プロローグ
魔王の首が、玉座の階段を転がり落ちた。黒い血が床に広がり、巨大な身体が倒れる。
「……勝ちましたわ」
銀色の長い髪を揺らし、勇者フェルマが呟いた。白金の鎧に赤いマント。紫色の瞳を持つ彼女は、この国の第1王女でもある。いつも偉そうで、負けず嫌いで、俺たちに命令ばかりする女だ。
そのフェルマが、今は信じられないものを見るような顔で魔王の死体を見つめていた。
「私たち、本当に魔王を倒したのですわね……」
「やったああああ! 勝ったよぉ!」
小さな身体で飛び跳ねたのは、治癒師のリスティだ。150センチもない背丈に、桃色のツインテール。そばかすのある頬と、大きな緑色の目が特徴の女の子だ。普段は俺の食事から睡眠時間まで勝手に管理してくる、うるさい世話焼きでもある。
「ねえねえ、みんな聞いてる!? 魔王を倒したんだよ! もう戦わなくていいんだよ! おうちに帰れるんだよぉ!」
「……ああ。終わったな」
低い声で答えたのは、重装戦士のジルドレだった。短く刈った黒髪に、褐色の肌。身長190センチ越えの身体には、分厚い筋肉と古い傷がある。大盾と戦槌を使う、俺たちの盾役だ。無口で、愛想がなくて、冗談も通じない。でも、誰よりも仲間思いの女だった。
「……カイ。よくやった」
ジルドレが俺を見た。
「お前の魔法がなければ、勝てなかった」
「いやあ、俺も頑張ったけどさ。最後に魔王を倒したのはフェルマだろ」
俺は笑った。
実際、フェルマの剣が魔王の首を落としたのだ。俺は後ろから魔法を撃ち続けていただけ。まあ、魔力が切れるたびに回復薬を飲んでいたから、腹の中は薬でいっぱいだけどな。
「当然ですわ」
フェルマが胸を張った。
「私を誰だと思っていますの? 勇者フェルマ・レイヴェルですわよ」
「はいはい。さすが勇者様」
「その言い方は何ですの!」
「褒めてるって」
「まったく、あなたという人は……」
フェルマが呆れたように笑った。リスティも笑った。ジルドレも、ほんの少し口元を緩めた。
よかった。みんな、生きている。これで、帰れる。そう思った。
「……うっ」
腹の奥が、急に熱くなった。胃の中で、何かが暴れている。気持ち悪い。吐きそうだ。
「……おえっ」
俺は口を押さえた。
「カイ?」
リスティが振り返った。
「どうしたの? 気持ち悪いの? ねえ、もしかして薬を飲みすぎた?」
「いや、ちょっと……」
大丈夫。そう言おうとした。でも、言えなかった。
「げぼおおッ!」
口から、大量の吐瀉物が飛び出した。床に胃液が広がる。さっきまで飲んでいた魔力回復薬の匂いがした。
「カイ!?」
リスティが駆け寄ってきた。
「ちょっと、何してるの! だから飲みすぎだって言ったじゃん! ほら、こっち向いて! ちゃんと吐いて! 我慢しなくていいから!」
背中をさすられた。いつものリスティだ。少し安心した。
「悪い……。ちょっと、飲みすぎたかも……」
「ちょっとじゃないよ! 何本飲んだの!? 10本? 20本? ねえ、正直に言って!」
「……数えてねえ」
「もう! カイの馬鹿!」
リスティが怒った。いつも通りだ。少し休めば、きっと治る。だが次に吐いたとき、血が混じっていた。
「げほっ……げぼッ!」
赤い血が、床に飛び散った。
「……え?」
リスティの声が止まった。
「……あれ?」
変だな。さっきまで、こんなことはなかったのに。胸が痛い。腹も痛い。いや、身体の全部が痛い。
「……ぐっ」
背中が熱くなった。骨の奥が、ぎしぎしと鳴っている。何かが、身体の中を動いている。
「ぐ、ぎ……ッ!」
息が詰まった。痛い。痛い痛い痛い。
「ぎゃあああああああああああッ!」
俺は床を転げ回った。背中が反り返り、手足が勝手に暴れる。骨が折れるような音が、身体の中から聞こえてきた。
「カイッ!」
フェルマが叫んだ。
「何が起きていますの!? リスティ、早く治療なさい!」
「わ、分かってるよ!」
リスティが俺の胸に手を当てた。
「カイ、聞こえる!? 今から治すからね! 痛いの、すぐなくなるから! だから、ちょっとだけ我慢して!」
緑色の光が、俺の身体を包んだ。いつもなら、傷が塞がり、痛みが消えていく。
「ぁっ、あああああああああッ!」
痛みが増した。背中が、内側から押し上げられる。
ぼきり。骨が鳴った。
「ぐあああああッ!」
「えっ!? 何!? どうして!?」
リスティが悲鳴を上げた。俺の腕が、不自然な方向に曲がっていた。折れた骨が治る。そのはずなのに、骨は元の形に戻らなかった。
肘の位置がずれている。腕が長くなっている。指も、少しずつ伸びていた。
「……いや」
リスティが首を振った。
「何これ……。あたし、ちゃんと治したよね? どうして、こんな……」
「リスティ、魔法を止めろ!」
ジルドレが叫んだ。
「カイの身体が変形している!」
「でも、止めたら死んじゃうかもしれない!」
「今すぐ止めろ!」
「嫌だよ! あたし、治癒師なんだよ! 目の前でカイが苦しんでるのに、何もしないなんて……!」
リスティは泣きながら魔法を続けた。俺の腕が、さらに伸びた。
「ぎゃああああああッ!」
「リスティ!」
ジルドレがリスティの腕を掴んだ。緑色の光が消える。
「何するの!?」
リスティがジルドレを突き飛ばそうとした。
「離してよ! カイを治さなきゃいけないの! あたしが治さなかったら、誰が治すの!?」
「……お前の魔法で、カイが苦しんでいる」
「そんなの分かってるよ!」
リスティが叫んだ。
「分かってるけど、ほかにどうすればいいの!? 教えてよ! ねえ、教えてよぉ!」
ジルドレは答えなかった。代わりに、俺の身体を抱き起こした。
「……カイ。聞こえるか」
聞こえている。ちゃんと聞こえている。でも、痛い。痛すぎる。もう、何も考えられない。
「……ぐぼッ!」
口から、また血が溢れた。今度は、さっきよりも多かった。喉が詰まる。息ができない。
「げぼっ、げぼおおッ!」
腹が激しく痙攣した。喉の奥から、黒い塊が出てきた。それが何なのか、考えたくなかった。
「……フェルマ」
ジルドレが低い声で言った。
「……カイを王都へ運ぶ」
「そんな時間はありませんわ!」
フェルマが怒鳴った。
「ここから王都まで何日かかると思っていますの!?」
「……なら、転移魔法を使う」
「カイは魔術師ですのよ! 今の状態で魔法を使わせるつもりですの!?」
「私が担いで走る!」
「そんなことをして、カイの身体が耐えられると思っていますの!?」
フェルマがジルドレに詰め寄った。
「ならばどうする!」
ジルドレの顔が強張った。
「分かりませんわよ!」
フェルマが叫んだ。その声は震えていた。
泣いている。あのフェルマが、泣いている。
「……カイ」
彼女が俺の前に膝をついた。
「私を見なさい」
見ているよ。ちゃんと見ている。
「あなた、いつも私に言っていましたわね。仲間を頼れと。ひとりで無茶をするなと」
そうだな。言ったな。
「それなのに……どうして、あなたがこんなことになっているのですか……?」
フェルマの手が、俺の頬に触れた。その手が、急に止まった。
「……え?」
彼女は俺の顔を見つめている。
「カイ……?」
何だよ。そんな顔をして。俺の顔に、何か付いてるのか。
口を開こうとした。顎が動かなかった。いや、動いている。勝手に、横へずれている。
ぼきり。また嫌な音がした。
「ぐ、ぎ……ッ!」
頬の肉が盛り上がった。歯が伸びる。口の端が裂ける。血が顎を伝った。
「いやあああああッ!」
リスティが悲鳴を上げた。
「カイの顔が! 顔が変わってるよ! ねえ、どうしよう! どうすればいいの!?」
彼女は薬袋をひっくり返した。瓶が床に散らばる。
「解毒薬! そうだ、解毒薬なら! 魔力回復薬の中毒なら、毒を抜けばいいんだよね!?」
「リスティ、待て!」
ジルドレが止めた。
「……今のカイに薬を飲ませるな」
「じゃあどうするの!?」
「……まず呼吸を確保する」
ジルドレは俺の身体を支え、口元の血を拭った。
「……カイ。息をしろ。ゆっくりでいい」
無理だ。息を吸うだけで、胸が痛い。肺が潰れそうだ。
「……ぐ、が……」
喉が鳴る。声が出ない。でも、もう限界だった。
痛い。
痛い。
痛い。
これ以上、耐えられない。
「……こ……」
口を動かした。
フェルマが顔を近づけた。
「何ですの? カイ、何か言いたいのですか?」
「……ろ……」
喉が詰まる。血が溢れる。
「……し……」
舌が動かない。顎が歪んでいる。それでも、伝えたかった。
「……ころ……して……」
フェルマの顔が凍りついた。
「……え?」
俺は泣いていた。涙が止まらなかった。もう嫌だ。もう、こんな痛みは嫌だ。自分の身体が壊れていくのが怖い。みんなに、こんな姿を見られたくない。
「……たの……む……」
声が掠れる。
「……もう……、ころして……くれ……」
リスティが、口元を押さえた。
「……いや」
ジルドレの腕が、震えた。フェルマは、俺を見つめたまま動かなかった。
「……嫌ですわ」
彼女が首を振った。
「嫌。絶対に嫌ですわ」
涙が頬を伝った。フェルマは俺の手を握り締めた。
「あなたは私の仲間ですわ! 私たちの大切な仲間なのです! あなたがいなければ、私はここまで来られませんでした!」
彼女の声が震えた。
「なのに、どうして……! どうして、そんなことを言うのですか……!」
フェルマは俺の胸に顔を埋めた。
「お願いですわ……。生きていてくださいませ……!」
リスティが泣きながら俺の手を握った。
「あたし、絶対に治すから……! だから、そんなこと言わないでよぉ……!」
ジルドレは俺の身体を抱き締めた。
「……私が守る。必ず守る」
その声も、震えていた。
「……だから、死ぬな。頼む……」
みんなが泣いている。俺のために。
背中が、また痛んだ。骨が動く。皮膚が裂ける。黒い突起が伸びる。腕がさらに長くなる。顔の形が崩れていく。
「……ぐ、る……」
声が出ない。言葉にならない。
俺はフェルマを見た。
リスティを見た。
ジルドレを見た。
助けて。
痛い。
怖い。
伝えたいことは、たくさんあった。
でも、喉から出てきたのは。
「……ぐるるる……」
獣のような、濁った唸り声だった。
フェルマが、俺の名前を呼ぶ。
リスティが、何度も謝る。
ジルドレが、震える腕で俺を抱き締める。
魔王は死んだ。
世界は救われた。
なのに、俺は……。
大切な仲間たちに囲まれながら、殺してほしいという願いさえ伝えられず、ただ苦しみ続けていた。
そして、パーティーが壊れた。




