交誼の酒13
「カルノー……」
「ジュリア、よかった」
ジュリアを老医師に見せた次の日の朝。天幕の中に入ったカルノーは、寝台の上で身体を起こす彼女の姿を見て安堵の息をもらした。彼を見て浮かべた笑みはまだまだ弱々しいが、昨日に比べて顔色は随分と良い。薬が効いたのか、あるいはゆっくりと休めたことが良かったのか。恐らくはその両方であろう。
昨晩、カルノーは副官のイングリッドにジュリアのことを任せ、自分は別の天幕で休んだ。ちなみに転がり込んだのは副将の天幕である。彼もジュリアの容態を気にかけており、ひとまず安定して眠っていることを告げると安堵した様子だった。
イングリッドが用意してくれた朝食を、二人で一緒に食べる。穏やかなこの時間が、ひどく幸せだった。
「カルノー……、すまぬ」
消化のよいスープを食べていたジュリアの手が、ふと止まる。そして彼女は心の底から申し訳無さそうにそう言ってカルノーに頭を下げた。足手まといにならぬと言っておきながら、この有様である。しかも、身篭ってさえいた。情けないやら、嬉しいやら、申し訳ないやらで、ジュリアには謝ることしかできなかった。
「もう、いいんです。大丈夫ですよ」
そんな妻に、カルノーは穏やかに微笑みながらそう応じた。彼自身驚くべきことに、昨日からこの時までの間に、ジュリアがここまで来てしまったことへの怒りを覚えたことは一度もない。
昨日、ジュリアの姿を見たときには怒るより先に動揺してしまった。彼女の懐妊を知らされたときには怒る余裕もないほど驚いていた。そして、こうしていささかでも回復した妻の姿を見て、まず胸に去来するのは安堵だった。
「しかし……」
「叱るのは、ステラ様とマリアンヌ様にお任せしますよ」
カルノーが冗談めかしてそう言うと、ジュリアは思わず「げっ」と声を出し、露骨に頬を引き攣らせて怯んだ。いかな武勇に優れる彼女といえど、母と義理の姉には頭が上がらない。尤も、素直に叱られるのも彼女の美徳の一つだとカルノーなどは思っている。いや、それも惚れた弱みか。
「今は自分の身体と、お腹の子供のことだけを考えていてください」
「……敬語」
少々拗ねた様子で、そっぽを向きながらジュリアはそう言った。その子供っぽい仕草に、カルノーは思わず苦笑をもらす。そしておもむろに彼女の身体を優しく抱きすくめる。
「……今は自分の身体と、お腹の子供のことだけを考えていて欲しい」
「……うむ」
カルノーの胸に頭を預けながら、ジュリアはそう言って小さく頷いた。
朝食を食べ終わると、ジュリアにゆっくり休むように言ってから、カルノーは空になった食器を持って天幕の外に出た。食器を兵に渡すと、彼は天幕に戻らずそのまま陣中を歩き始めた。
(しかし、どうしたものか……)
歩きながら思案する、カルノーの表情は苦い。彼が考えているのは、もちろんジュリアの処遇である。
昨日診察してもらった老医師からは「長旅などもってのほか」と言われている。無事に子供が生まれるまでは、いや最低でも出産後の数ヶ月間にわたっては安静にしているように、というのが彼の言葉である。
『大げさに思えるかもしれませんが、それくらい大変なことなのです。子供を産むというのは』
眉間にしわでもよっていたのか、老医師は釘を刺すようにそう言った。そして「男性である将軍には想像しにくいかもしれませんが」と付け加える。そう言われてしまうと、確かに自分で子供を産むわけではないカルノーは押し黙るしかなかった。実際、ジュリアのことを考えればここで安静にさせておくのが一番いい、というのは彼にも分かる。
しかしながら、現実問題としてはそう簡単に決めるわけにはいかない。ここがアルヴェスク皇国であれば、子供が生まれるまで腰を落ち着けてしまっても良かっただろう。百歩譲ってメルーフィスであっても、こんなに悩むことはなかったはずだ。
だがここは異国のナルグレーク帝国である。しかもカルノーはこれからサザーネギア遠征のためにガルネシア海を越えなければならない。つまりジュリアを異国に一人残すことになる。それがたまらなく不安で心配だった。
今すぐにでもジュリアを帝都へ送り返したい。帝都が無理なら、せめて総督府のあるメルーフィスの旧王都プレシーザへ。それがカルノーの本音だった。だがそれのためには長旅をする必要がある。
船を使ってフラン・テス川を遡れば時間は短縮できるのかもしれない。しかしその船旅でジュリアは体調を崩した。お腹の子供への影響も心配だ。それに老医師にも長旅は止められている。ここに残していくのと同じ程度には不安で心配だった。
(せめて、誰か信頼できる人がいれば……!)
悔しげに臍を噛みながら、カルノーはそう思わずにはいられなかった。信頼できる人物がジュリアの傍にいてくれれば、ここまでの心配はせずにいられただろう。しかし異国の地でそのような人物に心当たりはない。
(メルーフィスの総督府に手紙を出して人を寄越してもらうか……)
そんな考えが頭に浮かぶ。せめて身の回りの世話をする侍女がいれば、ジュリアの負担も減るだろう。しかしそれにしても時間がかかる。その間ジュリアは一人で待つことになるし、そもそも彼女を異国に残していくことへの不安と心配は消えない。焦りばかりが募った。
(どうする……。どうすればいい……!?)
長々と考えている時間はない。今日は合流した歩兵を休ませる目的で動くつもりはなかったが、しかし船に物資を積み込むなど、サザーネギアへ渡る準備はすでに着々と進んでいる。明日にはもう出航する予定だ。それまでにジュリアのことをどうするのか、決めなければならない。
いろいろと考えては見ても、カルノーはなかなか決断することができなかった。幾つかの選択肢はある。しかしどれも一長一短であり、どれが最善であるのか分からない。ただ時間だけが過ぎていく。
そして太陽が最も高くなる頃、いまだに結論を出せずにいるカルノーのもとにある報告がもたらされた。ナルグレーク軍の参謀が彼を呼びに来てこう言ったのだ。
曰く「火急に、折り入って話したいことがあると、アントニヌス将軍がお呼びです」と。
その時もカルノーはジュリアのことで悩んでいたのだが、ここにいるナルグレーク軍の司令官であるアントニヌス将軍が火急に話したいことがあると呼んでいるのだ。ただ事ではないと思い、カルノーは呼びに来た参謀に案内されすぐに彼のところへ向かった。
「オスカー将軍。お呼びたてしてすまない」
案内された天幕の中には、アントニヌスのほかにさらに二人の人物がいた。一人はカルノーの副将ジェイルで、どうやら彼も呼ばれてきたらしい。もう一人はカルノーの知らない人物だったが、この顔ぶれを見るにナルグレーク軍のなかでも相当高位の武官であることが予想された。
「いえ。それで、何かありましたか?」
勧められた席に着きながら、カルノーは単刀直入にそう尋ねた。彼が来るのを待っていたのだろう。副将もまだ何も聞かされていない様子で、その言葉を聞き漏らすまいとアントニヌスのほうをじっと見据えている。
「実は今しがた、サザーネギア側の使者が来た」
「ほう……、それは……」
アントニヌスの話を聞いて、カルノーの視線が一気に鋭くなった。その隣では、ジェイルもまた厳しい顔つきをしている。使者が来たということは、少なくともガルネシア海の南側にナルグレーク軍が参集しているのを、サザーネギア側が掴んでいるということだ。これからガルネシア海を渡ろうというカルノーらにとっても、好ましからざる状況である。
「それで、使者殿はなんと?」
カルノーがそう尋ねると、アントニヌスは一通の封筒を取り出した。見たところ、まだ封は切られていない。カルノーはそのことに小さな疑問を覚えたが、しかしそれは彼の次の言葉によって解消、いや吹き飛ばされた。
「『これをアルヴェスク軍の司令官に渡して欲しい』。彼らはそう言っていた」
「な……!?」
予想を超える、想定さえしていなかったその言葉に、カルノーは言葉を失い絶句した。隣に座るジェイルにいたっては顔色を失い、放心状態である。
「そ、それで……、なんと答えたのです?」
唾を飲み込み何とか動揺を抑えてから、カルノーはそう尋ねた。彼に答えたのは、難しい顔で腕組をするアントニヌスの、その隣に座る男だった。
「無論、『この陣中にアルヴェスク軍などいない』と答えました」
すると使者らは「では、この陣の指揮官殿に」と言って件の封筒を差し出したそうだ。ナルグレーク側も「それならば」と受け取り、そしてその封筒は今カルノーの目の前にある。恐らくはサザーネギア側の目論見どおりに。
「アルヴェスク軍云々に関しては突っぱねておきましたが……」
申し訳なさそうなその言葉に、カルノーは大いに苦い顔をしながら頷いた。馬鹿正直に「承りました」などと答えれば、アルヴェスク軍がここにいることを認めてしまうことになる。だから「いない」と突っぱねるのは当然のことだ。しかし、「アルヴェスク軍」と明確に指定してきた以上、サザーネギア側はカルノーらの存在をほぼ確信していることが伺える。となれば、苦し紛れに突っぱねてみたところで意味はない。
「この地に参集した軍勢をサザーネギア側が警戒する、というのはあらかじめ想定していた事態ではありますが……」
そう話すカルノーの声は、とことん苦い。数万の軍勢やそれを運ぶ船団を完全に隠しておけるはずもない。だからその存在がサザーネギア側に露見することは、ないに越したことはないが、もちろん想定はしていた。しかしその中にアルヴェスク軍が混じっていることまで看破されるのは、さすがに想定外だった。
(一体、どこから漏れた……?)
フラン・テス川の船着場で歩兵部隊と別れてからは、カルノーは一度も近衛軍の旗を掲げさせていない。これは船に乗った歩兵部隊のほうも同様だ。つまり一見しただけで彼らがアルヴェスク軍であると看破する材料はない。ならば、ナルグレークの国内を移動しているのだから、同帝国軍であると結論するのが妥当な判断のはずだった。
しかしサザーネギア側は、はっきり「アルヴェスク軍」と言ってきた。どこで何を知り、どうやってその結論を出したのか。
(身内に内通者でもいたのか……?)
真っ先に考え付いた可能性はそれだった。だがカルノーはすぐに頭を振った。その可能性を否定したわけではない。今はそれよりも先に考えるべきことがあるのだ。
「……まずはこちらの中身を確かめましょう」
そう言ってカルノーはアントニヌスが差し出した封筒を手に取った。そして彼に承諾を取ってからその封を切って中身を取り出す。そこにはただ「グリフィス公爵アレスニールが直接の会談を望んでいる」との旨だけが記されていた。
使者が口で伝えるだけでも事足りる内容である。つまるところ、この手紙はアルヴェスク軍の名前を出すための方便だったのだろう。カルノーはそう判断した。
まあそれはそれとして。手紙の差出人はもちろんグリフィス公爵アレスニール。アントニヌスに確認したところ、手紙に押された印章も間違いなく本物。そしてその人物に、カルノーは当然心当たりがあった。
「これは……、大物が出てきましたね」
サザーネギア連邦の頂点に立つ三人の公爵。アレスニールはその一人だ。しかも彼は現在、連邦議会の議長を務めている。現在のサザーネギアにおける、最有力者と言っても過言ではないだろう。
「……それで、サザーネギアの使者殿は?」
「返事が欲しいというので、待たせておる」
カルノーの問い掛けに、アントニヌスはそう答えた。それを聞いて、彼は一つ頷いた。
(さて、どうするか……)
腕を組んでカルノーは考え込む。この会談に応じるべきか、それとも応ぜざるべきか。それが問題だった。
まず会談で話し合われる議題だが、これはまず間違いなくこの度の遠征に関することだろう。ただ、それ以上のこととなると予想がつかない。いくら別働隊の存在を看破したからと言って、まさかその司令官と遠征の講和協議などしないだろう。そんな権限を持っているはずがないのだから。
(そもそも……、なぜ会談を申し込んできたのだ?)
これが、戦端が開かれる前であるならまだ分かるが、しかしすでにサザーネギアは一部の領地を失っている状態である。別働隊の存在を看破したのであれば、むしろ素知らぬふりを決め込めばよい。そしてガルネシア海を渡ってきた別働隊に奇襲を仕掛けるのだ。それで壊滅させられれば、最も後腐れがない。会談を申し込むにしても、奇襲によって痛撃を与えてからの方が交渉を有利に進めることができるだろう。
それなのに、なぜアレスニールはそうしなかったのか。むしろ、こうして会談を申し込んだことで、カルノーは彼が別働隊の存在を見抜いていることを知ってしまった。会談に応じてもらえるかは未知数だし、それで警戒されてしまえば軍事的な優位を捨てることになる。
派閥を率いて術数権謀の渦巻く政の世界を渡り歩き、さらに名将としても誉れ高いグリフィス公爵アレスニールが、そんな簡単なことを見落とすとは思えない。
「会談に、応じてみましょうか……」
「将軍、本気ですか?」
カルノーが呟いた言葉に、ジェイルが「まさか」という顔をしながら詰め寄った。そんな彼にカルノーはしっかりと頷いて見せる。
会談に応じれば、それはつまり「アルヴェスク軍がここにいる」と正式に回答するようなものだ。会談がどのような結果になるにせよ、当初予定していたサザーネギア軍への背後からの奇襲はもはや実行不能であると考えた方がいい。別働隊は大幅な予定変更を迫られるだろう。
しかしそれを言うならば、別働隊の存在が露見している以上、会談に応じなかったとしても予定の変更は必至だ。ならば少しでも情報を得るために、応じてみるのも悪くないと思ったのだ。
「それはそうですが……」
ジェイルは苦渋の表情を浮かべながらそう言った。彼のその気持ちはよく分かる。カルノーにしても、まさかサザーネギア領内に入る前に別働隊の存在に勘付かれるとは思ってもいなかった。
意表を突いての奇襲。一言で言ってしまえば、今回の作戦の胆はそれだ。そして意表を突くために、つまり敵の目を盗むためだけにナルグレーク領内を通過するという奇抜な方策を採ったのだ。
それなのに、アレスニールは別働隊の存在を見破った。それはつまり、カルノーらの準備と努力が全て水泡に帰したことを意味している。ガルネシア海を渡る直前で、直接的な損害は皆無であるとはいえ、そのことに落胆を覚えるのは無理からぬことだった。
しかしこの時のカルノーが感じていたのは、安堵であり、また期待であり、そして興味だった。
身篭ったジュリアの身の振り方をどうするのか、まだ答えは出ていない。だが会談に応じることになれば、当然出航は延期される。考える時間が増えるのはありがたく、もうしばらく彼女と一緒にいられることにカルノーは安堵していた。
さらに、アレスニールにどのような思惑があるのか分からないとはいえ、会談の内容が遠征に関係していることは間違いないのだ。そして奇妙なことに、サザーネギアとアルヴェスクの利害は一部重なっている。つまりギルヴェルスの、ひいてはエルストの力が増すのを阻止したいという思惑だ。
これまでアルヴェスクは「援軍を出す」という形でしか、この遠征に関わることが出来ずにいた。だがこの会談をきっかけに、もう少し別の形でこの遠征に関与する道が開けるかもしれない。カルノーはそのように期待していた。
そして、これはカルノーの個人的な事柄だが、彼はアレスニールという人物に対し興味がわいていた。考え付いたとしても「ありえない」と切り捨ててしまうのが常識的であるこの奇策。これを見破り、さらにそれを利用して奇襲を仕掛けるでもなく、こうして会談を申し込んでくる。それは一体どのような人物なのか、是非とも会ってみたくなったのである。
「予定を変更することになり、アントニヌス将軍をはじめナルグレーク軍の方々にもご迷惑をお掛けすることになりますが、よろしくお願いします」
「上のほうからは、オスカー将軍の意向に最大限沿うようにと命令を受けておりますゆえ、お気遣いなく。それが今回の我らの任務ですからな」
軽く頭を下げるカルノーに対し、アントニヌスは僅かに苦笑を浮かべながらそう応じた。陣にいるナルグレーク兵の数からして、彼らもまたサザーネギアに攻め込むつもりであったに違いないとカルノーは見ている。それも、恐らくはカルノーら別働隊を囮にして。だが今度のことで彼らも計画の変更を迫られることだろう。
(諦めるには少し早い気もするが……)
ただ、グリフィス公爵家がナルグレークにとって厄介な障壁であることは間違いない。ナルグレークの北進をこれまでずっと妨げてきたのは、他でもないグリフィス公爵家であり、ここ30年ほどに限って言えばアレスニールその人なのである。
(アルヴェスク軍に協力したことで十分な利益は確保しているはず。無理をする必要はない、ということか……)
カルノーはそう見た。とはいえ実際のところ、ナルグレーク軍がどう動くかは未知数である。遠征軍本隊の動き次第では、ガルネシア海を渡って侵攻することもあるだろう。まさか会談を妨害するとは思わないが、なんにしても彼らの動向に注意が必要だろう。
ジェイルに、別働隊の主だった参謀らへの事情の説明と今後の方針の見直し、さらに会談が決裂した場合の行動計画の検討を命じると、カルノーはアントニヌスらと一緒に返事を待たせているサザーネギアの使者のもとへ向かった。
「アルヴェスク皇国近衛将軍、カルノー・ヨセク・ロト・オスカーです。会談の申し出、承知いたしました。アレスニール殿にはそのようにお伝えください」
「りょ、了解いたしました」
堂々と、しかも穏やかに己の身分を明かし、さらに会談に応じることを伝えたカルノーに、むしろ使者の方が驚いた様子を見せた。どうやら本当にアルヴェスク軍の指揮官が出てくるとは思っていなかったようだ。ただこの使者はともかく、これでアレスニールまでも驚かせることができるのか、カルノーにはいまいち自信がなかった。
会談についての詳細はまたおって知らせる、と言い残し使者らは船に乗ってガルネシア海を北上してく。その姿が見えなくなるまで、カルノーは湖畔に立って彼らを見送った。
(さて、伸るか反るか……)
まるで博打でも打つかのような気分で、カルノーは内心そう呟く。会談に応じると決めはした。しかしその決断がどのような結果を招くのか、現状では予想することさえ難しい。それで当然、この決断が、遠征のみならず自分自身の将来にまでも巨大な影響を与えることになるのを、この時の彼はまだ当然知る由もなかった。
これで大体二分の一弱、といったところでしょうか?
続きはまた今度、ということで。




