第121話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、人間は自らの手で神話の続きを紡ぎ、そして新たな怪物を育て上げていた。
尾張国、那古野城。
その新築されたばかりの、しかしどこか殺風景な離れの一室。そこは、美濃から嫁いできた姫君、斎藤帰蝶のために用意された、彼女だけの城であり、そして鳥籠だった。
部屋を満たしていたのは、祝言の夜にふさわしい甘い香や、華やかな音楽ではない。
ただ、二つの巨大な、そしてあまりにも異質な魂が放つ、張り詰めた、そしてどこまでも静かな沈黙だけが、そこに満ちていた。
織田信長は、その黒い小袖姿のまま、部屋の中央に胡座をかいていた。彼の前には簡素な膳が置かれているが、そこに並べられた祝の肴には、一切手が付けられていない。
彼は、ただ黙って目の前の女を見つめていた。
自らの妻となった女を。
斎藤帰蝶。
その美貌は、噂に違わぬものだった。月光を浴びて艶やかに輝く黒髪、白磁のように滑らかな肌、そしてその紅を差した小さな唇。だが、信長の目を真に惹きつけていたのは、そんな表層的な美しさではなかった。
彼女の瞳。
深い、深い湖の底を思わせる静かな、しかしこの世の全てを見透かすかのような、その瞳の色。
数刻前、彼女が初めてこの部屋に入り、そして初めてその瞳を自分に向けた、あの瞬間。
信長は、確かに感じ取ったのだ。
この女は、違うと。
父・道三が送り込んできた、ただの美しいだけの駒ではない。彼女は、自分と同じ、あるいはそれ以上の「何か」を、その魂の内に秘めている。
「………………なぜ」
静寂を破ったのは、信長の低い、そしてどこまでも鋭い声だった。
「………………なぜ、お主がその名を、知っておる……?」
賢者・猫。
その名を、彼女は確かに口にした。いや、声に出したのではない。彼女の魂がそう叫んだのを、神の力を宿した信長の魂が、確かに聞き取ったのだ。
そのあまりにも根源的な、そしてどこまでも逃れようのない問い。
帰蝶は、その完璧なまでの姫君の仮面を、少しも崩さなかった。
だが、その懐で固く握りしめられた短刀の柄が、彼女の内心の動揺を物語っていた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、その湖のような瞳で、自らの夫となった魔王を、真っ直ぐに見つめ返した。
彼女は、嘘をつかなかった。
この男の前で、下手な嘘や誤魔化しが何の意味もなさないことを、彼女の本能が理解していたからだ。
「………………視えるのです」
彼女の声は、か細かった。だが、その響きには諦観と、そして揺るぎない真実の重みがあった。
「…………物心ついた頃から、時折。……人の言葉の裏側にある魂の色が。……そして、これから起きるであろう未来の景色が、朧げながらに」
「………………」
「……父上は、それを『女子の勘働き』と笑いました。……ですが、私には分かります。……これは、そのような生易しいものではない。……一つの、呪いなのだと」
彼女は、自らの胸にそっと手を当てた。
「……貴方様がこの部屋に入ってこられた、あの瞬間。……私は、視てしまいました。……貴方様の、その魂の奥深く。……燃え盛る炎の中の、巨大な寺。……黄金の羽織をまとった、貴方様の背中。……そして、その隣で全てを嘲笑うかのように、静かに佇む一匹の黒い猫の姿を」
そのあまりにも具体的で、そしてどこまでも冒涜的な、神の如き幻視の告白。
信長の、その常に冷徹だったはずの顔に、初めて純粋な驚愕の色が浮かんだ。
彼は、絶句した。
そして、次の瞬間、その驚愕は、一つの、これまで彼が一度として感じたことのない、奇妙な、そしてどこか心地よい感情へと変わっていった。
それは、「安堵」だった。
そうだ。
初めてなのだ。
自らが背負う、このあまりにも巨大すぎる秘密と、そして孤独を、ほんの少しでも共有できるかもしれない存在と出会ったのは。
彼は、しばらくの間、ただ黙って目の前の少女の、そのあまりにも美しい、そしてあまりにも悲しい魂の形を見つめていた。
やがて、その口元に、ふっと乾いた笑みが浮かんだ。
それは、魔王の笑みではなかった。
ただ、同じ痛みを知る者と出会えた、一人の孤独な人間のそれだった。
「…………くくく。……面白い。……面白いではないか、帰蝶よ」
彼は、言った。
「……そなたもか。……そなたも、この退屈な人の理から、少しばかりはみ出してしまったクチ、というわけじゃな」
そのあまりにも意外な、そしてどこか優しい肯定の言葉。
帰蝶の、その鉄壁だったはずの仮面が、わずかに、しかし確実に揺らいだ。
彼女は、目の前のこの男が、自分の全てを受け入れた上で、なお面白がっているという事実に、これまでにないほどの戸惑いと、そしてそれ以上の、抗いがたいほどの魅力を感じていた。
「……ならば、見せてやろう」
信長は、立ち上がった。
「……そなたが視たという、その化け猫の正体をな」
彼は、自らの背中にまとった『不死鳥の羽衣』を、静かに脱いだ。
そして、それを無造作に畳の上へと放り投げた。
「……抜け」
彼は、帰蝶にその顎をしゃくって見せた。
「……そなたが、父から預かってきたのであろう、その短刀でな。……この羽衣を、存分に突いてみるが良い」
そのあまりにも唐突な、そしてどこまでもこちらの心を見透かしたかのような命令。
帰蝶は、息を飲んだ。
だが、彼女はもはや躊躇しなかった。
彼女は、その懐から短刀を抜き放つと、その鋭い切っ先を、畳の上に広げられた黄金の羽衣へと、その体重の全てを乗せて突き立てた。
だが。
キィン、という甲高い金属音。
短刀は、その柔らかな布に触れた瞬間、まるで分厚い鉄板にでも阻まれたかのように、その勢いを完全に殺され、弾き返された。
「…………っ!?」
帰蝶は、その痺れる腕の痛みに、絶句した。
羽衣には、傷一つついていない。
「…………どうじゃ」
信長は、にやりと笑った。
「……これが、あの化け猫がワシに与えた、神の玩具の一つよ。……そして、もう一つ」
彼は、その場にあった飾り物の鉄扇を手に取った。
そして、それをまるで紙でも握り潰すかのように、ぐにゃり、といとも容易く捻じ曲げてみせた。
「………………」
帰蝶は、もはや言葉もなかった。
彼女は、ようやく理解したのだ。
自分が嫁いできた相手が、ただのうつけでもなければ、ただの覇王でもない、人の理を完全に超越した、本物の「怪物」なのだということを。
「…………面白いだろう?」
信長は、その歪んだ鉄扇を、まるで子供が玩具でも見せびらかすかのように、彼女の前に転がした。
「……あの化け猫はな、ワシに言ったのだ。『お主の見せる見世物が面白ければ、褒美としていくらでも面白い玩具をくれてやる』と。……そして、ワシは、そなたという最も面白く、そして最も得体の知れぬ玩具を手に入れた、というわけじゃ」
彼は、帰蝶の前に再び胡座をかいた。
その瞳には、もはや警戒の色はない。
そこにあるのは、唯一無二の共犯者を見つけた、純粋な、そしてどこまでも楽しげな光だけだった。
「…………さて、帰蝶よ」
彼は、言った。
「……そなたの、その『視える』力、この信長に貸してみぬか? ……そなたが、ワシの『目』となり、未来を見せてくれるのであれば。……ワシは、そなたに、この日ノ本で最も面白い物語を見せてやることを、約束しようぞ」
そのあまりにも傲慢で、そしてどこまでも甘美な悪魔の契約。
帰蝶は、しばらくの間、ただ黙って目の前の魔王の、その底知れない瞳を見つめていた。
彼女の脳裏を、再びあの炎のビジョンがよぎる。
だが、今度は、そのビジョンに恐怖はなかった。
そこにあったのは、一つの、抗いがたいほどの「好奇心」だった。
この男と共にいれば、自分を縛り付けてきたこの忌まわしい呪いの力の、本当の意味を知ることができるかもしれない。
そして、あの炎の夜の、その結末を、自らの手で変えることさえもできるのかもしれない。
彼女は、ゆっくりとその懐に短刀を収めた。
そして彼女は、初めて、自らの夫となった男に向かって、心の底からの、そしてどこまでも美しく、そしてどこまでも妖しい笑みを浮かべた。
その笑みは、もはや姫君のものではなかった。
それは、魔王の隣に立つことを決意した、魔女のそれだった。
「…………よろしゅうございます」
彼女は、言った。
「…………その物語、この帰蝶にも、一枚噛ませていただきましょうぞ、殿」
こうして、歴史上最も危険で、そして最も美しい夫婦の、本当の物語は始まった。
彼らは、その夜、酒を酌み交わすでもなく、肌を重ねるでもなく、ただ一枚の碁盤を挟んで、夜が更けるのも忘れて語り合った。
信長は、そのあまりにも常識外れな野望を語り、帰蝶は、その脳裏に浮かぶ断片的な未来のビジョンを語る。
それは、二つの孤独な魂が、初めて互いの存在を認め合い、そして一つの巨大な野望の下にその魂を重ね合わせた、最初の、そして最も重要な儀式だった。
そして、その奇妙で、そしてどこまでも愛おしい神々の戯れを、まだ誰も知らなかった。
ただ、部屋の片隅で静かに揺らめく燭台の炎だけが、その歴史的な一夜の、唯一の証人であった。




