1「天地邸への訪問」
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「人里離れた山奥に佇む大屋敷……世俗を厭う疑似家族……うん、まさにミステリに打ってつけの環境だ。さすが天地総一郎。ロマンをよく判ってるよねぇ」
桜野は窓の外に視線を遣って、独特の間延びした口調でそう云った。
「そんなふうに表現すると、いかにもって感じだな。これが小説だったら、ちょっと古臭い気もするけど」
「きみは判ってないなぁ、塚場くん」
呆れたような溜息を伴い、その視線が僕の方に向く。
「仮にも同じミステリ作家なのに、これはどうしたことだろう? いかにもなのが良いんじゃないか」
「だけど、どれも手垢にまみれた設定って感じじゃないか?」
「古臭い。手垢にまみれている。どちらも初歩的な心得違いだねぇ」
「えーっと……どういう点で?」
「それらの言葉は、使い古されたものが陳腐化することを云うんだよ。でもミステリで定番の舞台設定は、まだまだ陳腐化するには早すぎる。もしも陳腐と感じたなら、それは作者の力量が足りていないのさ」
僕は少し考えてから、
「使い古された舞台設定でも、上手く使えば新鮮な作品を生み出せるってこと?」
「そう。たとえば将棋を考えてごらんよ。長い歴史を持つ知的遊戯だけど、将士もファンもみんな現役で大勢いる。使い古された盤であっても、その盤上では絶えず新たな名勝負が生まれているからだ」
「うん」
「ミステリだって同じだよ。嵐の孤島でも雪の山荘でも新しい傑作は生み出せる」
「ああ……天地総一郎の小説が、まさにそういう感じだよな」
常に新たな趣向を打ち出すことで知られる作家だけれど、ベースは江戸川乱歩や横溝正史の時代からこの国で連綿と続いてきた本格ミステリである。それこそ嵐の孤島や雪の山荘を舞台にした作品もあったと思う。
「それが総一郎さんの偉いところだよ。舞台設定から奇を衒うのは簡単だ。でもそんなのはチェスの道具で将棋をやったり、将棋の駒でポーカーをしたりするようなものだね。最初は風変わりで目を惹くかも知れないけど、そういう表層的な面白さは総じて強度が低い」
将棋の駒でポーカー……どうやるのだろう?
それはともかく、僕は「よく判ったよ、桜野」と答えた。いつも聞かされているのと同じような話だった。昔気質のミステリを愛する彼女の主義主張は理解している。
「だけど今から行く天地邸に関しては、天地総一郎のそういうミステリ趣味とは関係ないんじゃないのか? むしろ無戸籍の生き方とか、新しい家族とか、そっちの活動に属するんだろ?」
「さあね。でも、どちらも同じ作家によるものだよ。総一郎さんについては小説とそれ以外を分けて語られることが多いけど、二つは互いに影響し合ってるんじゃないかなぁ」
「そのあたりも本人から聞けると良いな」
僕らは二人とも現在、タクシーの後部座席である。
麓の町を出発して、既に三十分が経とうとしている。早々に山道に入ってから、左右を流れていく景色はひたすらに鬱蒼とした木々だ。覆い被さるように伸びた枝葉のせいで昼間なのに薄暗く、対向車とも滅多にすれ違わないので、都会暮らしの僕は心細い思いをしている。運転手が無口な男性で、僕らの会話にまったく入ってこないことも、その心理にひと役買っているだろう。
しかし桜野からそんな不安は窺えない。彼女は手元の文庫本に目を落として、また読書に戻った。天地総一郎の最新作『雷雨と相合傘』だ。車酔いしない三半規管が羨ましい。起伏に富み左右にも曲がりくねった山道に、僕の方は段々と吐き気まで覚えてきたところである。窓を開けさせてもらおうか迷っていると、
「……此処ですね」
運転手が低い声を発した。左手に道が分かれていて、その先に鉄製の門があるけれど閉ざされている。車はその手前で一旦停まり、僕が車外に出た。
丁度良かった。門の方へ進みながら、酔いを醒まそうと深呼吸する。噎せ返りそうなくらいに濃い森の香り。どこからともなく、名前の判らない鳥や虫の声がする。
木漏れ日が照らす門柱には『天地』と刻まれていた。
インターホンがついているのでボタンを押すが、しばらく待っても反応がない。二度目の押下から数秒して、ザラついた男性の声が『あー、もしもし?』と応答した。
「もしもし」
『いやあ、お待たせして申し訳ない。なにぶん大きな屋敷だからね』
「あっ、そうですよね。大丈夫です」
『もしかして塚場壮太さん?』
「そうです。桜野も一緒にいます。いま門のところに着いたんですが」
『閉まっているよね? ああ、気が利かなくて申し訳ない。お手数なんだが、門を開けて入ってきてくれるかい? 開けたままで構わないから』
「判りました。では後で」
『うん。待っているよ』
指示されたとおり両開きの門を全開にしてから、僕は車内に戻った。車が再び発進する。
「インターホンで少し話したけど、なんだか親しみやすい感じだったぞ」
意外だったのでそう伝えると、桜野は読書の姿勢のまま訊ね返してくる。
「親しみにくい相手を想定してたの?」
「まあ、こういう場所に住む人達だからな。少し排他的なのかなって」
「偏見だね。天地家の人達は、外のお客さんも頻繁に招いている。少なくともお客さんに対してはある程度、フレンドリーじゃないと成り立たないよ」
「それなら安心なんだが……」
この私道も、周りの景色はそれまでの山道と変わらない。そして想像以上に長かった。
門を過ぎてから十分近くは走っただろうか。ようやく木々のアーチを抜けると、開けた視界の正面に、初夏の陽光に照らされて光り輝く天地邸が姿を現した。
「おお……」と、自分の口から声が漏れた。
本当にあった……。此処を目指して来たのに変な感想だが。
桜野も文庫本を閉じ、前のめりになって窓外の景色を眺める。
「写真で見たとおりだよ。面白いなぁ」
僕らから見て右手――屋敷の北側には、土砂の露出した急な斜面が聳えている。天地邸は山を一部切り崩して平らとなった土地に建てられているのだ。斜面の途中には、土砂崩れに対する用心としてケーブルネットも設置されている。左手――屋敷の南側は森となっており、おそらく裏まで続いているのだろう。つまり一方を斜面、三方を森に囲まれている格好である。
大自然のなか不意に開けた土地と、其処に建つ明らかな人工物。
二階建て、鉄筋コンクリート造の建物だ。ただし幅と奥行きは一般的な民家とは比較にならず、事前に調べた情報によれば、テニスコートが三×三の九つは余裕で収まる面積を有しているらしい。外壁は白とグレーが混在し、バルコニーには木材があしらわれ、シルエットも単なる直方体ではない。いかにも近代的な意匠が凝らされている。
「個人の住居というより、何かの公共施設って感じだよねぇ」
「ああ。僕らの地元の公民館だって、こんなに立派じゃない」
そこで僕は、屋敷の中央に位置する玄関前に、男性がひとり立っていることに気付く。
「あの人……さっきインターホンで話した人かな」
「うん。外見から察するに、耕大さんだろうね」
タクシーはその手前で停車した。会計を済ませて車を降り、僕はトランクからボストンバッグを取り出す。泊まり込みの可能性もあるという話なので、数日分の着替えや日用品等、色々と準備してきた。桜野の方は僕よりもひと回り小さなバックパックを背負っているだけの軽装だが……まあ彼女のことだから上手く収めているのだろう。
最近の桜野は、肩甲骨のあたりまで伸ばした髪を茶色く染めている。今日の格好はカーキ色のシャツにデニムパンツだ。そして幼い顔立ちには相変わらず化粧っ気がない。もうじき二十歳を迎えようとしている女性にはとても見えない。
タクシーが走り去っていくと、玄関で待機していた男性が歩み寄ってきた。
「やあ、よく来てくれたね」
歓迎の意を示す笑顔とともに両手を広げた彼に、僕は「すみません、遅くなってしまいました」と謝罪する。腕時計を見ると午後三時だ。桜野によれば、午後に伺うというだけで明確な時刻の約束はしていないとのことだが。
「いやいや、気にしないでくれ。なにせ俺達は暇人だからね。こんな辺鄙な場所にご足労いただいて、謝らないといけないのは俺達の方だよ」
「そんな。僕らはこれが仕事ですから」
僕は隣の桜野を手で示し、まとめて挨拶する。
「改めまして、桜野美海子と……付き添いの塚場壮太です」
「どうも。天地耕大だ。今回はよろしく頼むよ」
男性は軽く頷いた。やはり耕大さんだった。
インターホン越しに話したのも彼で間違いない。ギョロリとした両目が少し威圧的だが、ここまでのやり取りと朗らかな表情から明朗快活な人と判る。髪を短く刈り込んでいて、顎髭も形を整えてある。体型は瘦せ型。服装は白のポロシャツにネイビーのスラックス。露出した肌は浅黒いけれど、あまり野外で運動をしているようには見えない。
「よろしくねぇ」と桜野が短く云った。
「いやあ、名探偵の実物にお会いできるなんて感激だなあ」
耕大さんは顎をさすりつつ、身体を脇にどけて玄関の方を示す。
「さあ入ってくれ。総一郎のところに案内するよ」
「その前に、屋敷の周りをぐるーっと見せてもらってもいい?」
桜野は正面側の外壁を舐めるように観察しながら、マイペースな口調で訊ねた。その内心は愛読するミステリ作家が建てた屋敷に対する興味で溢れているのだろう。
耕大さんは「うーん……」と少し唸って、
「できれば、先に総一郎に会ってくれるかい? その後で、外も含めて屋敷を案内したいと思っていてね」
「じゃあ、それでお願いしようかなぁ」
桜野は屋敷の中に入っていく。僕は耕大さんにまた謝る。
「すみません、敬語を使わない奴なんです」
「構わないよ。それに知っている。塚場さんの著作を拝読しているからね」
「ありがとうございます。恐縮です」
桜野は敬語に限らず「相手によって口調を使い分けることにエネルギーを使うのは無駄だよぉ」と主張し、良く云えば誰にでも分け隔てなく、悪く云えば傍若無人に振舞うのを常としている。おっとりとした雰囲気のおかげで、前者の受け取り方をしてもらえる場合が多い気はする。
玄関で靴を脱いだ。スリッパを勧められて僕は履いたけれど、桜野は履かずに靴下のまま、耕大さんの後について廊下を進む。壁紙は白く、床はフローリングが敷かれている。
「きれいですね。まるで新築です」と、僕は思ったままを口にした。
「しかし掃除が大変なんだよ。広いから」と苦笑する耕大さん。
桜野は両手を後ろで組んで、首を右から左、左から右と交互にゆっくり動かしながら、数歩遅れてついてくる。耕大さんも気を遣って歩調を遅めにしている。
もっとも、廊下は左右に不均等な感覚で扉が並び、その他は特に飾り気がない。そんな美術館みたいなペースで歩くほど、注目すべき箇所は多くないと思うのだが。
「耕大さん」と、桜野が目を合わせないまま呼び掛けた。
「何だい?」
「掃除は耕大さんがしてるの?」
「いやあ、それがね、俺はあまり」
「じゃあ誰が?」
「共用部分は満代がよくやってくれているよ」
「それは、そういう役割分担じゃなくて自主的に?」
「そうだ。役割なんてものは、俺達の理念には合わないからね」
「規律は無用だ。自然と出来上がるかたちが秩序となる――ってやつだね」
「ああ、総一郎の本からの引用かい?」
「うん。『新しい家族のすゝめ』から」
「さすが、よく勉強しているみたいだね」
二人の会話を聞きながら僕は手帳を開き、メモしてきた天地家の人々のデータを確認する。桜野と違って、僕はつい昨日に此処への訪問が決まったばかりなので、関連情報をまだ記憶しきれていないのだ。いや、桜野なら五分あればすべて憶えられるか。
耕大さんが口にした『満代』というのは……天地満代。新興宗教を信仰する両親のもとに生まれた二世で、宗教上の理由から出生届が出されず、無戸籍のまま特殊な環境で育った。天地総一郎の思想に共鳴し、総一郎が〈家族〉を組成した当初からこれに参加した、いわばオリジナルメンバーのひとり。当時十九歳……とある。
オリジナルメンバーという点は、耕大さんも同じだ。ただし無戸籍者ではない。詳しい素性は判らないが、実家がかなりの富豪で、彼自身も学生時代から投資で一財を築いたという話である。そして総一郎さんの才能に惚れ込み、いわばパトロンとなった。この土地を買って天地邸を建てる際も費用の全額を負担したらしい。当時が二十六歳だから、現在の年齢は三十三か三十四という計算になる。
みんなこの屋敷、あるいはその敷地内から、八年間も外へ出ずに暮らしているのだ。
嫌にならないのだろうか? 僕には想像できない……。
「さあ、此処だ」
廊下が十字に交わっているところを左に曲がり、しばらく進んだ突き当たりの扉の前で、耕大さんは足を止めた。其処が天地総一郎の使用している部屋とのことだ。ノックすると返事があり、耕大さんが扉を開く。
最初に感じたのは、書物の匂いだった。
廊下と同じ白の壁紙。しかし左右の壁は天井まで届く本棚によって埋まっている。正面奥には大きな張り出し窓。重量感のある臙脂色のカーテンは両端にそれぞれ寄せられて、窓外には屋敷の南側に広がる森を臨んでいるが、それより上空から注ぐ陽光も差し込んで室内を明るく満たしている。その手前には幅の広い木製のデスク。卓上はよく整理されており、部屋全体の小綺麗な印象を邪魔するようなことはない。
いま、デスクを迂回して僕らへと歩み寄ってくる人物がいる。
小柄な身体に、グレーのシャツと黒のスキニーパンツを合わせている。知的な顔立ちをより強調するようなウェリントン型の眼鏡。ショートヘアのサイドを耳に掛けながら、どこか不敵に微笑み、よく通る声でその名を告げる。
「こんにちは。あたしが天地総一郎よ」
知識としては知っていた。写真でも見たことがあったのに、実際にその姿を目にすると驚かずにはいられなかった。
女性である。




