第120話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、人間は自らの手で神話の続きを紡ぎ、そして新たな怪物を育て上げていた。
尾張国は、もはやただの戦国の小国ではなかった。それは、一つの異質な、そして圧倒的な輝きを放つ奇跡の王国へと、その姿を変えつつあった。
その異常なまでの国力の増強と、若き当主・織田信長の人間離れした武勇の噂は、風に乗って瞬く間に隣国へと伝播していった。そして、その風の匂いを、誰よりも鋭敏に、そして誰よりも深く嗅ぎ取った男がいた。
美濃国、稲葉山城。
その難攻不落と謳われた山城の天守閣の、最も奥深く。一人の老獪な戦国大名が、その剃り上げた頭を月光に晒しながら、手元の密書に目を通していた。
彼の名は、斎藤道三。
油売りから身を起こし、ついには一国一城の主へと成り上がった下剋上の体現者。その飽くなき野心と、目的のためには手段を選ばぬ冷徹さから、人々は畏怖と侮蔑を込めて彼をこう呼んだ。
『美濃の蝮』と。
「…………面白い」
道三は、その薄い唇の端に、蛇のような冷たい笑みを浮かべて呟いた。
密書に記されていたのは、彼の腹心である忍びの者が、命懸けで尾張から持ち帰った、信じがたい情報の数々だった。
『――尾張の米、神の如し。その一粒は、黄金の一粒に値す』
『――織田の兵、死を恐れず。致命傷を負いし者も、数日のうちに全快し、戦場に復帰すとの噂あり』
『――そして、うつけと侮られし織田信長。その武勇、人の域にあらず。御前試合にて、日ノ本中の猛者どもを、赤子の手をひねるが如くあしらう。その身には、矢も鉄砲も通じぬとの風聞。もはや人にあらず、第六天魔王の化身なりと』
「…………くくく」
道三は、喉の奥で笑った。
「……神の米、不死身の兵、そして天魔王か。……面白い。……実に面白い手品を始めたではないか、織田の若造めが」
彼は、神仏など信じていなかった。彼が信じるのは、ただ一つ。人の欲望と、そしてその欲望を支配するための「力」だけだった。
尾張で起きていることは、神の奇跡などではない。
それは、何者かが仕掛けた巧妙な、そして恐るべき「謀略」だ。そして、その謀略の裏には、必ずや計り知れないほどの「利」が眠っているはずだ。
(……あの信秀のうつけ息子が、これほどの策を弄するとは思えん。……その後ろに、誰かいる。……とてつもない智謀を持つ何者かがな)
道三の、その蝮の如き猜疑心と洞察力が、警鐘を鳴らしていた。
このまま織田家を放置しておけば、いずれその牙は、必ずやこの美濃国へと向けられるだろう。
ならば、どうする。
戦を仕掛けるか?
いや、相手の手の内が分からぬまま戦を仕掛けるは、愚者のすることよ。
ならば。
「………………」
道三は、立ち上がった。そして、月の光が差し込む窓辺に立ち、遥か南の尾張の空を睨みつけた。
彼の頭脳は、既に一つの、最も確実で、そして最も悪辣な答えを導き出していた。
「…………虎の穴に入らずんば虎児を得ず、か。……よかろう。……ならば、この儂の最も美しく、そして最も鋭い牙を、その虎の寝床へと送り込んでやろうではないか」
彼は、傍らに控えていた小姓に、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で命じた。
「…………帰蝶を呼べ」
◇
斎藤帰蝶。後の、濃姫。
彼女は、父である道三の最高傑作であった。
その美貌は、京の都に咲くどの花よりも気高く、その教養は、いかなる公家の姫君にも劣らなかった。だが、彼女が父から受け継いだ最も恐るべき才能は、その美しい貌の裏側に隠された、氷のように冷徹な知性と、そして男であれば天下さえも狙えたであろう、底なしの野心だった。
そして、彼女にはもう一つ、父である道三さえも知らぬ秘密の力があった。
彼女は、時折「見る」のだ。
人の言葉の裏側にある、本当の感情の色を。
そして、これから起きる未来の、断片的な光景を。
それは、彼女自身にも制御できぬ、まるで気ままぐれな神が時折見せる幻灯のような、曖昧で、そして常に不吉な予感に満ちた力だった。
彼女は、その力を『魂の囁き』と呼び、誰にも語ることなく、ただ自らの内に、深く、深く封印していた。
父の居室へと呼ばれた帰蝶は、その完璧なまでの礼儀作法で、深々と頭を下げた。
「……お呼びにございますか、父上」
「うむ」
道三は、その愛娘の顔を値踏みするように見つめた。そして、単刀直入にその非情な命令を下した。
「…………帰蝶よ。……そなたに、嫁入り先が決まった」
「………………」
帰蝶の、その美しい顔には、何の感情も浮かばなかった。
それは、この戦国の世に生きる姫として、当然の宿命だった。
「……相手は、尾張の織田信長じゃ」
「…………尾張の……。……あの、『大うつけ』と噂の……」
「そうだ」
道三は、懐から一つの美しい装飾が施された短刀を取り出した。そして、それを帰蝶の前に静かに置いた。
「……よいか、帰蝶。……これは、ただの政略結婚ではない。……これは、戦じゃ。……そなたには、我が斎藤家の『忍び』として、織田家へと潜り込んでもらう」
「……彼の地で、そなたが見聞きしたことの全てを、この父に報告せよ。……織田家が、いかにしてあの神の如き米を生み出しているのか。……信長という男が、いかにしてあの魔王の如き力を得たのか。……その秘密の全てを、暴き出すのじゃ」
そして道三は、言った。
その声は、蛇のように冷たかった。
「…………もし、あの男が噂通りのただのうつけであったならば。……その時は、この短刀で、そなたの手でその寝首を掻け」
「………………」
「…………だが。……もし、あの男が、この儂の牙を受け止めるに足る真の器であったならば……」
道三は、そこで一度言葉を切った。
そして、その瞳の奥に、初めて純粋な、そしてどこか楽しげな光を宿して言った。
「…………その時は、そなたが信じるままに、その男に仕えるが良い。……この斎藤道三、娘の見る目を信じておるぞ」
そのあまりにも過酷な、そしてどこまでも父らしい矛盾に満ちた言葉。
帰蝶は、静かにその短刀を手に取った。
彼女が、その冷たい鋼の感触を確かめた、まさにその瞬間、彼女の脳裏を、一つの鮮烈なビジョンが焼き尽くした。
炎。
全てを焼き尽くす、紅蓮の炎。
燃え盛る、巨大な寺。
そして、その炎の中心で、一人静かに自刃する一人の男の背中。
その男の顔は、見えない。
だが、その背中にまとった黄金色の羽織だけが、やけに鮮明に、彼女の記憶に焼き付いた。
「…………っ!」
彼女は、思わず息を飲んだ。
(……今の光景は……? ……あれは、一体誰……?)
その不吉な、そしてどこまでも抗いがたい運命の予感。
帰蝶は、その震える体を必死で抑えながら、父に向かって、深く、深く頭を下げた。
その声は、もはやただの姫のものではなかった。
それは、自らの運命を受け入れた、一人の戦士のそれだった。
「………………御意に」
◇
数ヶ月後、尾張と美濃の国境に位置する聖徳寺。
その本堂は、二つの国の、そして二人の傑物の剥き出しの意志がぶつかり合う、静かな戦場と化していた。
斎藤道三は、その上座で腕を組み、その蝮の如き目で、これから現れるであろう自らの獲物を値踏みするように待っていた。
彼の背後には、美濃の屈強な武者たちが、寸分の隙もなく控えている。
やがて、寺の門の外から、一つの行列が近づいてくるのが見えた。
道三の口元に、嘲るような笑みが浮かんだ。
(……来たか、うつけめが)
彼の忍びからの報告では、信長は供もほとんど連れず、いつものような奇抜な格好で、のらりくらりとこちらへ向かっているとのことだった。
だが、その行列の全貌が彼の目に映った瞬間、道三の、その完璧なまでの自信に満ちた顔から、笑みが消えた。
行列の先頭にいたのは、確かに信長だった。
だが、その姿は、噂とは似ても似つかぬものだった。
彼は、月代を美しく剃り上げ、その髪を茶筅髷にきちんと結い上げている。その身にまとっているのは、うつけの奇抜な着物ではない。黒を基調としたシンプルだが、どこまでも気品のある小袖と袴。そして、その肩には、あの噂に名高い『不死鳥の羽衣』が、まるで後光のように、淡い黄金色の輝きを放っていた。
そして、何よりも道三を戦慄させたのは、その信長の後ろに続く兵たちの姿だった。
その数、千。
その一人一人が、最新鋭の、そして美濃のそれとは明らかに質の違う長槍を携え、一糸乱れぬ完璧な陣形で、静かに、しかし絶対的な圧力を放ちながら、この寺を包囲していく。
それは、もはやただの会見ではなかった。
一つの、完璧に統制された軍事パレードだった。
「………………」
道三は、言葉を失っていた。
彼は、悟った。
自分は、試す側ではなく、試される側なのだと。
本堂に、信長がその堂々とした足取りで入ってきた。
彼は、道三の前に立つと、深々と頭を下げるでもなく、ただその真っ直ぐな瞳で、蝮の目を射抜くように見つめた。
そして彼は、言った。
その声は、若々しく、しかしこの場の全ての空気を支配する、絶対的な王者の響きを持っていた。
「…………舅殿。……娘御を、もらいに参った」
そのあまりにも不遜な、そしてどこまでも単刀直入な第一声。
道三は、しばらく呆然としていたが、やがてその口元に、深い、深い、そしてどこまでも楽しげな笑みを浮かべた。
(…………面白い……! ……面白いではないか、小僧……!)
そこから始まったのは、歴史に残る二人の傑物の、腹の探り合いだった。
道三は、その老獪な話術で、信長の器量を、その野望の底を探ろうとする。
だが信長は、その全ての問いを、神の如き視点から与えられた知識と、そして自らの揺るぎない自信で、完璧に、そして軽々といなしていく。
そして、会見が終わりに近づいたその時、道三は最後の、そして最も意地の悪い罠を仕掛けた。
彼は、傍らの小姓に合図し、酒を用意させた。
「……まあ、よい。……堅苦しい話は、ここまでとしよう。……婿殿よ。……この道三と、一献酌み交わしてはくれぬか」
それは、毒殺の最も古典的な手口だった。
だが、信長は、その誘いをにやりと笑って受け入れた。
彼は、小姓が差し出した杯を、何の躊躇もなく受け取ると、その酒を一気に呷った。
そして彼は、言った。
「………………うむ。……美味い酒じゃ」
そして彼は、立ち上がった。
「…………では、舅殿。……これにて、失礼つかまつる。……娘御は、確かにこの信長が預かった」
彼は、そう言うと、その背中を道三に見せ、悠然と本堂を去っていった。
そのあまりにも大胆不敵な、そしてどこまでもこちらの計算の斜め上を行く行動。
道三は、ただ呆然と、その背中を見送ることしかできなかった。
「………………」
やがて、信長の姿が完全に見えなくなった後、道三は、傍らに控えていた腹心の忍びに、震える声で尋ねた。
「…………おい。……あの酒には、確かに象をも殺すという南蛮渡来の猛毒を仕込んでおいたはずじゃ。……なぜ、あの小僧は平然としておる……」
忍びは、青い顔で答えた。
「………………はっ。……分かりませぬ。……ですが、一つだけ確かなことが……」
「……何じゃ」
「………………あの御方は、もはや我らと同じ人の理の中には、おわしませぬ……! ……あれは、人にあらず! ……まさしく、第六天魔王の化身にございます……!」
その言葉を聞いて、道三は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
そして彼は、声を上げて笑った。
それは、敗北を認めた男の、乾いた笑い声ではなかった。
それは、自らの矮小さを、そして自らがこれから仕えることになるであろう新しい時代の覇者の、その底知れない器の大きさを、心の底から祝福する歓喜の笑い声だった。
彼は、寺の外で待機していた家臣たちに向かって、高らかに宣言した。
「――聞け! ……我が息子らは、いずれあの婿殿の馬の口を取ることになるであろうぞ!」
歴史の歯車は、今、確実に、そして神の気まぐれな戯言によって、その回転を狂おしいほどに早め始めていた。
◇
その日の夜、那古野城。
新たに信長のために増築された豪奢な、しかしどこか殺風景な新居。
そこに、織田信長と斎藤帰蝶は、初めて二人きりで向き合っていた。
部屋には、沈黙だけが満ちていた。
帰蝶は、その懐に、父から渡されたあの短刀を固く握りしめていた。
彼女のその予知の力が、警鐘を鳴らしていた。
目の前の男は、危険だと。
だが、同時に、その魂がこれまでに感じたことのないほど強く、そして深く、この男に惹きつけられているのを、彼女は感じていた。
信長は、ただ黙って、その美しい、しかしどこまでも油断ならない妻の顔を見つめていた。
そして、彼が初めてその口を開いた、まさにその瞬間、帰蝶の、その瞳がカッと見開かれた。
彼女の脳裏を、再び、あの鮮烈なビジョンが焼き尽くしていた。
炎。
燃え盛る寺。
そして、黄金の羽織をまとった男の背中。
そして今度は、その男のすぐ隣に、一匹の、翠色の瞳を持つ黒猫の姿が、確かに見えた。
(………………賢者殿……?)
彼女の、その声にならない声。
それを、信長は聞き逃さなかった。
彼の、その常に冷徹だったはずの顔に、初めて純粋な驚愕の色が浮かんだ。
「………………なぜ」
彼は、言った。
「………………なぜ、お主がその名を知っておる……?」
そのあまりにもありえない、そしてどこまでも運命的な問いかけ。
帰蝶は、もはや言葉もなかった。
彼女は、ただ、目の前のこの男が、自分と同じ、あるいはそれ以上の「秘密」を抱えていることを、その魂の全てで理解した。
二人の、あまりにも孤独で、そしてあまりにも規格外な魂が、初めて本当の意味で出会ったその瞬間。
それは、この戦国の世を、そしてこの国の未来を永遠に変えてしまう、最も危険で、そして最も美しい契約の始まりを告げる、静かな、静かな鐘の音だった。
最後までお付き合いいただき、感謝します。
異世界で手に入れた金貨の山よりも、政府が必死でかき集めた国家予算よりも、読者の皆様からの「ブックマーク」と「評価(☆☆☆☆☆)」こそが、私の執筆モチベーションを維持する最高純度の魔石(エネルギー源)です。
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