交誼の酒1
お久しぶりです。
まだ完全には書き上げていないのですが、これ以上間を空けるのもどうかと思い、投稿を始めることにしました。ひとまずきりのいいところまで出したいと思います。
――――思えば、遠くへ来たものだ。
大陸暦1061年冬、ギルヴェルス王国王都パルデースにある、王城。その執務室から雪の降り積もる外の様子を眺め、エルストロキアはふとそう思った。
大陸暦1061年は、ギルヴェルス王国にとって波乱の年であった。第5王子サンディアスが玉座を求めて謀反を起こしたのである。そして父王たるトロワヌス3世を弑逆して玉璽を奪い、少なくとも一時は王権を手にしてこの国の頂点に立った。
しかしそれを認めぬ者がいた。第4王子にして王太子のユーリアスである。クシュベガの略奪隊を討伐するために、軍勢を率いて王都を離れていたユーリアスは、サンディアスが蜂起したことを知ると隣国アルヴェスク皇国へ逃れた。長女アンネローゼが嫁いだ、皇国のアルクリーフ公爵家を頼ってのことである。
摂政ライシュハルトと対面したユーリアスは、娘婿であるエルストの口添えもあり、アルヴェスクから援軍を得ることができた。援軍を得た彼は、祖国と玉座を、そしてなにより捕らわれた家族を奪還するべく、サンディアスとの戦いに挑んだのである。
戦いは幾つもの悲劇を生む。戦いの中、人質となっていたユーリアスの妻子は殺されてしまう。その結果、彼は意気消沈として生きる気力を失った。解放軍は王都パルデースを目前にして、国境際まで撤退しなければならなくなったのである。
エルストの求めに応じて近衛軍を率いて来たカルノーの助力もあり、解放軍は敵追撃部隊を無事に振り切り、ギルヴェルス国外への撤退を果たした。逃げ帰ってきた後方の野戦陣地で、ユーリアスは思わぬ人物と再会する。娘のアンネローゼが、その野戦陣地に来ていたのだ。
アンネローゼは泣いた。蝋蜜漬けにされた母と弟妹の首を抱いて泣いた。彼女と一緒に泣きながらユーリアスは思い出す。自分にはまだ、守るべき家族がいたことを。
このまま放っておけば、サンディアスはアンネローゼとその娘であるアンジェリカの命までも狙うかもしれない。そのことに思い至ったユーリアスは、今一度彼と戦うことを決意する。こうして、解放軍の二度目の進攻が始まった。
二度目の進攻には、アンネローゼとアンジェリカも同行することになった。無論、ユーリアスは反対したが、アンネローゼの決意は固い。結局、カルノー率いる近衛軍が護衛に付くことになり、彼は折れた。
ブロガ伯爵率いる敵迎撃軍を打ち破り、解放軍はついに王都パルデースへ迫った。そして王都の攻防戦に際し、ユーリアスは秘密の地下通路の存在を開示する。この地下通路を使えば堅牢な城壁をかいくぐり、一気に王城の庭にまで行くことができる。
突入部隊が編成された。その中には、ユーリアスとエルストもいた。ユーリアスが自らの手でサンディアスと決着を付けることを望んだのである。
戦いの末、ユーリアスとサンディアスは共に命を落した。二人の王子はこの日、揃って死んでしまったのである。そしてエルストはこの二人の代わりに、アンネローゼをギルヴェルスの新たな女王とすることを宣言した。
二人の王子の死を持って、ギルヴェルスの王位を巡る戦いは終結した。しかし、エルストの戦いは終わらない。彼にはこの戦いの結末をライシュに報告すると言う、最後の戦いが残っていたのである。
妻のアンネローゼをギルヴェルスの女王としたことで、自動的に夫のエルストは王配の地位を手に入れた。アルクリーフ公爵にしてギルヴェルス王国王配という、ライシュが言うところの「奇妙にして偉大な地位」を手にしたのである。
実質的に、ギルヴェルス王国を手に入れたようなものである。そしてライシュやその周辺にしてみれば、これを警戒するなと言う方が無理だった。
しかし、すぐさま二人がこのまま争うような事態には発展しなかった。ギルヴェルス王国がアルヴェスク皇国との同盟を望んだのである。この同盟の締結により、二国の、そして二人の争いはひとまず回避された。
同盟を締結すると、エルストはギルヴェルス王国王都パルデースへ戻った。内乱と主要な貴族や閣僚らが粛清されてしまったことにより、この国の屋台骨は揺らいでいた。早急に国を立て直す必要があり、それが可能なのはエルストだけだった。
彼自身、そのことを自覚していた。彼は王配となった。である以上は、この国と民に対して責任を負っている。その責任を果たすべく、彼はすぐさま行動を開始した。
軍事面での建て直しは、サンディアス討伐のため一緒に戦ったラジェルグ将軍に一任した。本来であればバフレン将軍が適任だったのだろうが、残念なことに彼は先の戦で戦死している。そのためこの仕事を任せられるのはラジェルグ将軍のほかにはおらず、無理であろうがやってもらうしかない。
それが分かっていたのだろう。ラジェルグ将軍も重責に緊張した面持ちではあったが、弱音を口にすることなくこの仕事を拝命し、そして取り掛かった。
もちろん、ラジェルグ将軍にも思惑はあった。国軍の建て直しは確かに急務である。しかしそれ以上に彼は、軍事面におけるエルストの影響力を、このギルヴェルスから出来る限り廃除しようとしていた。いざとなれば彼を討つためである。ラジェルグ将軍にしてみれば、エルストはあくまでもアルヴェスク皇国の大貴族であり、いつまでもこの国に居座ってもらうわけにはいかなかったのである。
さて軍事面をラジェルグ将軍に任せると、エルストは内政面での立て直しに取り掛かった。まず彼は、アルクリーフ領から有能な文官たちを呼び寄せた。彼の手足となって働く者たちである。無論、ギルヴェルスにも有能な文官はいたが、しかしその多くは貴族であり、そのため先の粛清の際に殺されてしまったものが多かった。端的に言って、今のギルヴェルスには人材がいなかったのである。
エルストの仕事は早かった。と言うより、早くせざるを得なかった。もたもたしていては冬が来る。雪が降り積もれば、人の行き来どころか手紙のやり取りさえもままならない。
彼はまず、サンディアスに味方したブロガ伯爵家とデレスタ子爵家の処分を決めた。その結果、この両家は取り潰され領地は召し上げられた。ただし、粛清された者は一人もいない。当主がすでに死亡していることと、新女王即位の恩赦のためということになっているが、実際のところ抵抗して反乱を起こされた場合、鎮圧する手間が惜しいと言うのがその理由であった。それほどまでにギルヴェルス国内の情勢は逼迫していたのである。
次に彼は粛清されてしまった貴族の家の跡取りを決めた。誰が殺されてしまったのかを調べ、そして生き残っている者の中から跡取りを決めた。ほとんど独断であり、そのため異論も出たが、しかし大きくはならなかった。エルストはギルヴェルスの国内事情にも精通しており、そのため彼の指名は的確で、反論しようにも他の候補者の名前を挙げることが難しかったのである。
エルストから指名された後継者たちは大急ぎで王都パルデースへやって来て、そして叙勲を済ませるとまた大急ぎで領地へと戻った。エルストが国の建て直しをしなければならないのと同じように、彼らも領地の建て直しをしなければならないのである。そもそも彼らに領地の建て直しをさせることが、エルストの目的なのだから。
さらにもう一つ、この性急ともいえる叙勲には目的があった。それはアンネローゼ新女王の権威の強化である。アンネローゼから叙勲を受けると言うことは、すなわち彼女の王権を認めることに他ならない。この叙勲によって国内の貴族家の当主のほとんどが表向きアンネローゼに忠誠を誓い、ギルヴェルスの新体制が整った。彼らが新たな女王に真の忠誠を誓うかは、この先の業績次第であろう。
ギルヴェルス王国の屋台骨の修復は、どうにかして冬に間に合った。しかし冬の前に終えるべき仕事は、これだけではなかった。
先の内乱の影響により、秋の収穫量に影響が出ていた。要するに、食糧の備蓄が足りなかったのである。特に、サザーネギアの略奪隊に襲われた東部では食糧不足が酷かった。このままでは冬の間に大量の餓死者が出ることが予想され、こちらも早急に対処しなければならなかった。
とはいえ、国の食糧倉庫を開こうにもほとんど空である。これも内乱の影響だ。集めた軍勢を養うために、サンディアスが使ってしまっていたのだ。こうなるともう、他所から持ってくるしかない。
ここでもエルストの存在は大きかった。彼は自らの所領であるアルクリーフ領から食料を輸送した。しかしそれだけでは足りないので、さらにアルヴェスク皇国北部の貴族らから食糧を買って輸入した。これらの取引が驚くほど円滑に進み、また価格も低く抑えられていたのは、間違いなくこれがエルストの主導で行われたからである。
輸入した食糧をエルストは国内に分配した。これにより、ギルヴェルスの民は冬を乗り切るための食糧を手に入れたのである。少し先の話になるが、餓死者はゼロにはならなかったものの、当初の予想よりははるかに少なくなった。
さらにこれによりエルストは国民の支持を得た。彼らはアンネローゼを新たな女王として受け入れたのである。貴族と平民の双方から支持と忠誠を勝ち得て、アンネローゼの、つまりエルストの権威はより固く立つことになった。
あらかじめ準備しておいた部分もあったとはいえ、これらの仕事を冬が来る前に何とか間に合わせたのである。驚くべき早さ、と言えるだろう。ともかくこれで、エルストはようやく肩の荷が下りたように感じた。無論、全ての仕事が終わったわけではない。というより、この仕事に終わりはないと言うべきだろう。
内乱で疲弊した国力を回復させなければならない。回復が終わったら、その次はさらに発展させていくことになる。ただ、この国力の回復と発展には、どうしても時間がかかる。エルストは早々に税率の一時的な引き下げの布告を出しているが、この他にもさまざまな手を打っていく必要があるだろう。冬の間にそれらの案を考えておかねばならない。
(別のことも考えねばならぬがな……)
心の中でそう呟き、エルストは獰猛な笑みを浮かべた。春になって軍を動かせるようになったら、彼は東の隣国サザーネギアに出兵するつもりでいる。その名目は、秋に彼らが行ったギルヴェルスでの略奪行為の報復だが、実際のところそれは建前である。エルストはサザーネギアの完全なる併合を目論んでいた。ライシュがメルーフィスをそうしたのと同じように。
ギルヴェルスという国家を手に入れたことで、エルストはもはやただの貴族ではなくなっている。彼がただの貴族であれば、隣国の併合など考えもしなかったであろう。一国を手に入れたことで、彼の野心はついにその翼を大きく広げ始めたのである。
(二カ国か……。悪くない)
ギルヴェルスとサザーネギアの国土を合わせれば、200州を越える。北国であるせいか、面積のわりに人口が少ない州があったりもするが、しかし広大な版図であることに変わりはない。その時エルストは、この大陸でも有数の王者となるのである。
(サザーネギアを併合し、さて、その先はどうするかな……)
しかしエルストの野心はそれで終わりではない。サザーネギアを併合した後のことについて、彼はすでに考え始めている。大まかに言って、二つの選択肢があった。
一つは、サザーネギアに隣接する別の国へさらなる進攻を行うこと。そしてもう一つは、アルヴェスク皇国の皇位を狙うこと。
そのどちらがより成功率が高いのか。それはエルストにとってさして重要な問題ではなかった。彼にとって最大の問題、それは友人であるライシュハルトと戦うのか否かということである。
ライシュと戦うことを、エルストは恐れていない。とはいえ、それが後戻りできない道であることは分かっている。加えてもう一人の友人であるカルノーとも敵対することになるだろう。それゆえ、こういう考えも浮かんでくる。
他に選択肢があるのなら、他に狙うべき国があるのなら、わざわざ彼らと対立しなくてもいいではないか、と。
「ふふふ、傲慢だな。しかし、幸せなことだ」
そう言ってエルストは自虐的な笑みを浮かべた。敵がライシュやカルノーでなければ負けるとも思わぬ己の傲慢さ。そして三人でいられることの幸せ。それを思うと、彼は自嘲するほかなくなる。
分かっているのだ。このままではいずれ我慢できなくなる、と。それはある種、破滅願望にさえ似ていた。
「まあ、まずは目先の獲物に集中しようか」
苦笑しながらそう言って、エルストは頭を切り替えた。まず考えるべきは、来春に予定しているサザーネギアへの遠征である。この遠征は決して簡単なものにはならないと彼は考えていた。
前述したとおり、ギルヴェルス王国とアルヴェスク皇国は同盟を締結した。そしてその同盟を盾に、ライシュがサザーネギアへの出兵を表明したのである。友好国たるギルヴェルスのための援軍、というのがその表向きの名目だった。
それが本当に建前でしかないことを、エルストはもちろん見抜いていた。ライシュもまた、見抜かれていないなどとは思っていないだろう。
援軍であろうとも、兵を出せば分け前を要求する権利を得る。そうやってアルヴェスクの国益を追求することは、ライシュ自身の野心とも合致する。つまり友好国のためと言いつつも実際のところ自国のための出兵であり、これがいわば裏の目的だった。
さらにライシュが考えているのはそれだけではない。エルストがサザーネギアの全てを掌中に納めるのを防ぐこと。そうやって彼が強大化するのを防ぎ、自らに対抗する力を持たせぬこと。それが彼の真の目的だった。
「流石はライ。厄介な相手だ」
そう言ってエルストは友人を賞賛しつつ楽しげに嘆息した。本格的にこの友人と相対したとき、彼はどれほど強大な好敵手となるのだろう。それが楽しみでもあり、また恐ろしくもある。
ギルヴェルスとアルヴェスクの同盟は、アンネローゼの名前で申し入れがされたとはいえ、実際のところエルストが望んだものだった。これによってライシュの動きを封じて時間を稼ぎ、その間に自分の力を蓄える。そのためのものだった。
しかし早々、それを逆手に取られた。いわば、親切の押し売りをされた形だ。断りたいが、断れない。まったく、見事なものだと思う。
「まあ仕方がない。それに、そう悪いことばかりでもない」
援軍を出してくれると言うことは、単純に戦力が増えるということでもある。ギルヴェルス王国の戦力は立て直しの真っ最中で、来春までに動かせるようになるのはそう多くはないだろう。だが十分な戦力を出さなければサザーネギアの併合はおぼつかない。そんな中、アルヴェスクの精兵が戦列に加わってくれるのはありがたい。
それに、とエルストはほくそ笑む。
アルヴェスクにとって、サザーネギアは難しい土地だ。なぜなら、国境線を接していない。よって国土を割譲させたとしても、それは飛び地になる。その統治が難しいのは、想像に難くない。
仮に統治が上手くいったとしても、そこが本国から遠く離れており、敵を隣に置いていることに変わりはない。ほとんど孤立無援と言っていいだろう。そこを治める領主、あるいは代官たちは大変に心細いに違いない。
そのような状況である。彼らを調略するのはさして難しくあるまい。少なくともエルストにはその自信がある。仮にその相手がカルノーであったとしても、だ。
そして、領地を取れないとなれば、アルヴェスクが得られるのは賠償金だけである。土地は全て、ギルヴェルスのものとなる。その展開ならば、要するにアルヴェスクを傭兵として雇ったようなもので、エルストにとっては大よそ望んだとおりと言っていい。高額の報酬を支払うことになるだろうが、そう気にすることもない。どうせ出所はサザーネギアである。
(目指すべきはその展開、か……)
上手くその展開に持っていくためにも、遠征ではエルストが主導権を握らなければならない。少なくとも、アルヴェスク軍のおかげで遠征が成功するような有様では、望むような展開とはならないだろう。まずは来るべきサザーネギア軍との決戦において、アルヴェスク軍に頼らずとも勝利を得られるようにしなければならない。
とはいえ、ただ決戦で勝利を得るだけでは足りない。戦に勝つことは必須事項だが、しかしそれだけでサザーネギアを併合できるわけではない。その先には、ある意味で戦に勝つよりも難しい仕事が待っている。
併合後は、言うまでもなく統治を行わなければならない。しかしその出だしで躓けば、アルヴェスクに付け入る隙を与えてしまう。アルヴェスクの存在が大きくなればなるほど、ライシュは分け前を多く要求してくるだろう。彼に取られる分があまりにも多ければ、何のためにサザーネギアを併合したのか分からなくなる。
いや、アルヴェスクの存在感が増すだけならばまだよい。例えば残党勢力の一つとアルヴェスクが結託し、皇国の宗主権を認める形で領地を安堵したとする。アルヴェスクの庇護下に入られたら、ギルヴェルスは手出しができない。
このようなことが起これば、ギルヴェルスは東西からアルヴェスクに挟まれたのと同じだ。エルストが何をするにも、その行動は大きく制限されることになるだろう。皇国へ攻め入るにしても、後ろを気にしなければならなくなる。エルストにとっては、面白くない状況だ。
(まあ、これは考えうるかぎり最悪の、その次ぐらいに悪い想定だがな)
エルストは内心でそう呟いて苦笑した。ちなみに最悪の想定とは、サザーネギア軍との決戦に敗北し、何も得られずに遠征が失敗することである。
要するに、隣国の併合とは決戦に勝てば成るものではないのである。併合を、遠征を成功させるためには、戦に勝つ以上のことが必要なのだ。そしてそれは、世の人々が思う以上に難しい。
「ライにできたのだ。私にできぬ道理はない」
エルストは笑みを浮かべながらそう呟いた。メルーフィスを併合した際、ライシュはこれを成し遂げた。その傍らにあって彼を助けていたのは他ならぬエルストだ。つまり彼にしてみれば二度目の併合事業であり、その自信も決して根拠のないものではない。
とはいえ、決して楽な仕事と見くびっているわけではない。軍を動かす前の、この冬の間からすでに、この事業のための準備は進められている。
「エルスト様」
執務室の扉が開き、中に誰かが入ってくる。エルストは扉に背を向けていたが、その声を聞いて苦笑した。この声を聞き間違えることはない。
「アンジェリカの様子はいかがでした、アンネローゼ陛下?」
振り返りながら、エルストはそう尋ねる。部屋に入ってきたのは、彼の妻でありギルヴェルス女王のアンネローゼだ。昼食後、娘のアンジェリカの様子を見るために席を外していたのだ。ちなみに、ここはエルストの執務室ではなく、アンネローゼの執務室である。
「つつがなく。それとエルスト様、わたくしのことはこれまで通りただアンネローゼとお呼び下さい」
「いえ、正格が揺らぎますゆえ。アンネローゼ陛下こそ、私のことはただエルストとお呼び下さい」
「嫌です」
笑顔で拒否され、エルストは再び苦笑を浮かべた。ギルヴェルスの女王に即位しても、アンネローゼは頑なに彼の呼び方を変えようとしない。それが彼女のささやかな抵抗であるように思ってしまうのは、エルストに負い目があるからかもしれない。
「それとエルスト様、探しておられたサザーネギア連邦に関する資料を集めておくよう、秘書官たちに言いつけておきました。明日の朝までには揃うでしょう」
「そうですか。ありがとうございます」
エルストはそう言って恭しく一礼した。彼の言葉は上辺だけのものではなく、本心からの感謝だった。
アルヴェスク人であるエルストにとって、サザーネギアは未知の国だ。無論、国の名前や位置など、大まかなことは知っている。しかし、そもそもアルヴェスクから見て飛び地であったサザーネギアについて、彼が知っていることは決して多くない。
そのような有様では、遠征を成功させかの地を併合することなどおぼつかない。幸いギルヴェルスには隣国サザーネギアについて、アルヴェスクよりも多くの情報がある。エルストはそれらの情報を、春までに一通り頭に叩き込んでおくつもりだった。
「お役に立てて幸いです。代わりと言っては何ですが、午後の執務も手伝っていただけますか?」
「無論でございます。微力を尽くしましょう」
そう言ってアンネローゼとエルストはそれぞれ自分の執務机に向かった。表向きはエルストがアンネローゼの補佐をしていることになっているが、実際はその逆だ。とはいえ、彼女がこうして政務に携わるのは、エルストにとっても少し意外だった。
当初エルストは、女王の執務を全て自分で代行するつもりでいた。アンネローゼはあくまでも象徴として玉座に座っていてくれればいいと思っていたのである。それは決して彼女を疎ましく思っていたわけではなく、いわば彼なりの気遣いだった。
しかしアンネローゼはただのお飾りになることを拒んだ。女王としての執務に、彼女は精力的に励んだのである。しかも、彼女はエルストが思う以上に優秀だった。
(思いがけぬ幸運、だな)
妻のこの働きを、エルストはそう思っている。激務であることに変わりはないが、おかげで彼の負担は随分と軽くなった。そうして生まれた余力を、エルストはサザーネギア遠征の準備のために割くことができている。
(ライ、カルノー。お前たちは、どうしているんだろうな?)
二人の友人もまた、それぞれの立場でサザーネギア遠征の準備をしているに違いない。エルストはそう確信していた。この冬がそれぞれにとって勝負になるだろう。
大陸歴1061年、新年を間近に控えた冬のことである。




