用いているのは、相手が同格の公爵であり、また年上のアレスニールだからである。これがカレナリア相手であれば、「女のくせにでしゃばりおって!」くらいの暴言は吐いていたに違いない。
「まあまあ、エドモンド殿。落ち着いてくだされ」
そう言ってアレスニールはエドモンドを宥めた。しかし彼が気を静める気配はない。青筋を浮かべそうな苦々しい形相のまま、握った拳を机に叩き付けた。
「落ち着いてなどいられるか! あの条件案は何だ!? あまつさえ敵軍を案内してくるなど……! 貴公、裏切ったか!?」
敬語さえ忘れてエドモンドは叫ぶ。何もかもが、気に入らなかった。
アレスニールが提示した講和の条件案は、サザーネギア側に不利な内容だった。賠償金はともかく、領地の割譲まで盛り込んでいる。領地が減れば、それは国力の低下に直結する。為政者としては回避するべき事態のはずだ。
加えて、割譲されるのはエドモンドの派閥の貴族の領地だ。よって彼の影響力も低下する。さらに不利な条件案を呑まされたことで彼は敗戦の将と呼ばれるだろう。それは彼にとって受け入れられないことだった。
さらに、グリフィス領軍と敵別働隊が陣取った場所が問題だった。あろうことか、彼らはエドモンド率いるサザーネギア軍本陣の背後に陣を敷いたのである。要するに挟み撃ちだ。現在は交渉中なので戦闘はまだ始まっていないが、交渉が決裂した場合、本当に挟み撃ちにあう可能性は非常に高い。
エドモンドにしてみれば、背中に剣を突きつけられながら講和を強要されているようなものだ。アレスニールが裏切って敵側と内通していると勘繰るもの無理はない。実際、彼が大変不本意ながらも、ひとまず交渉の席に着くことを選んだのはこれが理由だった。本陣の裏側の防備を固める時間を欲したのだ。今やアレスニールでさえ、彼にとっては潜在的な敵だった。
エドモンドの強硬な態度を見て、アレスニールは内心ため息を漏らす。実際のところ、現在サザーネギアが置かれている情勢は悪い。恐らくは、エドモンドが思っている以上に。それを彼に分からせるため、アレスニールはまずこう言った。
「……ガルネシア海の対岸に、ナルグレーク帝国軍が布陣しています」
ぴくり、とエドモンドの目の端が動いた。そして彼の発していた怒気が僅かに薄れる。こういうところで少しでも冷静さを取り戻せるのは、さすがに巨大派閥を率いる盟主の器である。
「……数は?」
「さて、10万には届かないでしょうが、それでも数万。ただし、後方で準備しているであろう部隊を加えれば……」
「10万は軽く越える、か……!」
忌々しげにエドモンドは吐き捨てた。南からの、つまりナルグレークの侵攻はまだ始まっていない。しかし彼らはその機を虎視眈々と狙っている。西の戦況如何では、今すぐに侵攻を開始してもおかしくはない。
「加えて、カレナリア殿の話では東にも剣呑な気配があるとか」
さらにアレスニールはそう付け加える。それを聞いてエドモンドはさらに苦々しげに顔を歪めた。その話が本当なら、サザーネギアは最悪、三方から侵略され蹂躙されることになる。
「ハイエナどもめ……! 我が国は死肉ではないぞ……!」
「左様。我らの祖国を死肉とするわけにはいきませぬ。そして、そのための和平交渉です」
アレスニールがそう言うと、エドモンドは彼を鋭く睨み付けた。その視線をアレスニールは真っ直ぐに受け止める。
三方から攻め込まれることになる前に、和平交渉を成立させてギルヴェルスとの戦争を終わらせる。確かに国土の一部を失うことにはなるが、しかし今ならば十分に余力のある状態を保持できる。そうして隙を見せることなく、他の二方を警戒しまた牽制する。アレスニールのその考えは、エドモンドにも理解できた。しかしそうすぐに納得はできない。
ここで講和を受けいれるということは、エドモンドの野心が、少なくとも当面は潰えることを意味している。それに国土という代償を支払うのは彼の派閥なのだ。それを受け入れがたく思うのは、ある意味で当然のことだった。
その気持ちはアレスニールにも想像できる。とはいえ、彼にも言いたいことはあった。
(もとはと言えば……)
もとはと言えば、全ての発端はエドモンドがギルヴェルスに仕掛けた迂拙な謀略、いや略奪である。このためにギルヴェルスはサザーネギアへの遠征を決意したのだ。そのためアレスニールに言わせれば、今のこの状況は彼の自業自得だった。
そう言ってやりたいのを、しかしアレスニールはぐっと堪える。言ってしまえば、エドモンドは態度を硬くするだろう。それでは交渉を纏めることはできない。
「エドモンド殿、サザーネギア連邦を亡国とするわけにはいきませぬ。今、必要とされているのは英断でござる!」
身を乗り出しながら、アレスニールはそう言った。それを聞いて、エドモンドは初めて僅かな苦悩を見せた。
「……もし交渉が決裂した場合、アレスニール殿はいかがされる?」
「手勢を率い、ランプゼン城砦に篭ることになるでしょう。ナルグレークの動向を監視せねばなりませぬ」
アレスニールの答えは予想通りのものだった。彼がここに残れば、サザーネギア軍の指揮系統は少なからず混乱する。そういう意味では彼の選択はエドモンドにとって歓迎すべきものだ。しかし重大な問題が一つある。
「敵の別働隊をそのままにしていくおつもりか!?」
それは同時に、敵別働隊を抑えておく存在がいなくなることを意味してもいる。東西からの挟み撃ちは避けられそうにない。そしてそれ以上に補給線の確保が難しくなる。それが大変に不利な状況であることは、容易に想像できた。
「ここでの情勢はナルグレークの間者も監視していることでしょう。こう言っては申し訳ありませぬが、ここで手間を取られるわけにはいかんのです」
強い口調でそう言われ、エドモンドは思わず息を呑んだ。そして思い出す。アレスニールもまた巨大な派閥の盟主であることを。
サザーネギアにおいて三人の公爵は、決して固く結ばれた盟友同士ではない。どちらかと言えば、監視し牽制し合う仲だ。利害が一致する場合には積極的に手を取り合うが、しかし他人よりも自分の派閥が第一であることは変わりない。
(まさか、我々を生贄にするつもりか……!?)
その可能性に初めて気づき、エドモンドは背中に冷たいものを感じた。彼の思い描いた未来はこうだ。
交渉が決裂した場合、アレスニールはひとまずランプゼン城砦へ撤退する。そして補給線を断たれるなりしてサザーネギア軍が崩壊した後、南方の監視を理由に動くことを拒み、遠征軍がエドモンドらの領地を切り取るのを黙認する。そして被害が自らの派閥に及びそうになったところで、カルノーという伝手を頼って遠征軍と和睦する……。
本当にそれをアレスニールが考えているのか、それはエドモンドには分からない。しかし今の彼にとって重要なのは、アレスニールがそれを選択しうる立場にいる、ということだ。
この状況は命運を彼に握られているに等しい。その手札をちらつかされるだけで、エドモンドの立場は加速度的に悪くなる。派閥の貴族らに知られれば、離反者が相次ぎかねない状況だ。
無論、アレスニールとてその手札を切ることを望んでいるわけではないだろう。それは講和の条件案を持ってきたことからも分かる。エドモンドの派閥が壊滅すれば、飛躍的に国力を増大させたギルヴェルスを隣に置くことになるのだ。南方のナルグレークと合わせて餓えた虎を、しかも二匹、傍に置くようなものなのだから。
しかし派閥を、そしてグリフィス公爵家を守るためにそれしか策がないのなら、アレスニールは躊躇わずにそうするだろう。彼がそういう冷徹さを持ち合わせていることを、エドモンドは知っている。
(ちぃ……!)
エドモンドは内心で舌打ちした。野心が潰えるだけではない。派閥やバルバトール公爵家を含め、このままでは文字通り全てを失いかねない。その可能性は、もともと守りに傾いていた彼の思考の天秤をまた大いに傾けた。
(仮に……)
彼は素早く計算して、条件案を呑んだ場合の損失とその影響を計算する。割譲されるのはルルガーク男爵らの領地だから、彼らに対しては金銭か役職か、何らかの補償が必要になるだろう。また割譲した分、エドモンドの派閥の力も低下する。
(とはいえ……)
とはいえ、3州程度なら致命的な打撃は避けられる。賠償金の方は、他の二人の公爵に負わせることが可能だろう。エドモンドの派閥は身を切るのだ。二人とも、まさか嫌とは言うまい。
(これならば……)
そしてこれならば、バルバトール公爵家については、失うものがない。つまりエドモンド自身の基盤は守ることができる。三大公爵としての面子は十分に保たれる。
それに、戦力的な損耗も少ない状態だ。割譲された領地の奪還は十分に可能であろう。それも、そう遠くない未来に。
「……アレスニール殿は現在、議会の議長を務めておられる。その顔を立て、交渉の席に着くことはやぶさかではありませぬ」
「おお! それでは……」
「ですが! 条件案を呑むと決めたわけではありませぬ。これを敲き台にして、新たな交渉を行う。それでもよろしいか?」
「無論です。さっそく、遠征軍のほうにもその旨を連絡いたしましょう」
そう言ってアレスニールは莞爾と笑った。その笑みに、エドモンドはちくりと劣等感を刺激さる。しかし彼はそれを頑強に無視した。
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「まさかグリフィス公爵と一緒に来るとな。驚いたぞ、カルノー」
遠征軍本陣での軍議を終えると、ラクタカスとカルノーは近衛軍の陣において、今度は二人だけで向かい合っていた。なお、ここにいるのは全てラクタカス隷下の兵であり、カルノー率いる別働隊は敵本陣を挟んでさらに東に布陣している。
「私の一存で作戦を大幅に変更してしまいました。申し訳ありません」
「構わん。もとより、お前にはそれが摂政殿下より認められている」
謝罪するカルノーを軽く制し、ワインの注がれた杯を傾けながらラクタカスはそう言った。そしてカルノーに対し、「お前も飲め」と勧める。二人の雰囲気は、先ほどまでの軍議と比べると随分くだけていた。
「いただきます」
そう言って杯に口をつけるカルノーを見ながら、ラクタカス自身はつまみのローストナッツに手を伸ばす。三粒ほどを口の中に放り込んでから、彼はおもむろにこう言った。
「……それで、あの公爵殿はなにを考えている?」
僅かに苦笑を滲ませながら、ラクタカスはカルノーにそう尋ねた。ここでアレスニールが動くというのは予想外だった。サザーネギアにおいて三人の公爵は同格であると聞いている。それゆえ、エドモンドが矢面に立っている限り、アレスニールは大きくは動かないだろうと思っていたのだ。
その彼が、動いた。しかも講和の条件案なる物までこしらえて。アルヴェスクにしてみれば、いい意味で予想外だった。しかし予想外であることに変わりはない。その意図はどうしても気になる。
「早期に和平交渉をまとめ、傷を最小限にする。それが最大の目的ではあるのだろうが、果たしてそれだけなのか?」
「……恐ろしい御仁ですよ、あの方は」
杯から口を離したカルノーは、そう言って畏怖の混じった苦笑を浮かべた。そして「師父を彷彿とさせる」とアレスニールのことを評した。カルノーにとって最大限の評価である。
「それほどか」
ラクタカスが唸る。カルノーは一つ頷いてからアレスニールの目的を端的に口にした。
「アレスニール殿は皇国との同盟を望んでいます」
「同盟、だと……」
それを聞いて、さすがのラクタカスも驚いた様子を見せた。カルノーもそうだったが、それほどまでに非常識な発想なのだ。現在戦っている敵と同盟を結ぶなどと言う考えは。
「いや、しかし……」
ラクタカスの目の色が僅かに変わる。彼もまた、この同盟の利に気付いたのだ。この同盟が成れば、遠征に援軍を出して相手の取り分を減らすような、中途半端で実効性の薄い策に頼る必要はなくなる。より直接的に東西からギルヴェルスを、ひいてはエルストを牽制できるようになるのだ。
「だが、難しいぞ、これは」
「それは、アレスニール殿も承知しています。それであの御仁は……」
そこでカルノーは言葉を切った。その先を告げるべきかどうか、迷ったのだ。しかしラクタカスが「どうした?」と尋ねると、意を決する。ここで黙りこくっては、かえってあらぬ疑いを持たれると思ったのだ。
それで周りを伺ってから、カルノーはラクタカスに対して身を乗り出す。そして怪訝な顔をしながらも同じく身を乗り出してきた彼の耳元で、声音を極力落としながらこう言った。
「私に、公爵家の世子とならぬか、と……」
「な……!?」
ラクタカスがついに言葉を失う。そして同時に、カルノーがそれを話すべきかどうか迷った理由を理解する。迂闊に人に話せば、それこそ敵に内通して裏切ったと思われるだろう。特にエルストやラジェルグらには、絶対に知られるわけにはいかない。
「この話、誰か他の者には……?」
「知っているのは、私と大将軍とアレスニール殿の三人だけです」
カルノーは首を横に振りながらそう答えた。それを聞いて、ラクタカスが安堵の息を吐く。ひとまず、秘密は保たれていると見て良さそうだった。
「それで……、まさか受けたのか?」
「それこそまさかです。最低限、摂政殿下のお許しがなければ……」
カルノーの言葉に、ラクタカスは重々しく頷いた。そして理解する。彼がアレスニールのことを「恐ろしい」と評した、そのわけを。
「それで、当事者としてお前はどう思っている?」
「同盟を成立させる方策としては秀逸であると思っています」
カルノーは率直にそう答えた。それを聞いてラクタカスは「そうか」と言って腕を組み、なにやら思案するように顎を撫でた。
「……主に同盟に関してですが、アレスニール殿から摂政殿下に当てて親書をお預かりしています」
黙ってしまったラクタカスに対し、カルノーは懐から一通の封筒を取り出した。その中には世子云々に関するあの証明書も含まれているのだが、そのことはひとまず伏せておいた。
「……それはまだ、お前の方で持っておいてくれ」
そう言ってラクタカスはその封筒を受け取ろうとはしなかった。恐らくだが、近衛軍としてサザーネギア側と独自に交渉している、ともすれば内通していると思われるのを嫌ったのだろう。
「分かっているとは思うが、人には知られるなよ」
「承知しています」
カルノーそう言ってしっかり頷くと、封筒を懐に戻した。それを見てからラクタカスはワインを一口煽る。それから、意識して砕けた口調にしながらこう言った。
「他に報告することはあるか?」
「そうですね……。そういえば、ガルネシア海の対岸にナルグレークが軍を集めていました」
ジュリアのことはあえて伏せ、カルノーもまたなんでもないような口調でそう言った。実際、これは最初から予想されていたことだった。
「そうか。上手い具合に牽制になってくれればいいんだがな」
「アレスニール殿が交渉を急ぎました。思った以上に効果はあったと見るべきでしょう」
「まあ、そういうことにしておくか」
面白がるような視線をカルノーに向けながら、ラクタカスはそう言った。彼が何を言いたいのかカルノーは大よそ察していたが、ただ肩をすくめるだけにしてそれ以上の深入りは避けた。
それから二人はしばらくの間、酒盛りがてらの報告を続けた。多くはこれまでの経過と現状の説明、そして今後の方針の確認だったが、そもそも堅苦しい雰囲気ではなかったので何の意味もない談笑もあった。
「カルノー。今夜はもう晩い。天幕を用意させてある。泊まって行け」
報告と言う名の酒盛りが終わると、ラクタカスはカルノーにそう言った。彼の口調はぞんざいで軽いが、言っていることは実は重大だった。要するに、暗殺を警戒して夜のうちは出歩くな、と言っているのだ。
ちなみに、刺客を差し向けてくる候補はなにもサザーネギア軍のエドモンドだけではない。それどころかラクタカスの頭には、ラジェルグあたりの顔が真っ先に浮かんでいるに違いない。遠征軍の麗しい実情である。
「ありがとうございます。そうさせてもらいます」
カルノーは素直にそう応じた。ラクタカスの懸念を十分に理解しているのだ。
「別働隊の指揮は大丈夫か?」
続けてラクタカスはそう尋ねた。ともすれば交渉が終わるまで、カルノーは自分の部隊に戻れない。
「ええ。私が不在の間は、指揮は全て副将のジェイル殿が執ることになっています」
「そうか。ならば問題はないな」
ラクタカスの言葉にカルノーは笑顔を見せながら頷く。実際のところ、「指揮を任せる」と言われたジェイルは青い顔をしていたのだが、カルノーはそれを華麗に無視した。
そして次の日の朝、ラクタカスの元にエルストから使いが来た。正午から二回目の交渉が行われるのでそこに参加するように、という内容だった。
「いよいよ始まるな」
「ええ」
少し緊張した面持ちで、ラクタカスとカルノーはそう言葉を交わす。サザーネギア遠征は大きな局面を迎えようとしていた。




