第9話『ラストゲーム、そして涙の胴上げ』
202X年秋――
甲子園球場は、いつにも増して異様な熱気に包まれていた。
この日、阪神タイガースはペナントレース最終戦を迎えていたが、
試合前からスタンドに掲げられる横断幕の文字は、ある男の名で埋め尽くされていた。
「安川傑、ありがとう」
「背番号14、その魂は永遠に」
「スグル、우리의 전설(私たちの伝説)」
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「スグル……今日が最後だな」
ベンチ裏、監督室。
三塁コーチに昇格していた大山悠輔がそう呟くと、傑は少しだけ肩をすくめて笑った。
「“最後”って言われると、ちょっとだけ怖いな。でも……覚悟はできてる」
「泣くなよ?」
「……言うなって」
今日の登板は、9回表・1点差リードのワンポイント。
すでに40代後半、それでも一軍のマウンドに立ち続けてきた背番号14の“ラストステージ”だった。
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球場の通路で待っていたのは、成旼と霧亜(7歳)、祐美子(4歳)。
「パパ、がんばって」
「泣かないよ……今日だけは、かっこいいとこ見るんだから」
傑は娘たちの額にそっとキスをして、手袋をはめ直した。
「行ってくるよ――父ちゃんの、最後の勝負だ」
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9回表、甲子園の場内アナウンスが響く。
「ピッチャー、安川――スグル!」
どよめき、そして総立ち。
ベンチを出る傑に、まず駆け寄ったのは近本光司と中野拓夢。
「スグルさん、任せてください。絶対守ります」
「うん、絶対抑える」
捕手には、阪神の正捕手梅野隆太郎。
目を合わせるだけで、二人の会話は成立していた。
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打者はセ・リーグ打点王を争う強打者。
初球――外角低めストレート。ズバンッ!
「ストライク!」
球速は139km/h。
だが、回転数とコース取りは全盛期と変わらぬキレだった。
二球目――
緩やかなスライダー。空振り。
三球目、内角のフォーク。打者は手を出した。
カキーン――!
鋭く飛んだ打球は、ショート・木浪聖也のグラブへ。
低く構えてキャッチ、送球、アウト――!
「スグルーーー!!」
スタンドから響く大歓声。
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その瞬間、ベンチから選手たちがなだれ込む。
佐藤輝明、森下翔太、坂本誠志郎、小幡竜平、才木浩人、湯浅京己、岩崎優、岩貞祐太、ビーズリー、野口恭佑、全員が一斉に駆け寄った。
「安川傑、引退試合登板を完了、現役生活に終止符!」
スタンドからの拍手は、止むことなく続いた。
そして――
「胴上げ、行くぞ!」
村上頌樹と西勇輝、そして大竹耕太郎らが腕を差し出し、傑の身体を持ち上げる。
「いっせーの、せっ!!」
――1回。
――2回。
――3回。
甲子園の空へ、高く舞い上がったその背中は、50歳目前のレジェンド。
“日韓で闘い抜いた名将”の姿だった。
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試合後の引退セレモニー。
傑は、マウンド中央に立ち、マイクを握った。
「プロ生活32年。何度も折れそうになりました。けど、ここまで来られたのは……」
「阪神というチームが、俺を鍛えてくれたからです」
「楽天、斗山、サムスン、ドジャース――すべてのチームに、仲間に、家族に、ありがとう」
そして、スタンドに手を振る。
「……霧亜、祐美子。パパの野球、かっこよかったか?」
「――うん!!!」
泣きながら叫ぶ娘たちの声が、甲子園の空に響いた。
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こうして――
安川傑は、長き旅を終えた。
その背中には、誰よりも多くの汗と、誰よりも深い愛が刻まれていた。