番外編「兄という幻想、笛吹男の掌」
維新日本プロレス。
長く日本のプロレス界をリードしてきた老舗団体である。
同じく老舗の日本全國プロレスが序盤からじっくり試合を組み立てる方針であるのに対し、開始一秒から疾走し始めるハイスパートレスリングを信条としている。
この団体では若手の登竜門として三十歳未満またはデビューから三年未満のレスラーが参加する『チャンピオン・スター杯大会』が不定期に開催されていた。
少子化が社会問題となって久しい日本。
そして、プロレス人気があるにもかかわらずレスラー志望者、若手もまた減少の一途を辿っており、若手の登竜門としての大会開催数もまた減少していくことを避けられなかった。
対案として前大会優勝者を選手権者同様に扱い、『チャンピオン・スター選手権』として有望な若手が挑戦するパターンが定着していたのだった。
常盤深緑の兄、光陽は、今度のチャンピオン・スター選手権の挑戦者である。
そして今は、第四十四代チャンピオン・スター選手権者であり、三年ほど先輩にあたる西河内とリング上で睨み合っていた。
同い年でもある二人は一週間後の後楽園ホール大会において、タイトルを賭けて戦うことが決まっており、今まさに前哨戦のタッグ対決で両者リングアウトで不完全燃焼となったばかりであった。
「モヤモヤするよなあ。折角の、同年代対決を前にさ。これってさ、俺だけじゃねえ。お客さんも……だよなあ?」
どちらの相方も控室に引き上げてしまった中、会場中が拍手と『延長』の声で一杯になった。
対角にいた西河内が光陽を見て、それから会場中を見回してから嫌らしい笑みを浮かべた。
「まあまあ、そう尖りなさんな。今日の、この会場のケツの時間は、決まってるんだ。約束で、契約で、そう決まってるんだよ。落ち着いてさ、その辺にいるスタッフや会場職員の方々の顔を見てみなさいよ。あの人たちを、冷や冷やさっ……せんなよ。いい大人でしょ? 常盤ぁ、光陽っくん?」
会場中から大きなブーイングが浴びせられるが、西河内はこれ見よがしに肩をすくめて意に介してませんというポーズを取った。
まだ若いのに、たいした悪役ぶりである。
この団体から、疑似とはいえタイトルを預けられるに相応しい若手レスラーだった。
さすがは西河内だなあと思いつつ顔には出さないように気を配り、光陽はなおも厳しく追い詰める科白を読み上げるのだった。
これらはすべて、手順通り。
西河内が語ったとおり、会場を退出する時間は厳密に契約で規定されている。
お客さんには時間ギリギリまで楽しんでほしいが、退出時間を超過するわけにはいかない。
「ところでさ、光陽くん? 君ぃ……妹さん、居たんだってね?」
光陽の目に剣呑な光が宿った。
――聞いていた通りなんだから。
「このあいださぁ、たまたま、お会いしたんだ。人気、急上昇中の、アイドォール、あの、常盤、深緑ちゃんに、ねぇ!」
西河内は光陽に向けて、指をくねくねと動かした。
海中でタコが泳ぐときのように。
――落ち着け、俺……
「妹さん、さぁ……俺の、西河内の大ファンなんですっって――」
「待って」「止めて」「光陽さん、ここリングです」「放して」「おい、控室の……先輩方にも声かけて」「光陽!落ち着け」「クマか、こいつ。脚には二人、いや三人貼り付け」「莫迦野郎、ここじゃねえ、来週の後楽園でやれ」「めんどくせえ、俺の小道具に、手錠、あったろ、持ってこい」「よし、嵌めた。控室……いやバスまで持っていけ!」「西河内ぃ、お前、莫迦! 挑発の仕方、考えろや!」
三十分後。
維新日本プロレスの移動バスに、シャワーと着替えを済ませた西河内が乗りこんだ。
そして、両手と両足を手錠で繋がれ、リングコスチュームのままの光陽の席と、通路越しに隣り合った席に腰かけたのだった。
「ミっちゃんさぁ。打ち合わせしたじゃん。昨夜、十回も部屋で読み合わせしたじゃん。なんで、あそこでブチ切れるのさ。我慢できない言葉遣いとかあったら、先に教えてって、昨夜もあんだけ念を押してたじゃん」
光陽は、いまや親友と言っても差し支えない先輩に、申し訳なさそうに黙って頭を下げるのだった。
トラブルがあった夜の、維新日本プロレス事務所――
後楽園の結末だけではなく、タイトルマッチの組み合わせ自体を考え直さないかと提案してきた社長に、西河内は食い下がろうとしていたのだった。
『社長、社長が仰ることは、わかりました。ただ……あの、口ごたえしたいわけじゃないんです。俺の気持ちとして、伝えておかなくちゃって。ここで俺が……深緑ちゃんの名前を出さなくなったら、それって俺の、今後の悪役としての信頼感に自分で傷をつけてしまわないかって、それが怖いんです』
『だから、今度の後楽園、俺たち……俺と光陽に預けては戴けませんか? 社長や会社全体が、俺に賭けてくださっているのは、めっちゃ嬉しいし、誇りに感じてます。裏切りたいなんて、これっぽっちもないんです』
『でも、お客さんに「西河内はビビッて光陽の妹イジリを辞めた」なんて、言わせちゃいけねえとも思うんです。俺のファンを悲しませたくないし、なによりプロレスファンに西河内というプロレスラーを舐められることが、ひいてはプロレスが軽く見られることに繋がっていきはしないかと』
『ええ、確かに大袈裟です。だって俺は、一事が万事だって考えてますから。そのせいで、自惚れって言われても、それはそうです、としか……』
『あ、ありがとうございます。任せていただけるんですね。ええ、当日は開始前からガンガン行きます。光陽がブチ切れても、何とかします。俺だって道場じゃ一番って自信はあります。すいません、格好つけすぎました。ただ、光陽がブチ切れて、対応できるの、俺くらいだって認めていただいているとは自負してます』
『もしも、もしもですけど、光陽を止められなくて、そのまま押し切られたら、そのときは、あいつとの抗争を始めるってことで、お願いしたいんです』
『光陽に甘い? 社長、さすがっす。冗談まで上手いっす。俺は、自分の悪役としての格を落としたくない。それだけっすよ。特別扱いとか、そんな、可愛がっちゃ、いません。どの後輩にでも、公平なつもりっす』
『何なら光陽は、ただの踏み台です。そこんとこ、勘違いは勘弁っす』
後楽園ホール。
チャンピオン・スター選手権試合当日。
三度の警笛が鳴る。
入場曲はない。
ただ列車が線路を走る音が会場中に鳴り響くだけ。
続けて、西河内が入場してくる。
観客を、警笛音とともに銀河の彼方に連れ去る笛吹男。
人呼んで、西河内“ギャラクシー・エキスプレス”鉄道。
向かい合う光陽と西河内。
薄笑いを浮かべる西河内が逸る光陽の接近を手で制し、隠し持っていたマイクで語り始めた。
「これだけは覚えておけ」
『これだけは覚えておけ』
「常盤光陽っ、お前の妹、深緑ちゃんはぁ、この俺の、大ファン、だってこと!」
『ミっちゃん。お前が自制できなかった場合、取り返しがつかないくらいに事態が転がって、それから目が覚めてしまったら、こう名乗りを上げろ。反射で口から出てくるまで、練習しとけ』
ゴングと同時に光陽の神速の飛び込みからの肘打ち上げが、手招きをしていた西河内の顎をめがけて打ち込まれた。
西河内は咄嗟に、手招きをしていた左腕を喉に巻き付けたが、肘打ち上げの衝撃を殺すには足りなかったようだ。
――効くぜぇ。
西河内の意識が一瞬だけ飛んだ。
膝の踏ん張りが利かなくなり、後ろに倒れた。
ただ、倒れた場所が不味かった。
リングは、鉄骨で組んだ支脚に杉板材でマットの土台を敷き、ウレタンを重ねたものである。
杉板材を支える鉄骨部分には、どうしても衝撃を逃がしきれない場合がある。
意識のないまま、最も硬い箇所のマットに後頭部を痛打した西河内は――
試合開始からわずか二十二秒の出来事だった。
レフェリーもゴング係も、事情を社長から聞いてはいたものの苦い顔をしながら首を横に振った。
テンカウントも数えず、レフェリーが両手を交差させては横に広げる動作を繰り返し、試合の終わりを告げた。
ノックアウト宣言すら待たないレフェリーストップ。
大慌てで駆け寄るセコンドの選手たち。
唐突過ぎて、大事故過ぎて、光陽を責める余裕もない先輩たち。
そんな中で、我に返った光陽は反射で視界に入ったマイクを手に取った。
「拍手なんて、俺には要らねえ。当然の、結果だ」
会場の誰も、拍手なんてしていなかったのに。
さらに静まり返る場内。
この惨事の中で常盤選手は何を言い出すのかと観客は待ち構える。
ここは、絶対にどもってはダメなシーンだ。
噛まないように細心の注意で、それでも一気にまくし立てていく光陽。
「熱戦? そんなものは、俺には必要ない」
やってしまった以上、躊躇いなどという贅沢は許されない。
「そうだ、俺を見ろ、汗ひとつかかねえ。相手が誰だろうが関係ねえ」
西河内は、こんな事態の後始末まで考えて光陽の準備をしてくれたのだ。
光陽には、この惨劇を起こした結末として非情の悪役を、演じる義務がある――
――早く、控室に逃げ込みたい。
「俺は俺のやり方で、無理なく、無駄なく、完璧に支配する。それが俺――」
だが、背を向けることは光陽には許されない。
「“システマチック・コンカラー”!」
「汗ひとつかかない。息も乱さない。何の無理もなく支配する者。完璧王者――」
――しくじった。
汗のくだりはさっき、やっただろうが。
ええい、このまま行け!
「常盤……光陽だ!」
マイクを放り捨てた光陽の横目に意識もなく運び出されていく西河内が映っている。
この先に何があろうとも……
絶対に、涙を見せてはいけない。
それが、衆目で自分を制御できなかった罰――
後楽園の秒殺タイトルマッチの後に起こった新たな悲劇。
光陽「熱戦? そんなものは、俺には必要ない。汗ひとつかかねえ。相手が誰だろうが関係ねえ。俺は俺のやり方で、無理なく、無駄なく、完璧に支配する。それが俺――」
光陽「“システマチック・コンカラー”!」
光陽「何の無理もなく支配する者。完璧王者――」
光陽「常盤……光陽だ!」
観客「シ・ス・コ・ン! シ・ス・コ・ン!」
光陽の口上を受けて、会場中が大合唱を始める。
SNSで一部のファンの悪ふざけで『シスコン』コールをしている動画が拡散され、このところ、ずっとこんな光景が繰り広げられているのだ。
光陽「……」
――どうして、こうなってしまったのか。
光陽の失態があってもそれを逆用して覆いつくすために、西河内が授けてくれた妙案のはずだった。
――療養中の西河内のためにも、俺は大悪党《 ヒール》にならなければいけないのに……
せっかくの演出を使いこなせない自分に光陽は情けなくてしょうがなかった。
観客「シ・ス・コ・ン! シ・ス・コ・ン!」
光陽「……リング上では俺が支配者だ。覚えとけ!」
合唱に負けずに光陽は声を張り上げるも……
観客「シ・ス・コ・ン!」
光陽「だから違うっつってんだろ!」
あのとき流さなかった涙が、光陽の目に滲んできた。
そのとき、会場に三度の警笛が鳴り響いた。
続けて列車が走る音が――
閉じられていた会場の出入口が大きく開け放たれ、一人の男がリングに向かって歩いてきた。
西河内「ただいまです、草津文化ホールにお越しのみなさま。楽しい、楽しい、有給休暇、存分に、堪能してまいりました。ああ、申し遅れました。汗ひとつかかないお方が汗水流して働いたお金で、エンジョイしていた、私――西河内“ギャラクシー・エキスプレス”鉄道、と申します。しがない、レスラーでございますよ?」
悪役だった人物を拍手で迎える観客。
それは、誰もが待ち望んでいた救世主の生還――
しかし、そんな空気もどこ吹く風の西河内のマイクパフォーマンスが始まる。
西河内「いやぁ、いい休暇でした。ご心配をおかけしていた怪我の方ですが、実は、嘘です。ああ、騒がないで騒がないで。話には、まだ先があるんですから。ちょっとばかりお医者様の厄介にはなりましたが、すぐにもう帰れってお墨付きをいただきましてね。私、いたって健康体でございます。あとは怪我を口実に引っ張れるだけ引っ張って温泉療養と洒落こんでましたよ。ええ、ここの草津温泉というところは、実にいい温泉街ですね。美味しいものもそれはもうたらふくいただいて参りました。あ、領収書は会社に出してませんよ? さすがにそこまで厚かましくはございません」
西河内は腰にベルトを巻いたゼスチャーをして、光陽を指さした。
西河内「ところで、その腰に巻いたベルト……私、無くしたと思ってずいぶん探していたんですよねえ。……返して、いただけます?」
光陽「次の挑戦に、名乗りを上げるってか? 上等じゃねえか。お前を倒すのに、汗なんかかかねえって、また教えてやる」
西河内「おや? 汗ひとつかかないシスコン完璧王者様が、ずいぶん汗をかいていらっしゃる。ご病気ですか?」
光陽「“システマチック・コンカラー”だ。間違えるな」
マイクに手を当てて光陽は小声で、お前が名付けたんだろうが、とぼやいた。
西河内「失礼。良い略称だと、思いますよ。妹が……とっても、大好きな、“システマチック・コンカラー”……長いよね、みんな? シスコンでいいじゃない? お医者様でも、草津の湯でも、シスコンだけは、何とやら? ああ、その深緑ちゃん、一昨日にこちらの会場でコンサートをやってましてね。観に行った方も、この中にいらっしゃいますかね?」
西河内は深緑とのツーショット写真(高額グッズ購入者へのお礼)を高々と掲げるのだった。
光陽「お前、今すぐ、リングに上がってこい!」
西河内「はい、喜んで!」
またも殴り合いをする二人を、慌てて止めに入るセコンドたち。
「西河内、戻ったばかりで莫迦野郎、懲りねえのかお前は」「光陽、学習しろ」「こないだ買ったロープ、持ってこい。二人分だ!」
西河内はするするっと華麗な身のこなしで包囲網をくぐり抜けて会場の端まで逃げたと思ったら、観客を巻き込んで『KUSATSU! KUSATSU!』と手拍子しながら煽り始めた。
すると、さっきまで会場を埋め尽くしていた『シスコン』コールが『KUSATSU!』コール一色に塗り替えられたのだ。
煽るだけ煽った西河内は最後に「草津のお湯で、顔を洗って出直してこい」と言い放って、外に出て行ってしまった。
会場の隅で、人一倍長い顎に手を当ててしきりに感心する社長と、その横で苦い顔をしている社長の懐刀と呼ばれていたベテラン中堅レスラー。
社長「任せてよかった。これは軸にできる。光陽も、強いだけだったが、こうやって西河内に揉まれていけば、あるいは……」
中堅「社長、あのイジリをして、プロレスを成立させられるのは、社長と西河内くらいです」
この日を境に、光陽たちの扱いを巡って内紛まで起きてしまった維新日本プロレス。
これらの、社会現象にまで発展した騒動について、ともに業界を引っ張る立場の日本全國プロレスの社長が取材を受けることになった。
「そういうのも、全部ひっくるめて、プロレス」
日本全國プロレスの社長は、あっけらかんとそのように答えると、もうインタビューは終わりだよと言いたげにソファから立ち上がって振り返り――しかし背が高過ぎたので――屈んで窓の外を眺めるのだった。




