まさかの婚約破棄宣言!?
「エレノア・フォン・グランヴェル! 私は本日、お前との婚約を――」
大集会堂の絢爛豪華なシャンデリアの下、朗々と響き渡る自分の声を聞いた瞬間、脳内で何かが激しく弾けた。
ドクン、と心臓が跳ね上がり、視界がぐにゃりと歪む。強烈な眩暈とともに、私の頭の中に怒涛の勢いで押し寄せてきたのは、到底この世界のものとは思えない異質な記憶の奔流だった。
――満員電車。押しつぶされそうな猛暑。キーボードを叩く乾いた音。連日の午前出社。目の下にできた深刻なクマ。疲労困憊の体を引きずって辿り着いた、賃貸マンション。
「あー……死ぬ。マジで死ぬ……」
それが限界社畜OLだった私の記憶だ。
あの日は確か、四十度以上の酷暑日だった。ヘトヘトになって帰宅し、命からがらエアコンのリモコン操作をしたはずだったのだ。「冷房」と押したつもりが、経年劣化で狂っていたのか。夜中に、倒れ込んだソファで猛烈な熱と息苦しさで目を覚ました時、部屋はエアコンの熱風で、灼熱のサウナと化していた。リモコンの表示灯は無情にも「冷房・二十五度・強風」を指し示していたのだ。
体が金縛りのように動かない。喉がカラカラで声も出ない。全身の細胞が、まるでゆでたまごのようにじわじわと凝固していくような感覚。
(あ、これ……私、部屋で熱中症で死ぬんだ……。明日、会社永久欠勤になっちゃうな……)
そんな社畜特有のくだらない遺言を心の中で遺し、私の意識は、チカチカする明滅の視界と、両耳の鼓膜が酷く詰まった末に、プツッと途切れたのだった。
そこまでの記憶が一瞬にして脳裏を駆け巡り、私は自分の手元を見つめた。
華美な刺繍が施された絹の袖口。白くしなやかだが、どこからどう見ても男性のものと分かる骨太な手。
そして鏡を見るまでもなく自覚する。私は今、金髪碧眼の目眩がするほどの美形王子、アレン・ド・ヴァルロワとして立っているのだと。
……待って?
今、私、なんて言おうとしてた……?
「お前との婚約を――」まで言ったよね!? まさに今、舌の根も乾かぬうちに「破棄する!」って叫ぼうとしていたよね!?
青ざめる視線の先には、美しい銀髪を完璧な縦ロールに結い上げ、氷のように冷ややかな紫の瞳で私を見つめる、息を呑むほど美しい女性が立っていた。
グランヴェル公爵家の令嬢、エレノア・フォン・グランヴェル。
そして私のすぐ後ろには、可憐さを売りにした男爵令嬢マリアが、私の袖をキュッと掴んでうるうるとした瞳でこちらを見上げている。
(嘘でしょ……!? これ、前世で深夜にベッドで読み漁っていた『婚約破棄小説』の黄金パターンそのままじゃないのーーーっ!?)
頭の中で警報が鳴り響く。ウー、ウー、と脳内防災行政無線が爆音で警告を発していた。
思い出せ、私! 小説におけるバカ王子の末路を!
ここで調子に乗って「真実の愛を見つけた! 悪毒なお前との婚約を破棄し、このマリアと婚約する!」なんて宣言したらどうなる!?
公爵家からの経済的・軍事的支援は完全に打ち切られ、隣国との国境線はガタガタになり、王立学園での不正や無能ぶりが白日の下に晒され、最終的には王位継承権剥奪のうえ国外追放、あるいは処刑という名の地獄絵図が待っているのだ!
そもそも、目の前のエレノア令嬢が悪毒? 冗談じゃない! 彼女は王家に忠誠を誓い、未来の妃としての完璧な教育を文句ひとつ言わずに耐え抜き、この愚か極まりない第一王子(つまり今の私)の素行不良を陰で必死にフォローし続けてくれていた超・有能で健気な苦労人じゃないか!
一方の私はといえば、マリアの甘い言葉と愛嬌にコロリと騙され、学園の予算を私的流用し、エレノアの忠言を「嫉妬深くて可愛気のない女の嫌がらせ」と突っぱねていた……。
(最悪だ! 最悪のバカ王子に転生しちゃってるよ私!! ていうか男になってるし!! なんか余計な物が)
冷や汗が背中をダラダラと伝い落ちる。エアコンの壊れた自室で死んだ恐怖が蘇るが、今の状況はそれ以上に命の危険に晒されていた。
大集会堂に集まった数百人の貴族たちが、息を呑んで私たちのやり取りを見つめている。そんなに見ないで欲しい。
エレノアは凛とした態度を崩さず、しかしその瞳の奥に諦めと冷ややかな侮蔑を浮かべて、私からの言葉を待っていた。
「婚約を――」の続きを言わなければならない。
「破棄する」と言った瞬間に、私の二度目の人生は詰む。破滅ルート一直線だ。
前世では社畜として死ぬ気で働き、二度目の人生では破滅して死ぬなんて、そんなの冗談じゃない!
――考えるんだ、私! いや、アレン・ド・ヴァルロワ!
コンマ一秒の思考速度で脳細胞をフル回転させる。
「婚約を……」のあとに続く、破滅を回避し、かつこの場を収める奇跡の言葉を!
「……お前との婚約を――!!」
私は肺いっぱいに空気を吸い込み、喉が引き裂かれんばかりの大声で叫んだ。
「――より一層、強固で素晴らしいものにし、我が命の限り、生涯をかけて愛し抜くことをここに誓いたい!!!!」
「………………は?」
静寂が、大集会堂を支配した。
シャンデリアの揺れるかすかな音すら聞こえなくなるほどの、完璧な無音。
貴族たちの顔が「え?」と間抜けに固まる。
私の袖を掴んでいたマリアの手が、ズルッと滑り落ちた。
そして何より、氷の彫刻のように冷徹な表情を保っていたエレノアが、生まれて初めて見るような「鳩が豆鉄砲をくらったような顔」で呆然と私を見つめていた。
よし……! 言えた! 言えたぞ私! セーフ! アウトに見えるけど絶対にセーフ!!
しかし、これだけで終わらせてはダメだ。ここで引けば「王子が狂った」「ただの言い間違い」で片付けられ、後でじわじわと破滅に追いやられる。
私は前世で何百冊という乙女向け恋愛小説と少女漫画を読破してきた限界OLだ! 甘いセリフのストックなら、図書館が建つほど頭の中にある!
命がかかっているのだ。恥も外聞も、男としてのプライドも(元々女子だが)全て捨て去って、怒涛の溺愛攻撃を開始する!!
私は一歩、力強く踏み出した。
戸惑うエレノアとの距離を詰め、彼女の素肌を傷つけないよう慎重に、しかし力強くその白い手を取る。
「あ、アレン様……? 一体、何を……」
「エレノア。今まで本当にすまなかった!」
私は深々と頭を下げた。王位継承者としてのプライドなど、破滅の前に比べれば微塵ほどの価値もない。
「私は愚かだった……! お前の完璧な美しさと、あまりにも高潔な魂に気後れし、己の未熟さゆえに、お前から目を背けてしまっていたのだ! お前が私のためにどれほど心を砕き、この国のためにどれほど尽力してくれていたか……それを理解しようともせず、距離を置いていた我が身の浅はかさを、今、猛烈に恥じ入っている!」
「あ、あの、アレン様、急にどうされたのですか……? 頭は大丈夫ですか?」
エレノアの涼やかな声が、動揺でかすかに震え始める。紫の瞳が泳ぎ、頬がほんのりと朱に染まっていく。
勝機あり! この氷の令嬢、褒められ慣れていない! 公爵家の厳しい教育のせいで、周囲からは畏怖され、甘い言葉をかけられた経験が極端に少ないのだ!
私は彼女の手を両手で包み込み、そのまま静かに片膝をついた。騎士が主君に忠誠を誓うような、完璧なポーズで。
「エレノア・フォン・グランヴェル。お前は私の太陽だ。夜空に輝く一筋の月光であり、乾いた私の心に咲く一輪の気高き薔薇だ。お前のその輝く銀髪を見るたび、私は己の愚かしさを照らされるようで恐ろしかった。だが、もう逃げない! 絶対に!」
私は彼女の手の甲に、極めて恭しく、それでいて情熱的に口づけを落とした。
チュッ、と静かな会場に小さな音が響く。
「ひゃ……っ!?」
エレノアから、普段の彼女からは到底考えられないような、愛らしい悲鳴が漏れた。
彼女の顔が、瞬く間に耳の先まで真っ赤に染まっていく。縦ロールの髪が揺れ、綺麗な紫の瞳が信じられないものを見るように見開かれていた。




