第64話 記憶の森
「深海に墜ちていくみたい……」
ルリは仰向けのまま、暗い空間を静かに沈んでいた。
白い光の粒が雪のように周囲を漂い、ルリを追い抜いてゆっくり奈落へ流れていく。
上を見ると、遠くで海中から見る太陽のような光点が歪みながらゆらゆらと揺れている。
足裏に柔らかな感触が触れた。気づけばルリは地面の上に立っていた。
「ここが、終点のようですわね……」
周囲を見回すが闇しかない。
いつもの癖で暗視機能を起動しようとする。
……反応しない。
闇の中なのに、不思議と自分の姿だけはスポットライトを浴びたようにはっきりと見ることが出来た。
ルリは自分の手を見てのけぞった。
「これはなんですの?」
ルミノイドの機械の手ではなく、生身の人の手をしている。
自分の姿を確認すると、白いワンピース姿で頭には麦わら帽子を被っていた。
「この姿は……」
ワンピースの裾を摘んで前と後を見た。
「思い出しましたわ。……まえにラウルスの森にハイキングに行ったときの服装ですわね」
その刹那、舞台の幕が開くように闇が割れた。
光が顔に差し込み、ルリは思わず目を細めた。瞬間移動でもしたかのように、一面に花が咲く野原の中に立っていた。
「暗中模索は……せずに済んだようですわね」
青空には所々に白い雲が浮かんでいるが、太陽は見当たらなかった。どこから光が届いているのかわからないが、地面にはちゃんと影が落ちている。
足元を見ると、野原の中を細い一本道が伸びていた。
道の先は遠く、森のような木が生い茂っている場所まで続いている。
「あの森に行けってことかしらね?」
ルリは一歩踏み出した。柔らかい土を踏みしめる感触が伝わる。
ルミノイドのときのような軽さを感じない。
「私の体、こんなに重かったかしらね……」
とうに忘れていた生身の体の感覚に戸惑いながら『命の重み』という言葉が頭をよぎったが、それ以上は考えないようにした。
長い時間を歩き続けても息は上がらない。
疲れという感覚だけが、この世界には存在しないようだった。
森が近づくにつれ、一本一本の枝や茂みの輪郭まで見えるようになってきた。
ラウルスの森に似ているが、人の手が入った形跡のない鬱蒼とした植生は入る者を拒んでいるようにも見えた。
小道を進んで森の中に入ると、いつの間にかオレンジ色の光が斜めに差していた。木の影がストライプのような模様を道に描いている。
「静かですわね……」
森の中は鳥の声も虫の羽音すらなく、異様な程静まり返っている。ルリが土を踏む音だけが、かろうじて森の時間が止まっていないのを知らせていた。
どれだけ歩いただろうか。突然、茂みの奥からかさりと音がした。
音のする方を向いたルリは息を呑んだ。
茂みの向こうに白い雌鹿が立っていた。
木の隙間から漏れる夕陽に白い毛はオレンジ色に輝き、紅い目は観察するようにルリをじっと見据えている。
雌鹿の美しさに声も出ず、立ちすくんでいると、雌鹿は茂みの奥に向かい、三歩ほど進んで振り返るとルリを見た。
「ついて来い……ということですの?」
首を傾げるルリに応えるように雌鹿は頭を振った。
「わかりました、行きますわ」
茂みの中に分け入ると、雌鹿はルリに付かず離れずの距離で前を行く。
一人で歩いていたときと違い、鹿がいるだけで心強く感じる。なぜか、悪いことにはならない確信はあった。
オレンジ色の夕陽はやがて濃紺に変化し、昏い夜が森を包み込んだ。
「また、暗闇ですの?」
白い雌鹿は微かに光っているので、夜の暗さでもよく見えた。はぐれることはないだろう。
ルリは少し口を尖らせながら考えた。
「私は、お姉さまを呼び覚ますために潜ったはずですわ……」
それが、なぜ森の中を歩いているのだろう。
「お兄様は、お姉さまと接触したら外へ引き戻すと言っていましたわね」
改めて森を見回した。月明かりのような灯りと微かに浮かぶ木の影しか見えない。
「住所が書かれているわけないですわね」
ルリはため息をついた。
「私ならお姉さまをすぐ見つけられると思っておりましたわ」
やがて、雌鹿はすこし開けた広場に着くとそこで止まった。
広場の中央には煙突のついた小さな小屋があり、窓からは灯りが溢れていた。
小屋の横には丸太が積み上がり、切り株に斧が刺さっている。
「おとぎ話に出てくるお家みたいですわね」
雌鹿は頭を縦に振ると、スーッと姿を消してしまった。
雌鹿が消えると、小屋の中で人の動く気配がした。ルリが小屋に近づくと、小屋の戸が開いた。
中から出てきたのは、若い男だった。ルリを見つけると「おおっ!?」と驚きの声を上げた。
「こ、こばわですわ……」
ルリも驚きながらも挨拶をする。慌てたので少し変な言葉になったが、ルリが気にする前に男は喋り始めた。
「珍しいな! ここに人が来るなんて!」
短髪で細身の筋肉質の男は満面の笑みを浮かべてルリをまっすぐ見つめると、両手を広げた。
「しかも、こんな可愛い子だ!」
ルリは状況が飲み込めず、ただ立ち尽くしかなかった。




