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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第112話

 神は、不在だった。

 そして神の不在の間に、子供たちはその手にしたあまりにも強力すぎる玩具の、新たな、そして最も面白い遊び方を、発見してしまった。

 世界は、熱病に浮かされていた。

 宇宙船『やまと』の存在が公表されてからの一週間、人類の集合的無意識は、有史以来初めて、地球という名の重すぎる重力のくびきから解放された。夜空を見上げる人々の瞳には、もはやただの星々ではない、いつか自らが到達すべき具体的な「目的地」が映っていた。

 ニュースは、連日宇宙の話題で持ちきりだった。JAXAとNASAには、世界中から問い合わせの電話が殺到し、その回線は完全にパンクした。子供たちの間で最も人気のある職業は、野球選手でもユーチューバーでもなく、圧倒的な差をつけて「宇宙飛行士」となった。

 世界は、夢を見ていた。

 壮大で、美しく、そしてどこまでも非現実的な宇宙への夢を。


 だが、その夢見る子供たちの遥か頭上、官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの司令室では、冷徹な大人たちが、その夢をいかにして「現実」へと、そして自らの「国益」へと変換するかという、熾烈な、しかしどこまでも静かな戦争を繰り広げていた。


「――結論から言おう」

 円卓を囲む日米の最高首脳たちを前に、日本の宰善茂総理大臣が、その重い口を開いた。彼の背後の巨大スクリーンには、今この瞬間も、『やまと』が停泊する横須賀の極秘ドックのライブ映像が、静かに映し出されている。

「……我々は、月へ行く。……それも、ただ行って帰ってくるだけではない。……我々は、そこに『街』を創るのだ」

 そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも正気を疑う宣言。

 ビデオ会議のモニターの向こう側で、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンが、その鷲のような鋭い瞳を細めた。

『……街だと? ……総理、それは本気かね。……我が国のアルテミス計画ですら、月面に恒久的な拠点を築くには、少なくとも十年はかかると試算されているのだぞ』

 そのあまりにも真っ当な科学的知見に基づいた指摘。

 だが、宰善総理は、その老獪な顔に絶対的な自信の笑みを浮かべて答えた。

「…………一ヶ月でだ」

「………………なっ!?」

 今度こそ、モニターの向こうのアメリカの閣僚たちが絶句した。

 一ヶ月。

 それは、もはや計画ですらない。

 狂人の戯言だ。

 だが、その狂人の戯言を、この場の誰もが「可能である」と信じてしまっている。

 なぜなら、彼らは知っているからだ。

 自分たちが、神のサイコロを手にしてしまったということを。


「……トンプソン大統領。……あなたの国の科学者たちが十年かかると試算したその計画は、おそらく、地球と月との間の絶望的なまでの『距離』を前提としておられるのだろう」

 総理は、続けた。

「……だが、もしその距離が『ない』としたら? ……我々にとって月は、もはや隣町に買い物に行くのと、何ら変わらないのだとしたら?」

 彼は、橘紗英に目配せをした。

 橘は、静かに頷くと、手元の端末を操作した。

 モニターに、先日行われた『やまと』の月への処女航海のシミュレーションデータが表示される。

 出発から到着まで、15秒。

「…………何か問題があっても、月まで15秒で到着しますから」

 綾小路官房長官が、その蛇のような目で付け加えた。

「…………何でも出来ますよ」

 そのあまりにもシンプルで、そしてどこまでも絶対的な真実。

 ホワイトハウスのシチュエーションルームは、死んだように静まり返っていた。

 彼らは、ようやく理解したのだ。

 これは、もはや交渉ではない。

 これは、新たな時代のルールを、一方的に提示されているのだと。

 やがて、長い沈黙の後、トンプソン大統領が、深い深いため息と共に言った。

『………………分かった。……乗ろうじゃないか、その狂気の船に。……して、我々に何ができる?』

 その言葉を皮切りに、日米両政府による、人類史上最も壮大で、そして最も無謀な共同プロジェクトの、最終的な詰めの作業が始まった。


 そして、その一週間後、再び官邸の記者会見場に、宰善総理の姿があった。

 だが、その日の彼の隣には、もう一つの巨大な影があった。ホログラムによって、寸分の狂いもなく実寸大で再現された、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・トンプソンの姿だった。

 日米両首脳が、同じ演台に並んで立つ。

 そのあまりにも象徴的な光景に、会見場は歴史的な瞬間の到来を予感し、水を打ったように静まり返っていた。


「――親愛なる友よ」

 トンプソンが、その深く、そして力強い声で口火を切った。

「……そして、自由を愛する全世界の市民たちよ。……今日、我々は分断と対立の時代に終わりを告げ、人類が再び一つの大きな夢の下に団結するための、新たな一歩をここに記す」

 彼の言葉を引き継ぐように、宰善総理が、静かに、しかし確信に満ちた声で続けた。

「……本日、日米両政府は、ここに共同で、『月面恒久居住施設建設計画』、通称『プロジェクト・アルカディア』の始動を、高らかに宣言いたします!」

 月面基地。

 その言葉に、会見場がどよめいた。

 だが、本当の衝撃は、その後に来た。

「……そして、この歴史的な事業は、決して我々日米だけのものであってはなりません。……我々は、人類憲章に署名した全ての同盟国に対し、このプロジェクトへのオブザーバーとしての参加を、正式に要請いたします! ……この月面基地は、一つの国の、あるいは二つの国の独占物ではない。……それは、我々人類全体の叡智と希望の結晶となる、超多国籍の宇宙ステーションとなるのです!」


 そのあまりにも高潔で、そしてどこまでも巧みな外交的勝利宣言。

 だが、宰善総理はまだ終わらなかった。

 彼は、その顔に最高の、そしてどこまでも人懐っこい笑みを浮かべて、カメラの向こうの全世界の一般市民へと語りかけた。

「……そして、この偉大なる冒険は、決して政府や科学者だけの特別な物語であってはなりません。……これは、あなたたち一人一人の物語でもあるのです!」

 彼は、高らかに、そしてどこまでも楽しそうに宣言した。

「…………つきましては、本日この瞬間より! ……この『プロジェクト・アルカディア』の第一期月面居住者となる民間人枠の募集を、全世界に向けて開始いたします!」

「…………年齢、性別、国籍、職業、一切不問! ……必要なのは、ただ一つ! ……星々への尽きることのない夢と情熱だけ! ……さあ、全世界の若人よ! ……我こそはと思う者は、ぜひ応募してください! ……我々と共に、新たな歴史の扉を、その手で開こうではありませんか!」


 そのあまりにも劇的で、そしてどこまでも心を躍らせる世紀の公募宣言。

 それは、もはやただの政府発表ではなかった。

 一つの巨大な、そして抗いがたいほどの魅力を持つ、最高のエンターテインメントの始まりの合図だった。

 会見場は、爆発した。

 記者たちは、もはや質問をすることさえ忘れ、ただその場で立ち上がり、割れんばかりの拍手を送っていた。

 その熱狂は、電波に乗って、瞬く間に全世界へと伝播した。


 その日、世界中の学校の教室で、子供たちが目を輝かせながら、自らの将来の夢を作文に書き綴っていた。

『――ぼくのゆめは、げつめんきちのコックさんになることです』

 その日、世界中の工場の片隅で、名もなき技術者たちが、自らの持つ技術が、あるいは月の街を創る礎になるのかもしれないと、静かに胸を熱くしていた。

 その日、世界中のバーやカフェで、人々は肌の色や言語の違いを忘れ、ただ一つの共通の話題――「もし自分が月に行けたなら」という壮大な夢物語に、夜が更けるのも忘れて語り合っていた。

『――月面都市というSFの世界が、ついに現実になる時代が来たのか!』

 人々は、もはや神の不在を嘆いてはいなかった。

 彼らは、自らの手で、神さえも想像し得なかったであろう、新たな、そしてより面白い物語を創造し始めたことに、歓喜していた。

 その熱狂は、もはや誰にも止められない。

 人類は、再び一つの大きな夢の下に、団結したのだ。


 そのあまりにも美しく、そしてどこまでも感動的な光景。

 それを、日本の山奥の究極の理想郷で、全ての元凶である男が、縁側で寝転がりながら、スマートフォンの小さな画面で、実に面倒くさそうに眺めていた。

 ニュースアプリのトップには、『【歴史的快挙】日米共同月面都市計画始動! 世界中が歓喜の渦に!』という、あまりにも壮大な見出しが誇らしげに躍っていた。

 彼は、その見出しを、まるで遠い国のゴシップニュースでも見るかのように、ぼんやりと眺めた。

 そして、ただ一言、誰に聞かれることもなく呟いた。


「…………はぁ。……また、面倒なことになってるな、あいつら……」

 彼の心には、人類を新たなステージへと導いたという自覚も、責任も、そして感動も、一欠片もなかった。

 それは、まるで自分が貸してあげた高性能なパソコンで、友達が勝手に壮大なオンラインゲームのイベントを企画し、サーバーに無茶な負荷をかけ始めているのを、横目で見ているかのような、極めてドライな感想だった。

 彼は、その歴史的なニュースにすぐに興味を失うと、再び自らのスマートフォンで、まだクリアできていないソーシャルゲームの攻略サイトを開き始めた。

 人類の新たな大航海時代の幕明けを告げる壮大なファンファーレのすぐ隣で、神は、ただ静かに、そしてどこまでもぐうたらに、自らのスローライフを満喫していた。

 そのあまりにも巨大で、そしてあまりにも滑稽な真実を、まだこの世界の誰も、知る由もなかったのである。


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