第111話
神は退屈していた。
そして、退屈した神が次に求めるのは、常に新たな「遊び」である。
新田 創は、自らが創り上げた日本の山奥の完璧な理想郷で、その尽きることのない倦怠を紛わすための最高のビジネスプランを思いついていた。
『異世界造船技術フランチャイズ計画』。
それは、彼のぐうたらなスローライフを、さらに盤石なものにするための究極のソリューション。
彼の思考は、既に次なるターゲットとなる世界の選定へと移っていた。
彼の愛機『テッセラクト・ボイジャー』の膨大な時空データベースが、彼の脳内に、直接、候補となる世界線のリストを映し出す。
『――世界線コードAQ771。惑星名、アクアトリア。地表の91%が海洋に覆われた水の惑星。複数の島嶼国家が点在し、海上交易が主要産業であるが、その造船技術レベルは地球暦における12世紀以前のレベルに留まる。……ふむ、面白い』
創は、そのリストの中から、一つの、ひときわ小さく、しかしどこか気高い響きを持つ王国に、その指を止めた。
シレニア王国。
若き女王が治める小さな、そして常に外部の脅威に晒されているという、海上の小国。
(……よし。……ターゲットは、ここに決めた)
彼の口元に、いつもの悪戯っぽい、そしてどこまでも商人的な笑みが浮かんだ。
「……貧しくて、野心があって、そして何よりも藁にもすがりたいと思っている相手こそが、最高の顧客なのだからな」
◇
シレニア王国、王都ティレニア。
その王宮の最も格式高い玉座の間は、静かな、しかし重苦しい絶望の空気に満ちていた。
玉座に座すのは、この国の若き女王、マリーナ・ル・シレニア。
年は、まだ二十歳を過ぎたばかり。海の深淵を思わせる深い青の瞳と、月光を思わせる銀色の長い髪を持つ、絵画のように美しい女性。だが、その若すぎる肩には、この国の存亡そのものという、あまりにも重すぎる重圧がのしかかっていた。
彼女の目の前には、この国の大臣たちが、青い顔でひれ伏している。
「……陛下……! ……もはや、限界にございます……!」
老いた宰相が、震える声で言った。
「……海賊『赤髭』の艦隊が、またしても我が国の交易船を……! ……今月の被害は、既に国家予算の一割に達しております! ……このままでは、冬を越すための食料の備蓄さえも……!」
「……分かっています」
マリーナの声は、鈴の音のように可憐だったが、その響きには、鋼のような冷たい覚悟が宿っていた。
「……ですが、我が国の海軍では、彼らの快速船に追いつくことさえままならない。……近隣の王国に援軍を求めても、彼らは我々の窮状を見て見ぬふりをするだけ。……我々には、もはや打つ手がないというのですか……」
そのあまりにも絶望的な言葉。
玉座の間が、重い沈黙に包まれた、まさにその時だった。
事件は、起きた。
何の音も、何の気配もなかった。
ただ、気づけばそこにいた。
玉座の間の、磨き上げられた大理石の床の、そのど真ん中に。
ぽつんと一つの銀色の箱が、まるで最初からずっとそこにいたかのように、自然に、そしてあまりにも唐突に出現していたのだ。
一辺が二メートルほどの、継ぎ目のない完璧な立方体。
その表面は鏡のように周囲の光景を映し出しているが、その素材は、金属でも、石でも、木でもない。
未知の、そしてどこまでも異質な物質。
「…………………………………………」
玉座の間にいた全ての人間が、呼吸を忘れ、思考を停止させ、ただ目の前のありえない光景に凍り付いていた。
「なっ……!?」
最初に我に返ったのは、女王の傍らに控えていた近衛騎士団長だった。
「な、何者だ! 曲者かっ!」
彼の絶叫を合図に、玉座の間の扉が勢いよく開け放たれ、重装備の兵士たちが雪崩れ込んできた。彼らは、瞬時に女王を守るための盾の壁を築くと、その震える槍の穂先を、一斉に銀色の箱へと向けた。
そのあまりにも張り詰めた空気の中。銀色の箱の一辺が、すう、と音もなく内側へとスライドし、入り口が開かれた。
そして、その闇の中から、一人の男が、まるで近所のコンビニにでも行くかのような気軽さで、ひょいと姿を現した。
男は、三十代半ば。その服装は、この世界のいかなる国のものとも違う、奇妙で、そしてどこまでも簡素なものだった。Tシャツと呼ばれているであろう、飾りのない綿のシャツ。チノパンと呼ばれているであろう、丈夫そうなズボン。
そのあまりにも場違いな、そして無防備な男の姿に、兵士たちの間に微かな動揺が走る。
だが、女王マリーナだけが、その男がただの人間ではないことを、本能的に理解していた。
その佇まい、その視線。
それは、この世界のいかなる人間とも違う。
彼は、この玉座の間の張り詰めた空気を、まるで他人事のように、そしてどこか面倒くさそうに眺めていた。その瞳の奥には、神の如き絶対的な力を持つ者だけが宿す、静かな、そして底知れないほどの退屈の色が浮かんでいた。
「………………」
男は、自分に向けられた無数の槍の穂先と殺気立つ兵士たちを一瞥すると、心の底から面倒くさそうだというように、深い、深い溜め息をついた。
「…………やれやれ。……やっぱり、こうなるのか」
そのあまりにも聞き慣れない、そしてどこまでも場違いな言葉の響き。
騎士団長が、怒りに声を震わせた。
「貴様、何者だ! どこから入り込んだ! 陛下のおわすこの神聖なる場を穢した罪、その命をもって償わせてくれるわ!」
「ああ、はいはい」
男は、その殺気を、まるで春のそよ風でも受け流すかのように、気怠そうに手を振った。
「……私は、商人ですよ。……ちょっと、この国のトップの方に、面白いビジネスの話があって来ただけなんですけどね。……とりあえず、その物騒な槍を向けるの、止めてもらえませんか。……正直、話がしにくいんで」
そのあまりにも不遜な、しかしどこか飄々とした物言い。
「黙れ、戯言を!」
騎士団長が、一歩前に踏み出した。
「……こいつを、捕らえよ!」
その号令一下、数名の兵士たちが、槍を構えて男へと殺到した。
だが、男は全く動じなかった。
彼は、ただやれやれといった風に肩をすくめると、まるで埃でも払うかのように、その右手をすっと横に薙ぐように動かした。
次の瞬間。
信じられない光景が、広がった。
男へと殺到していた屈強な兵士たちが、まるで糸の切れた操り人形のように、一斉にその場に崩れ落ちたのだ。
ガシャンガシャン、という鋼鉄の鎧が床に叩きつけられる重々しい音が、静まり返った玉座の間に響き渡る。
彼らは、死んではいない。
ただ、あまりにも深く、そしてあまりにも穏やかな眠りに、落ちているだけだった。
「…………ひっ……!?」
そのあまりにも非現実的な、魔法の如き御業を目の当たりにして。残された兵士たちの中から、悲鳴が上がった。
女王マリーナもまた、その美しい顔から血の気を失い、わなわなと震えていた。
その恐怖におののく彼女に向かって、男は、まるで何事もなかったかのように話を続けた。
その口元には、微かな、しかし確かな苦笑が浮かんでいた。
「――さて。……これで、少しは落ち着いてお話できますかね、女王陛下」
そのあまりにも穏やかで、そしてどこまでも残酷な一言。
マリーナは、もはや、目の前のこの男が、自分たちの矮小な人間の理を超えた、神か、あるいは悪魔の類であることを、認めざるを得なかった。
「………………」
彼女は、ゴクリと喉を鳴らした。
そして、この国の女王としての最後の矜持を振り絞り、その震える声で問い返した。
「………………望みは、何です……? ……この国の、富ですの? ……それとも、私の命ですの……?」
その悲壮な覚悟の問いに対し。
男は、心の底から面倒くさそうだというように、ポリポリと頭を掻いた。
「……いや、だから、どっちもいりませんって。……言ったでしょう? 私は、商人です。……今回、私が貴女にお持ちしたのは、船でして……」
彼はそう言うと、その小さな体には全く不釣り合いなほどに壮大なビジネスの提案を、まるで近所のスーパーの特売品でも勧めるかのように、淡々と語り始めた。
◇
数分後。
女王マリーナは、その神の如き商人に導かれるまま、王都ティレニアが誇る、しかしどこまでも貧弱な港へと、その足を運んでいた。
彼女の心の中は、未だに混乱の渦の中にあった。
船を、売る?
この神の如き力を持つ男が?
一体、どのような船を?
彼女の視線の先、港には、彼女の国のけちな海軍の全てである、数隻の貧弱なキャラック船が、頼りなげに浮かんでいた。
「……さて、女王陛下」
男――ハジメと名乗った――は、言った。
「……どの程度の船か、まず見ないことには話にならんな、と仰せでしたね。……では、お見せしましょう。……俺の、『商品』を」
彼はそう言うと、港の最も広い、何もない海面に向かって、軽く手を振った。
「…………じゃあ、出しますね」
そのあまりにも軽い、気の抜けた一言と共に。
奇跡は、起きた。
何もないはずの海面が、突如として盛り上がり始めたのだ。
そして、その水面の下から、まるで巨大な海竜が浮上してくるかのように、ゆっくりと、しかし圧倒的な質量を持って、一つの巨大な船体が姿を現した。
それは、船だった。
だが、それは彼女が知るいかなる船とも違う。
全長三十メートルはあろうかという、優美な曲線を描く美しい木造の船体。高くそびえ立つ、三本のマスト。そして、その甲板の上に整然と並べられた、十数門の黒々とした大砲。
それは、この世界のいかなる国もまだ所有したことのない、未来の、そして絶対的な海の支配者そのものだった。
「…………おお……」
港にいた全ての人間が、言葉を失っていた。
漁師も、船大工も、そして女王マリーナ自身も。
「…………なんと、大きい船なのだ……!」
マリーナの口から、かすれた声が漏れた。
「…………我が国の船が、小舟同然じゃないか……!」
彼女の国のけちな海軍の旗艦が、その神の船の隣で、まるで子供の玩具のように哀れに見えた。
「……ええ、まあ。……これくらいあれば、あの赤髭の海賊団とやらも、海の藻屑にできると思いますよ」
ハジメは、こともなげに言った。
そして、彼は女王に向き直った。
その手には、いつの間にか、一枚の完璧な設計図が描かれた羊皮紙が握られていた。
「…………女王様。……はい、これが図面です」
彼は、その神の設計図を、まるでチラシでも手渡すかのように、あっけにとられる女王の手に渡した。
そして、彼は言った。
その声は、もはやただの商人のものではなかった。
それは、一つの世界の運命をその掌の上で作り変えようとする、究極のプロジェクトマネージャーのプレゼンテーションだった。
「――貴方たちは、この船を複製して、世界一の造船国家とするのです!!」
その一言。
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも抗いがたいビジネスのビジョン。
女王マリーナの脳天を、雷鳴のような衝撃が突き抜けた。
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは、絶望の涙ではなかった。
それは、暗闇の淵で初めて一筋の、しかし絶対的な希望の光を見出した人間の、魂からの歓喜の涙だった。
「…………なんと……!」
彼女は、その場にひざまずき、震える声で言った。
「…………なんと、ありがたきご提案……!」
「……さて。……では、契約の話を続けましょうか、女王陛下」
ハジメは、商人の顔に戻っていた。
「……報酬は、金貨で下さい。……とりあえず、手付金として、この国の蔵にあるだけの金貨を、全ていただきましょうか。……そして」
彼は、とどめを刺した。
「…………今後の、この国の国家収益の5%を、マージンとして私に支払い続けていただきたい」
そのあまりにも悪魔的で、そしてどこまでも強欲な契約条件。
だが、今のマリーナにとって、それはもはや悪魔の契約ではなかった。
それは、神が与えてくださった救済の契約だった。
「…………わ、分かりました……!」
彼女は、即答した。
「…………約束いたします……!」
「どうも。……話が早くて、助かります」
ハジメは、満足げに頷いた。
そして、彼は、自分の背後にいつの間にか再び出現していた、あの銀色の箱へと戻っていった。
「…………じゃあ、船を色々試してください。……俺は、また代金を回収しに、そのうち来ますんでね。……じゃあ」
彼はそう言い残すと、銀色の箱と共に、来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは。
神の不在の静寂と、港に浮かぶ一隻のあまりにも巨大すぎる未来の船と、そしてその船の完璧な設計図を、震える手で握りしめる一人の若き女王の姿だけだった。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、自らの民と、そして船大工たちに向かって、その声にこの国の全ての未来を賭けた絶対的な決意を込めて、高らかに叫んだ。
「…………聞け、我が愛するシレニアの民よ! ……我々は、今、神の天啓を授かった! ……これより、我々は船を創る! ……この世界のいかなる国も見たことのない、最強の船を! ……そして、我々は、この海の真の覇者となるのだ!」
その若き女王の力強い宣言に、港にいた全ての民衆から、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
彼らの心には、もはや海賊への恐怖も、貧しさへの絶望もなかった。
そこにあったのは、神に選ばれたという圧倒的な高揚感と、そして輝かしい未来への、揺るぎない希望だけだった。
一つの世界の、新たな大航海時代の幕開けを告げる産声が、今、高らかに青い空へと響き渡った。




