交誼の酒17
「オスカー将軍。いえ、カルノー殿。貴方を我がグリフィス公爵家の世子としてお迎えしたい」
アレスニールがそう言ったとき、カルノーは思わず言葉を失った。彼の言ったことが理解できなかったわけではない。むしろ、理解できたからこそ言葉を失ったのである。
「グリフィス公爵……!」
「どうぞアレスニールとお呼びください」
「……アレスニール殿、正気ですか?」
「もちろん正気です。そして本気です」
アレスニールはカルノーの目を真っ直ぐ見ながらはっきりとそう言った。その真剣さに、思わずカルノーの方がたじろぐ。
「そ、そもそも、なぜそのようなことを考えられたのですか?」
「ふむ。やはりまずは、そこから説明しなければなりませんな」
アレスニールの語る直接の理由は単純なものだった。彼には世子としていた息子がいたのだが、その彼が昨年病で死んだ。彼の妻は娘のデルフィーネを出産した後、肥立ちが悪くて体調が戻らず、やはりすでに他界している。そして息子夫婦にはデルフィーネのほかに子供がいない。
「本来であれば、デルフィーネに良き婿を迎え、その者に公爵家を継がせるのが筋でしょう。しかし、孫はまだ二歳。婚約はともかく、結婚は現実的ではない。ですが、私も歳です。いつ何時、倒れるかも分からない。早急に世子を定める必要があります」
「しかし、なぜ私なのですか?」
カルノーの疑問は当然だった。直系の子や孫はいないとしても、グリフィス公爵家ともなれば縁者は多いはず。カルノーにお鉢が回ってくる前に、その中から適任者を選べば良い。それが本来の筋のはずだ。
「……私に後継者がいないこの状況を好機と思ったのでしょう。バルバトール公爵に先手を取られましてなぁ」
苦笑を浮かべながら、アレスニールは己の不明を恨むかのようにそう言った。世子としていた息子の死後しばらくして、バルバトール公爵エドモンドよりある申し出が為されたという。
「彼の三男を、我が公爵家に養子として差し上げたいと、そう言ってきたのです」
血筋の問題については、デルフィーネとその三男の子供を婚約させることで解決する。エドモンドはそう提案した。実質的に、バルバトール公爵家によるグリフィス公爵家の乗っ取りである。暴挙と呼んで差し支えない所業であろう。
これがアルヴェスクであれば、このような養子縁組は宮廷によって阻止される。一つの貴族家の力が大幅に増すのは、皇王にとって見過ごせない事態だからだ。しかしサザーネギアには阻止するべき機構が存在しない。王を持たないためだ。そのためエドモンドはこれを押し通そうとしている。
「いえ、彼にしてみれば、実際に養子縁組が叶わなくても良いのでしょう」
むしろ、そういう態度を見せて周辺を牽制し、この問題を停滞させる。そして世子を定めぬままアレスニールが死去すれば、それはグリフィス公爵家の、ひいてはその派閥の力を大きくそぐことに繋がる。そうなれば、バルバトール公爵家とその派閥の力は相対的に増す、という寸法だ。
「尤も、バルバトール公爵のことは、実際のところそう大きな問題ではありません。グリフィス公爵家の当主はこの私。私が無理にでも世子を定めてしまえば、彼もそれ以上は何も言えませぬ」
「確かに」
「カルノー殿を世子にと見込んだ最大の理由。それはこの縁をアルヴェスク皇国との同盟に繋げたいからです」
「な……!?」
再びカルノーは言葉を失って絶句した。
アルヴェスクとサザーネギアの同盟。これは極めて大きな意味を持つといえる。この同盟が成れば二カ国でギルヴェルスを東西から、そしてナルグレークを南北から挟み込むことができる。これが戦略上、重大な意味を持つことは言うまでもない。
加えて、アルヴェスクとギルヴェルスはすでに同盟を締結している。そして今度はアルヴェスクとサザーネギアが同盟を締結すれば、ギルヴェルスとサザーネギアの間にも間接的な繋がりが生まれる。そうすれば今後、軍事的理由のみならず政治的な理由においても、ギルヴェルスはサザーネギアに対して領土的野心を示すことができなくなるだろう。
「アルヴェスクとサザーネギアの間に同盟がなれば、ギルヴェルスもこれ以上我が国に対して穂先を向けることはしないでしょう」
カルノーの考えを肯定するように、アレスニールはそう言った。その言葉に、カルノーは重々しく頷く。上手くいけば、ギルヴェルスの国力がこれ以上増すことはない。それどころか、ギルヴェルスは東西からの挟み撃ちを避けるために、今以上にアルヴェスクとの同盟を頼りにしなければならなくなる。
(そしてそれは……)
そしてそれは、エルストの力がこれ以上増さないということでもある。これは、ライシュとエルストの力関係を無理やりにでも固定化させ、二人を決して争わせないという、カルノーの個人的な思惑とも一致する。この同盟こそが、彼の捜し求めていた解であるかのようにさえ思えた。
(それにしても、まさかここまで考えておられたとは……!)
カルノーは瞠目する。現在、サザーネギアはギルヴェルスとの戦争の真っ最中だ。そしてアルヴェスクはギルヴェルスに大いに協力している。つまりアルヴェスクは敵国だ。その敵国との同盟をこの段階で思いつき、さらに実現させるために行動を起こすなどと言うのは、並大抵のことではない。その視点の高さに慄然とさえする。
「……しかし、本当に可能なのですか?」
「それは世子の件でしょうか、それとも同盟の件でしょうか?」
「世子の件、です」
同盟の件について言えば、カルノーも実はそれほど心配していない。軍事的な観点から言えば、ギルヴェルスとの同盟よりはるかに、アルヴェスクにとっての利が大きい。彼のほうからもライシュに働きかければ、同盟は成るだろう。
しかしその前提として、彼がグリフィス公爵家の世子とならねばならない。そうでなければ、ついこの間戦ったばかりの敵国とすぐに同盟を結ぶことはできないだろう。
グリフィス公爵家がただの貴族であれば、アレスニールの言うとおり当主の一声で世子を定めることもできるだろう。しかしグリフィス公爵家は、持ち回りとはいえ連邦議会において議長を務める、サザーネギア連邦の重鎮だ。
国の三分の一を治めていると言っても過言ではない公爵家の世子に、あろうことか敵国の人間が選ばれる。異論が噴出するのは火を見るより明らかであるように思えた。しかしアレスニールは穏やかな声音ながらも、確たる口調でこう言い切った。
「何も問題はありませぬ」
その言葉を聞いて、カルノーは不思議なまでに納得を得た。無論、彼がこの場で応じて今すぐにというわけではないだろう。しかし一度こうと決まれば、アレスニールは万難を排してそれを実現させるはずだ。そのための影響力と行動力そして聡明さを、彼は持っている。
だがグリフィス公爵家の家臣たちはどうだろうか。公爵家は長く続く名家。その家臣たちは譜代意識が強い。いくら当主直々の指名とはいえ、それを受け入れがたく思う者たちは多いはずだ。
しかしカルノーのその懸念についても、アレスニールは整然とこう答えた。
「血筋についてとやかく言う者もいるでしょうが、それについてはカルノー殿のご子息と孫のデルフィーネを婚約させれば問題はありませぬ」
カルノーの息子がデルフィーネと結婚すれば、公爵家当主の座はアレスニールの血筋に還ることになる。その筋道さえはっきりさせれば、譜代意識の強い家臣たちも納得するであろう。
「まあ、もしご子息が生まれなければ、カルノー殿にデルフィーネを貰っていただくことになりますが……」
「ですから、それは……!」
蒸し返された第二夫人の話に、それまで大人しく話を聞いていたジュリアがあわてて割り込んだ。そんな彼女にアレスニールは悪戯っぽい笑みを向ける。またしてもからかわれたことを悟り、ジュリアは気まずげに言葉を詰まらせた。
「尤も、ジュリア夫人はご健勝でいらっしゃる。心配はしておりませぬよ」
「……当然です」
努めて作ったすまし顔で、ジュリアはそう応じた。その頬が赤く染まっているように見えるのは、テーブルの上に置かれた蝋燭の火のせいか、あるいは羞恥のためか。まるで自分の娘を慈しむかのような笑みを浮かべてから、アレスニールはカルノーのほうに視線を戻した。
「いかがですかな。この話、お受けいただけませぬか?」
「……私の一存では、お答えしかねます」
確かにカルノーは別働隊を率いて行動する上で、ライシュよりほとんど摂政の名代に等しい権限を与えられている。その理屈で言えば、彼の一存でこの話を受けてしまっても良かっただろう。
しかしカルノーに与えられた権限とは、要するにこの作戦に関わる範疇での話であると考えるのが自然だ。それで彼としては、そう答えるしかなかった。これは国同士の問題である。最低限、同盟の件を含めてライシュに報せ、その判断を仰ぐ必要があった。そうでなくとも今は戦争中だ。勝手に世子の話を受ければ、カルノーはその座と引き換えに祖国を売った裏切り者と呼ばれかねない。
「カルノー殿の事情も理解しているつもりです。どうぞ、摂政殿下にお伺いを立ててください」
莞爾とした笑みを浮かべながら、アレスニールはそう言った。その言葉に、カルノーは内心で胸を撫で下ろす。
「それで、私のほうからも摂政殿下に親書をしたためさせていただきました。これも一緒に届けてくだされ」
そう言うとアレスニールは侍女に命じて、部屋の隅に用意してあったプレートを持ってこさせる。そこには一通の封筒と、そこに封をするための道具が乗せられていた。
「どうぞ、中身を確認して見て下され」
驚いたことに、アレスニールはそう言ってまだ封のされていない封筒をカルノーに差し出した。
「……よろしいのですか?」
アレスニールが頷いたので、カルノーは封筒の中身を取り出してそれを確認していく。中に収められていたのは彼の言ったとおりライシュへ向けた親書で、カルノーを公爵家の世子としたいこと、またアルヴェスクとの同盟を望んでいることなどが記されていた。そしてその最後に、カルノーは信じられないものを見つけた。
「な……!?」
カルノーは自分の目を疑った。そこにあったのは一枚の証明書である。彼のことをグリフィス公爵家の世子として認める旨が記された証明書である。
証明書には、「これは双方の合意によって成立する」と書かれており、アレスニールの署名とその印章がすでにそこにはあった。当然、カルノーの署名と印章はまだなく、現時点では何の効力も持たない。しかしそれさえあればこの証明書は法的効力を持つ。少なくともグリフィス公爵家世子の座を求める、強力な武器となるだろう。
それを、まだ返事ももらえていない段階で相手方に渡す。しかも今は戦争中。露見すれば裏切り者と見なされるだろう。非常識極まりなく、暴挙と言っていい。なぜアレスニールほどの人物がこのようなことをするのか。カルノーはその真意を測りかねる。しかしその疑問は、彼の次の言葉ですぐに氷解した。
「いざという時には、迷わずお使いください」
アレスニールの言う「いざという時」が、和平交渉が決裂した時のことをさしているのは明白だった。その時、グリフィス公爵家に預けられたジュリアは人質にされかねない。カルノーのその不安を、彼は的確に察していた。
この証明書はその不安への、アレスニールなりの回答と言える。例えサザーネギアの中で孤立したとしても、決してジュリアとお腹の子供を人質になどさせない。その決意の表明だった。
ただ、普通にこの証明書をカルノーへ預けたのでは、事と次第によっては彼こそが裏切り者にされてしまう。そこで、あらかじめ内容を知らせた上で、皇国摂政への親書という形にして彼に持たせる。封を破らなければ、中身については知らなかったと言い張ることができるだろう。ジュリアを公爵家に預けた件にしても、摂政の密命による諜略の一環であると匂わせることができる。
「……なぜ、ここまでしてくださるのですか?」
カルノーの目の前で、封筒に蝋の封が押される。それを改めて差し出され、彼は思わずそう尋ねた。
「それだけ、期待しているということです」
「同盟に、ですか?」
「いいえ。貴方に、です。カルノー殿」
それを聞いてカルノーは思わず苦笑した。そして封筒を受け取る。まったく、この御仁は人たらしである。
さて、その次の日、カルノーはジュリアを見送った。彼女はこれから用意された馬車に乗って〈ラニキア〉という都市へと向かう。そこにはグリフィス公爵家の本邸があり、そこで出産の準備をすることになる。カルノーは妻の傍に副官のイングリッドを付けようかと言ったのだが、それはジュリア自身が謝絶した。
「イングリッド殿はお主の副官じゃ。お主の傍にあって勤めを果たすのが筋というもの。私のことは気にするな」
そう言ってジュリアはただ一人、用意された馬車に乗り込んだ。無論、同伴する侍女はいる。しかし彼女らは公爵家から来た侍女らであり、当然ジュリアとの面識はない。これから彼女はしばらくの間、見知らぬ人々の中で生活し、そのうえ子供さえ産まなければならぬ。
しかしそれでもジュリアは不安な様子を見せることなく、しっかりと背筋を伸ばし、凛然とした出で立ちを微塵も崩さない。その立ち振る舞いに、アレスニールはいたく感銘を受けたようだった。
「なにかご要望がありましたら、家令のクーゼという者がおりますので、その者に何なりとお申し付けください」
「ご配慮、感謝します」
アレスニールの言葉に、ジュリアは笑みを浮かべながらそう応じた。彼女によく似合う快活な笑みだ。
「ジュリア、身体に気をつけて」
「カルノー、子供の名前を考えておいてはくれぬか?」
出し抜けにそう言われカルノーは少し驚いたが、すぐに微笑を浮かべて「分かった」と応じた。
「男子の名前だけでよい。必ず、男子を産む」
気負った表情でそう宣言するジュリアを見てカルノーは苦笑する。どうやら昨晩の第二夫人の件を未だに根に持っているらしい。それが分かったのか、アレスニールは急に視線を逸らしてそっぽを向いた。
「……元気な子供を、産んでください」
ここで「女の子でもいい」と言っても、ジュリアは納得しないであろう。それで結局、カルノーはそんなふうに言葉を選んだ。
「上手くことが進めば、臨月の前にジュリアの所へ行けます。……くれぐれも、身体にだけは気をつけて」
「うむ。カルノーも」
最後にそう言葉を交わしてから、ジュリアを乗せた馬車は出発した。その背中を少し物悲しい気持ちで見送ってから、カルノーは気を引き締め直す。これから彼はアレスニールと共に、いよいよ戦場へと向かうのである。
ジュリアらが出立したそのすぐ後、二人はそれぞれ軍勢を率いてランプゼン城砦を出撃した。グリフィス領軍2万と、アルヴェスクの近衛軍3万、合計5万の軍勢である。アレスニール率いるグリフィス領軍が前を行き、その後ろにアルヴェスク軍が続いた。彼らは進路を西へ取る。
目指すは遠征軍とサザーネギア軍が睨みあう、グレンダン丘陵地帯。そこがカルノーの望んだ戦場である。




