第170話
東京、西新宿。
日本政府が「神」を迎えるために建設した、天空の神殿――政府専用ヘリポートは、今日も今日とて、張り詰めた緊張感と、そしてどこか浮世離れした穏やかな空気が同居する、奇妙な空間となっていた。
冬の透き通るような青空の下、黒塗りの祭壇の前には、いつものメンバーが揃っている。
宰善茂総理大臣、橘紗英理事官、そして綾小路俊輔官房長官。
彼らの目の前には、今日この日のために全国から取り寄せられた「最高級の羊羹」と、「日本茶」が供えられていた。
そして、その祭壇の中央で、一匹の黒猫が器用に前足を使って羊羹を切り分け、口に運んでいる。
賢者・猫。
この世界の歴史を影から――いや、もはや表舞台で堂々と書き換えつつある、超越的な存在。
「……んぐんぐ。……ふむ。悪くない」
賢者は、漆黒の練り羊羹を飲み込むと、満足げに髭を震わせた。
「……この『トラヤ』という店の羊羹は、密度が良いのう。
……砂糖の甘さと小豆の風味が、極限まで圧縮されておる。
……まるでブラックホールのような重厚感じゃ」
「……お気に召していただき、光栄の至りにございます」
宰善総理が深々と頭を下げる。
ブラックホールなどという不穏な比喩には気づかないふりをして、彼はあくまで恭しい態度を崩さない。
今日の「定例報告会」は、比較的穏やかなものだった。
月面都市の建設は順調。
魔石製品の流通も安定。
中国との関係も、表向きは小康状態を保っている。
世界は日本の掌の上で――あるいは賢者の掌の上で――順調に回っていた。
そんな穏やかな空気の中で、雑談の花が咲く。
「……そういえば、賢者様」
綾小路官房長官が扇子をパチリと鳴らして、話題を振った。
「……先日、アメリカのトンプソン大統領と話しておりました折に、ふとこのような話題が出ましてな。
……『我々人類の寿命は、あまりにも短すぎる』と」
「……ほう?」
賢者は、二切れ目の羊羹に手を伸ばしながら、興味なさそうに相槌を打つ。
「……ええ。
……月面都市ができ、火星への道が開かれ、魔法という新たな地平が見えてきた。
……やりたいこと、知りたいことは山のようにあるのに、人間の時間は、あまりにも短い。
……せめてあと五十年、いや百年あれば、もっと多くの景色を見られるのに、と嘆いておりました」
それは、権力を極めた者が必ず到達する、普遍的な悩みだった。
全てを手に入れた者が、最後に欲するもの。
時間。
若さ。
そして命。
「……ふむ。……まあ、人間種は短命じゃからな」
賢者は、こともなげに言った。
「……百年そこらで機能停止するなど、ワシからすれば瞬きする間にも満たぬ刹那よ。
……セミのようなものじゃな」
「……セミでございますか……」
宰善が苦笑する。
人類の叡智の結晶である総理大臣も、この存在の前では夏の虫扱いである。
「……ですが、賢者様。
……セミはセミなりに、冬を越してみたいと願うものでして……」
宰善は冗談めかして言った。
「……以前いただいた『若返りの秘薬』……。
……あれは素晴らしいものでしたが、一度きりしか使えず、しかも数に限りがある。
……もっとこう、根本的に……『老い』そのものを克服する方法などは、存在しないものでしょうか?」
それは半分は冗談で、半分は本気の探りだった。
もしそんなものがあれば、国家戦略は根底から覆る。
賢者・猫は羊羹を飲み込むと、お茶をずずと啜った。
そして、あっさりと言った。
「……あるぞ?」
「…………………………………………はい?」
その場にいた全員の動きが止まった。
風の音だけが、ヒューと吹き抜ける。
「……あ、あると仰いましたか……?
……今、さらりと……」
橘の声が震えている。
「うむ。あるよ、不老処理」
賢者は、まるで「醤油あるよ」くらいの気軽さで言った。
「……ワシがよく行く『アークチュリア』という世界ではな、それが標準仕様になっておる。
……あそこの住人たちは、年に一度、簡単なメンテナンスを受けるだけで、肉体を常に二十代の全盛期の状態に保っておるぞ。
……寿命という概念は、事実上撤廃されておるな。
……まあ、事故死や精神の摩耗死はあるが、老衰で死ぬ奴はおらん」
「…………!!!」
衝撃が走る。
不老不死。
人類の有史以来の悲願。
それが、どこかの世界では「標準仕様」だというのか。
「……そ、それは……!
……どのような魔法なのですか!?
……あるいは、どのような秘薬を……!?」
長谷川教授が、モニタリングルームのマイク越しに絶叫した。
「……魔法ではないな。
……あそこは科学文明じゃから、純粋な科学的処置じゃよ。
……特殊な素材を調合した溶液を投与し、ナノマシンで遺伝子を修復し続ける。
……まあ、そんなに難しいことではない」
「……か、科学……!」
宰善総理が身を乗り出した。
「……賢者様!
……その技術……!
……その技術の『レシピ』をご教示いただくことは、可能でしょうか!?
……もしそれが叶うならば、我が国は……いや、人類は……!」
もし日本がその技術を独占すれば。
それは、もはや覇権などというレベルではない。
人類という種の管理者に等しい立場となる。
賢者・猫は、少しだけ面倒くさそうな顔をした。
「……ふむ。……まあ、構わんが……」
彼はポリポリと耳の後ろを掻いた。
「……レシピと言っても、あそこの文明レベルは、お主たちとは桁が違うからのう。
……材料を聞いたところで、集められるかどうかは知らんぞ?」
「……か、構いません!」
橘が叫ぶように言った。
「……我々には『やまと』があります!
……宇宙へも異世界へも行ける翼があります!
……材料が地球になくとも、探しに行くことは可能です!
……どうか、そのデータを!」
「……そうか。そこまで言うなら」
賢者は、やれやれといった風に頷いた。
「……分かった。
……帰ったらメールで送っておくわ。
……『不老処置・構成素材リスト』とな。
……まあ、暇つぶしに読んでみるといい」
「……あ、ありがとうございます……!
……感謝の言葉もございません……!」
宰善たちは、地面に額を擦り付けて感謝した。
これは、これまでのどんなアーティファクトよりも価値のある情報だ。
人類の「死」からの解放。
その鍵を、今手に入れたのだ。
「……うむ。
……じゃあ、ワシは帰るぞ。
……今日は羊羹が重かったから、少し昼寝でもするかのう」
賢者は、歴史的な約束をした直後だというのに、相変わらずのマイペースさで立ち上がった。
そして、いつものように陽炎のように姿を消した。
残されたのは、興奮と、そして未知への期待に打ち震える、日本のトップエリートたちだけだった。
◇
その日の夜。
官邸地下、危機管理センター。
そこでは、賢者からのメールを待つ間、日本の最高首脳陣による、歴史上最も「皮算用」に満ちた緊急会議が開かれていた。
議題は、『不老不死社会の到来とその対策について』。
まだレシピさえ届いていないのに、彼らの議論は既に「不老不死が実現した後の世界」へと飛躍していた。
それは、彼らの優秀すぎる頭脳が導き出した、あまりにもリアルで、そしてあまりにも深刻な未来予測だった。
「……まず、年金制度は崩壊しますな」
厚労省の事務次官が、青ざめた顔で言った。
「……死なないのですから。
……『受給開始年齢』という概念が意味をなさなくなる。
……永遠に働き、永遠に納税する。
……社会保障というシステムそのものを、根本から再設計する必要があります」
「……人口爆発はどうする?」
環境大臣が懸念を示す。
「……誰も死なずに子供が生まれ続ければ、地球はあっという間にパンクするぞ。
……産児制限? それとも強制的な宇宙移民か?」
「……それ以前に、政治的な問題が深刻です」
綾小路官房長官が、扇子で口元を隠して言った。
「……権力者が死ななくなる。
……つまり独裁者が永遠にその座に居座り続けることが可能になる、ということです。
……世代交代という社会の新陳代謝が止まる。
……企業も、政治も、芸術も。
……千年前の『老害』たちが、若々しい肉体で君臨し続ける社会……。
……想像するだけで、胃が痛くなりますな」
「……だが」
宰善総理が力強く言った。
「……それでも、『死にたくない』という願いは、人類の根源的な欲求だ。
……その技術が目の前にあるのに、社会制度の維持のためにそれを捨てるなど、政治家として……いや、人間としてできんよ」
彼は自らの手のひらを見つめた。
そこにある皺と、老いの兆候。
「……私とて、あと五十年、百年と、この国の行末を見守りたいと思う。
……トンプソン大統領も、習主席も、プーチン大統領も、皆同じだろう。
……この技術は、必ず実現させねばならん。
……その後の混乱は、その後の我々(不老になった自分たち)が解決すれば良いのだ」
「……そうですね」
橘紗英も、静かに同意した。
「……それに、賢者様は『アークチュリア』では、それが標準だと言っていました。
……つまり、不老不死の社会でも文明は維持できる、という証明です。
……我々も、そのレベルまで進化すれば良いだけの話」
議論は熱を帯びていく。
彼らは既に、自分が不老になることを前提に未来を語っていた。
「……素材は何でしょうね?」
「……『アークチュリア』というからには、やはり地球にはない植物でしょうか?」
「……『やまと』を使えば、どんな秘境の薬草でも採りに行けます」
「……あるいは深海の未知の成分か?」
「……レアメタルの一種かもしれん」
希望的観測が飛び交う。
彼らは信じていた。
賢者様がくれた「宿題」なのだ。
難しいかもしれないが、決して不可能ではないはずだと。
頑張れば手が届く範囲の、少しだけ未来の技術なのだと。
そして。
深夜二時。
ついに橘の端末に、通知音が鳴り響いた。
「……来ました!
……賢者様からのメールです!」
司令室の空気が一瞬にして張り詰める。
全員が息を飲み、メインスクリーンを見上げる。
「……開きます」
橘が操作する。
画面に、一通のテキストファイルが表示された。
件名:【レシピ送付】不老処置に必要なものリスト
本文:
『やあ。約束のリストを送るぞ。
アークチュリアのコンビニなら、セットで売ってるレベルのありふれた素材じゃ。
まあ頑張って集めてみてくれ』
添付ファイルが開かれる。
そこには四つの素材の名前と、その概要が記されていた。
全員が、その一行目を読んだ瞬間。
思考がフリーズした。
1.溶媒:『木星級ガス惑星の核抽出液』
(概要:超高圧・超高温環境下にあるガス惑星の中心核付近でのみ採取可能な、特殊な金属水素が液体化したもの)
「……………………は?」
誰かが、間の抜けた声を出した。
木星の……核?
ガス惑星の中心?
「……ちょ、ちょっと待ってください」
長谷川教授が、震える声で叫んだ。
「……木星の核!?
……あそこは数百万気圧、数万度の地獄ですよ!?
……探査機を送るだけでも至難の業なのに、その中心まで潜って液体を汲んで来いと!?
……無理です! 物理的に!
……『やまと』のシールドが持ったとしても、採取する手段がありません!」
だが、絶望はまだ始まったばかりだった。
二行目。
2.活性剤:『恒星光の結晶』
(概要:ダイソン球(恒星包囲殻)を用いて、恒星から放出されるフレアエネルギーを物理的に圧縮・結晶化したもの)
「……だ、ダイソン球……!?」
科学技術庁の長官が絶句する。
「……太陽を殻で覆う、あのSFの!?
……そんなもの、建設するだけで数千年かかりますよ!
……光を『結晶化』する技術なんて、理論上も存在しません!」
三行目。
3.制御ユニット:『自律進化型フェムト・マシン』
(概要:原子核サイズの極小ロボット群。体内でDNAをリアルタイムで修復し続ける)
「……フェムト……。
……ナノ(10億分の1)よりさらに小さい、1000兆分の1メートル……。
……原子核サイズで自律思考するAIロボット……?
……そんなものが作れるなら、我々はとっくに神になってますよ……」
IT担当大臣が、力なく笑った。
そして最後。
四行目。
4.安定剤:『事象の地平線の塵』
(概要:ブラックホールの重力圏ギリギリで採取される『時間が凍りついた物質』)
「…………………………………………」
沈黙。
完全なる沈黙。
誰も、何も言えなかった。
ブラックホール。
光さえも脱出できない、宇宙の墓場。
そこに行って、塵を拾って帰ってこい?
「……ふっ」
宰善総理が、乾いた笑いを漏らした。
彼の目から、先ほどまでの野心と希望の光が完全に消え失せていた。
「……ははは。
……ははははははは」
彼は力なく椅子に座り込んだ。
「……無理だ」
一言。
それが、全ての結論だった。
「……これは無理だ。
……1000%、いや一億パーセント無理だ。
……我々の文明レベルでは、スタートラインにさえ立てていない。
……石器時代の原始人に『スマホを作れ』と言っているようなものだ……」
長谷川教授が床に崩れ落ちた。
彼は理解したのだ。
賢者・猫の背後にある「アークチュリア」という文明の、圧倒的な、絶望的なまでの深度を。
彼らにとっての「コンビニで売ってるありふれた素材」が、地球人にとっては宇宙創成の秘密に触れるような不可能ミッションであることを。
「……これが銀河文明のレベルですか……」
橘紗英が呆然と、スクリーンを見上げていた。
「……我々は思い上がっていました。
……『やまと』を手に入れ、魔法を覚え、少しばかり天狗になっていた。
……ですが所詮、我々は神の庭で遊ばせてもらっているだけの赤子に過ぎなかったのですね……」
部屋を支配するのは、深い深い徒労感と、そして自らの矮小さを知らされた者たちの、静かな諦めだった。
その時、綾小路がメールの最後に追記された一文に気づいた。
「……総理。まだ続きがあります」
『P.S.
まあ、お主らの科学力では、あと一万年くらいかかりそうじゃな。
科学で無理なら、魔法を極めたほうが早いかもしれんぞ?
寿命を延ばす魔法なら、エルフあたりが詳しいじゃろうし、修行次第では人間でも何とかなるかもしれん。
まあ精進せい』
その、あまりにも無責任で、そしてどこまでも的確なアドバイス。
「………………」
全員が顔を見合わせた。
「……魔法ですか」
宰善総理が、苦笑混じりに言った。
「……科学の頂点には届かない。
……ならば、我々に残された道は、やはり泥臭く、地道に魔法の修行をするしかないということか」
「……ですね」
長谷川教授が涙を拭って立ち上がった。
「……ブラックホールに行くよりは、魔法で寿命を延ばす研究をする方が、まだ現実味があります。
……悔しいですが、科学の敗北です」
「……まあ、諦めがつきましたな」
綾小路がパチリと扇子を閉じた。
「……これなら、中国がどれだけ騒ごうと、
『不老不死の秘法? ああ、材料はブラックホールの塵ですが、採りに行きますか?』
と言えば、彼らも黙るでしょう。
……『欲しければ自分で採りに行け』とね」
「……そうだな」
宰善総理は深く頷いた。
「……我々は賢者様から完成品を卸してもらう、今の関係を維持しつつ、地道に自分たちの魔法レベルを上げていくしかない。
……高望みは身を滅ぼすということだな」
彼らの野望は、宇宙の彼方へと消えた。
だが、その代わりに彼らは自分たちの「分」を弁え、地に足の着いた(といっても魔法だが)努力の道へと戻ってきたのだ。
日本の地下深く、絶望と安堵が入り混じった奇妙な夜が更けていく。
神の提示した「お買い物リスト」は、人類に対する最高の皮肉であり、そして「お前たちはまだそこじゃない」という、優しくも厳しい教育的指導でもあった。
その頃。
全ての元凶である男は、日本の山奥の自宅で、コンビニ(日本の)で買ってきたプリンを食べながら、のんきに呟いていた。
「……まあ、あいつらなら、そのうちブラックホールくらい行けるようになるんじゃね?
……知らんけど」
神の無責任な期待を背負い、人類の苦悩と挑戦の日々は、まだまだ続くのだった。




