第二話 夫婦の出会い
ガチャッ、という扉が開く音と共に部屋に入ってきたのは、黒いメイド服を着た少女だった。少女はベッドで身を起こしているアカネを見ると、目を丸くした。
「あ、あの~……」
「………!!」
アカネが恐る恐る少女に話しかけると、少女は目が零れ落ちないだろうかと心配になるくらい目を見開き、叫んだ。
「み、神子姫様が、神子姫様が起きられました!! 誰か、誰か!!」
そう叫び、慌しく部屋を飛び出した少女を呆然と見送り、アカネは呟いた。
「は? ミコ…ヒメ……? 何処の乙女ゲーム?」
呟きながら、眉間に皺を寄せた。嫌な予感がしてならなかった。
* *
アカネ・コードこと、アカネ・ミズシマ……否、水島茜は、ここ、剣と魔法の世界『アルファーダム』の出身ではなく、異世界、太陽系第3惑星『地球』の『日本』で生まれた。
異世界に飛ばされる前、茜は十七歳だった。その頃の茜は、髪を金色に染め、特攻服に身を包み、バイクで風を切って走っていた。
「茜ー、今日は何処に行く~?」
自分と同じように特攻服に身を包んだ仲間に尋ねられ、茜は答える。
「あー、そうだね。『バロン』にでも行く?」
『バロン』とは、茜達レディース、『赤蝶』がたまり場に使っている店だ。
「えー、たまには違う処に行こうよ~」
「それよりさー、アタシは峠までバイク走らせたーい!」
ケラケラ笑う仲間の案を採用し、茜達は峠までバイクを走らせる事にした。
頬に当たる風が気持ちよく、しばらくの間気分よくバイクを走らせていると、それは起こった。
「えっ!?」
「………っ!?」
人気の無い横断歩道。どうせ人など居ないだろうと、油断した。
横断歩道を渡っていたのは、中学生くらいの少年だった。
慌てて避けようとし、そのままガードレールに衝突。
その身は投げ出され、宙に浮いた。
(ああ、こんな事なら五月蝿いサツの言う事聞いて、ヘルメットくらい被っときゃ良かった……)
そして、そのまま体はガードレールの向こうの雑木林の中へ真っ逆さま。
――ドンッ!
「ぐっ!?」
息の詰まる衝撃に、茜は呻く。
咄嗟に頭を庇い、頭を打つことは無かったものの、クッションにした左腕に激痛が走る。
余りの痛みと衝撃に暫く動けなかったが、何とかそれをやり過ごせるまでに息を整えて、のろのろと身を起こした。
そして、辺りを見回して、首を捻る。
「あたし、何処まで飛ばされたんだ?」
周りに見えるのは、木、木、木。木ばかりだった。
辺りを見回し、目を凝らしても白いガードレールも、街灯の明かりも見えない。
確かにバイクから投げ出され、飛びはしたものの、こんな森のような、奥深くまで飛ばされる程じゃ無かったはずだ。
不安が脳裏を過ぎるが、それを振り払うように立ち上がり、茜はゆっくりと歩き出す。
「だ、大丈夫さ……。歩いていれば、すぐに道に出る……。この雑木林は、そんなに大きくないし……」
痛む左腕を抱え、茜は歩く。歩き続けた。けれど、彼女は雑木林を出る事は無く、その森のような、否、森の中を二日間さ迷い続けた。
いくらレディースで、気が強い茜といえども、森の中で飲まず食わずで、痛む左腕を抱えて森をさ迷えば、不安になる。このまま自分は帰れないんじゃないだろうか、死ぬんじゃないだろうか。
腕が痛む。それの所為で熱も出てきたみたいで、意識も朦朧とし始めた。恥も外聞も無く、泣き喚きたかった。
何で、あたしがこんな目に遭わなきゃなんないの?!
半べそをかきながら、茜はゆっくりと歩き続ける。
そんな時だった。
――グルルル……。
獣の唸り声が聞こえた。
「嘘でしょ……」
茜は辺りを見回し、直ぐにそれを見つけた。
それは、茜の背の三倍くらいの大きさの、角の生えた熊だった。
「ひっ……!?」
余りの恐怖に悲鳴すら上げられず、固まったように足が動かない。
(逃げろ、逃げろ、逃げろ!!)
そう念ずるも、足は思うように動いてくれず、更に悪い事に足がもつれ、尻餅をついてしまった。
――グルァァァァ!!
角の生えた熊が、咆哮と共に、その巨大な前足を振り上げ、茜に向かって振り下ろそうとした――その時だった。
「でぁぁぁぁ!!」
気合、一突き。
熊の胸から剣が生えていた。
熊はそのまま崩れるように倒れ、熊の後ろに居た人物を顕にする。
「〇×△××?」
心配そうな表情でこちらに話しかけてきたのは、皮鎧を着た外国人の青年だった。
「××〇×△□……?」
皮鎧など来た、コスプレ外国人に知らない言語で話しかけられ、茜は身を固くした。しかし、青年の鳶色の優しげな目を見て、ふっ、と肩の力を抜いた。
(ああ、この人なら大丈夫だ……)
何の根拠もなく、ただ、その鳶色の瞳に安心した。
茜は緊張の糸が切れ、熱と疲れからそのまま気を失った。
それが、茜とレオンの最初の出会いだった。
* *
それからレオンは茜をそのまま村へと連れ帰り、献身的に看病してくれた。そして、異世界に来てしまった事を知り、混乱し、泣き喚く茜に根気よく付き合い、言葉を教え、面倒を見てくれた。
そんなレオンに茜が恋に落ちるには時間はかからなかった。そして、レオンもまた、少しずつ自分に心を開いていく茜を愛しく思い始めた。
そして、彼等は出会って二年後、結婚したのだ。
そんな、嬉し恥ずかし結婚初夜。
奥手中の奥手であったレオンが、真っ赤になって頑張ろうとしているのに内心悶え、オタクの幼馴染の少女の言っていた『萌え』を茜は理解した。
そして、初夜開け。また真っ赤になって恥ずかしがるだろうレオンを堪能するはずだった、結婚翌日。その予定は、見事に崩された。
「お迎えが遅くなり申し訳ありませんでした、神子姫様。私、王太子付きの秘書官、ジェイド・ロッカスと申します。以後、お見知りおきを……」
結婚翌日、目の前に現れたのは顔を真っ赤にして恥らう愛しい夫ではなく、怜悧な美貌をもつ男だった。がっかりだ。
茜は男の自己紹介を聞きながら、左手の薬指に嵌めた赤い宝石の付いた指輪を三度こすった。
その行動の意味に気付くものは、茜以外に誰も居なかった。
* *
レオンは家に戻ると、仕舞いこんでいた紺色の鎧と長剣を取り出した。それは、普段彼が身につけている皮鎧と剣とは比べ物にならない程立派なものだった。
それは、レオンが昔冒険者だった頃に身につけていたものだった。
剣と魔法の世界、アルファーダムは奇跡や魔法に溢れた幻想世界だった。けれど、世界は人間にとって安全ではなかった。人を襲う凶悪な魔物も居れば、魔族も居た。人々はそれに難儀しつつも、外の世界に憧れた。そうして生まれたのが、『冒険者制度』だった。
『冒険者』と呼ばれる者は、依頼を受けて魔物を狩ったり、貴人の護衛をしたり、時には『ダンジョン』と呼ばれる魔物に溢れた遺跡に潜り、貴重なアイテムを手に入れて生計を立てていた。
そんな彼等を支援するのが『冒険者ギルド』であった。
このギルドは冒険者達に仕事を斡旋したり、最初の元手を貸し出したりしている。また、基本的に力自慢の多い血気盛んな彼等を取り締まるために、犯罪を犯せば直ぐに足が付くようにという、冒険者ギルド登録制度で犯罪防止の圧力をかけてもいる。『冒険者』というのは危険も多いが、当たれば大きな見返りがある美味しい職業だった。
しかし、大成するものは一握りで、多くのものは夢半ばで挫折し、傭兵団に入るか、城の下っ端兵士に収まるか、はたまた違う職に就くか、そして、盗賊に身を落とすかだった。
それでも成功を夢見て、冒険者になる者は後を絶たない。
レオンもまた、そんな冒険者の一人だった。
レオンが冒険者を辞めたのは、二十四の時だった。まだまだ若く、勢いのある時期だったのだが、田舎の父の訃報を聞き、母のことが心配で、実家の農業を継いだのだ。
そして、冒険者の時に着ていた鎧も長剣も仕舞いこんだ。
何かあったときに役に立つように手入れを欠かさずにしていたため、今も鎧と剣は綺麗だった。
レオンは懐かしいそれを身につけ、慣れた動作で旅支度を整え、家を出た。
* *
レオンが茜と出会ったのは、村の近くに在る森の奥だった。
角の生えた熊の魔物、ホーンベアーが村に出没するようになり、それを狩る為にレオンは森に入り、ホーンベアーに襲われているアカネを見つけたのだ。
ホーンベアーを倒すと、茜は緊張の糸が切れたのか、そのまま気を失ってしまった。
慌てて茜を村まで連れ帰り、医者に見せたところ、左腕を骨折しており、長く森をさ迷ったのか、ひどく衰弱しているという。
熱を出して魘される茜が可哀想で、母と交代しながら看病を続け、二日後に茜は目を覚ました。そして、最初の壁にぶち当たった。
茜は言葉が通じなかった。
何とか手振り身振りでコミュニケーションを図り、意思の疎通をした。そして、茜の体は回復していったが、それとは逆に、精神の方は擦り減っていった。
茜がついにベッドから出られるようになって、初めて家の外に出た瞬間、彼女は涙を流して崩れ落ちた。
口をわななかせ、呆然とする茜に、レオンはそっと呼びかける。
レオンが茜の名を呼んだのをきっかけに、茜は声を上げて泣いた。レオンの知らない言葉で泣き喚いた。
その様子がたまらなく悲しくて、可哀想で、レオンは茜を抱きしめた。
茜はそんなレオンを叩き、殴り、レオンの知らない言葉で泣き喚く。
「アカネ、アカネ、アカネ……」
唯一、通じる言葉。茜の名前を呼び続け、レオンは暴れる茜を抱きしめ、放さない。
茜は暴れ疲れると、しゃくりあげながら、レオンの腕の中で力を抜いた。
それを確認し、レオンはゆっくりと茜を離し、目を合わせる。
ぼんやりと、焦点の合わない茜の瞳を見つめ、レオンは通じないと分かっていながら話しかける。
「大丈夫だよ、アカネ。大丈夫だから。何とかするから。大丈夫、大丈夫だよ」
優しく、優しく話しかける。ゆっくりと、優しい声音で、少しでも安心できるように、話しかける。
茜はレオンの言葉に何か返す事なく、涙を一粒零して、そのまま目を閉じ、眠った。
それが、始まりだった。
レオンは、茜に言葉を教えるのではなく、茜の言葉を覚えるのに腐心した。
日本語を一生懸命覚えようとし、自分に拙い日本語で話しかけてくるレオンに、閉ざしたはずの茜の心が動き出す。
日本語で話しかけてくるレオンに、彼の世界の言葉を話したらどんな顔をするだろうか。
ざわざわと騒ぐ心のままに、唇に言葉をのせる。
「おはよう、レオン」
たった一言。ただの挨拶。
その一言が齎した効果は、想像以上だった。
こぼれんばかりに目を丸くし、次いで目を潤ませ、嬉しそうに、本当に嬉しそうにレオンは笑った。
そして、茜はこの時、ついに降参した。
もう、どうしようもない。いつまでも拗ねてないで、動き出さないといけない。少なくとも、この目の前の優しい人に迷惑をかけてはいけない。
レオンの笑顔に、茜は泣きそうになりながら、笑顔を返した。
そんな泣き笑いの表情を見て、レオンは茜を守る事を決意し、茜はこの世界で生きていく事を受け入れた。
それが、彼等の新しい関係の始まりだった。
それからは、坂を転がる石の如く、瞬く間に二人は恋に落ち、愛を確かめ、結婚したのだった。
* *
そんな、一生守るのだと誓った愛しい妻を攫われ、焦りが収まる頃に、次いで沸き起こってきたのは、怒りだった。
レオンの怒り方は、静かだ。
グツグツと腹の底でマグマのような怒りを煮えたぎらせ、頭では冷静に、冷酷な手段を思い浮かべ、計画を立てる。
レオンは所謂、怒らせてはいけないタイプの男だった。
レオンが馬を走らせていると、意識の端に引っかかる反応があった。それは、妻の故郷の風習である、結婚の際に渡す結婚の証たる『ケッコンユビワ』にかけた追跡魔法の反応だった。
レオンがかけた追跡魔法は、森で迷子になった時にレオンが迎えにいけるようにという意図で造ったものだったのだが、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。
その魔法の発動条件は簡単だ。『ケッコンユビワ』に付いた赤い宝石を三度強くこするだけだ。それだけで、三日間はレオンに彼女の位置を教えてくれる。
茜の居る場所は、やはり王都だった。
王都までは、馬を飛ばしても五日間くらいかかる。しかし、もし転移魔法を使える魔術師がいれば、一瞬で移動できる。恐らく、茜を攫った外道の仲間には転移魔法が使えるほどの、優秀な魔術師が居るのだろう。
レオンはギリギリと歯軋りしながら、馬を走らせる。
願わくば、『ケッコンユビワ』にかけたもう一つの魔法が発動するような事がおきませんように。
レオンは、そう神に祈った。