第37話 ルリとルリ
『もし過去の私を知ってしまったら、私は今の私でなくなってしまうかも……。それでも、逃げていてはお姉さまの隣に立てませんのね』
ルリはありったけの勇気を振り絞って、眠っているルリの額のオーブにそっと触れた。
触れた瞬間、頭の中が真っ白い光で一杯になり、死んでしまったのかと錯覚した。
光の中に光景が浮かぶと、吸い込まれる様にその光景の中に入っていった。
いつのまにか、大きな文具店の店内に佇んでいた。紙と木と黒鉛の混ざった、文具店独特の匂いに包まれる。壁や棚にオーク材が使われた凝った内装は、この文具店が老舗の大きな店だと思わせるに十分だった。
どこからか、カーラに似た笑い声が聞こえてきた。
「お姉さま?」
声のする方を見て息を呑んだ。
そこには、若い女性と女の子が品物を選んでいる姿があった。
ルミノイドになる前の人間のカーラとルリ。二人が楽しそうに買い物をしている。ルミノイドのルリには全く記憶にない部分だ。
「あれはわたくし? ……カーラお姉さま?」
思わず棚の陰に身を隠した。
「何をプレゼントされれば、あのお兄様が喜ぶかなんて見当つきませんわ」
目の前をルリとカーラが話しながら通り過ぎていく、どうやら自分の姿は見えていないようだ。
「……でも、あなたが選んだものなら、きっと大切にするわよ」
「そうでしょうか……」
「ええ。私が保証するわ」
「あのお兄様ですわよ?」
「あの人はああ見えて、案外家族は大事にするのよ? まあ少しズレてはいるけどね」
カーラはそう言うと、うふふと笑った。
その様子を見たルミノイドのルリは、あんなに楽しそうに笑うお姉さまは見た事がないなと思った。
『それにしてもお兄様って、誰のことを言っているのだろう?』二人の会話に聞き耳を立てた。
「このペンはどうかしら?」
カーラは、ひとつのペンを手に取った。重厚感のあるデザインで、持ち手には細やかな彫刻が施されている。
「これなんてどう? シンプルだけど品があるわ」
「いいですわね! これにしますわ!」
ルリはペンを手に取ると、嬉しそうに翳して見た。
「お兄様はよくメモを取ったり書き物をしますわ! このARライターペンならきっと喜びますわよ!」
ペンを胸に抱いて嬉しそうにしているルリを見たルミノイドのルリは、説明できない感情に襲われた。嫉妬とも羨望とも違う、一番近い感情は疎外感だろうか。自分の記憶のない所で幸せそうにしているこの人は私なのか?
「ルリ、こっちに来て」
カーラがルリを呼ぶ声がした。思わず自分も反応してしまい「呼んだのは私じゃないのに」と苦笑した。
カウンターの横にいたカーラは一枚のカードをルリに差し出した。
「ここでバースデーカードを書くと良いわ」
「はい!そうですわね!」
ルリは薄いピンク色のカードに『ハッピーバースデーお兄さま!』という文字とうさぎのイラストをささっと描いた。
「これは……!」
そのカードを見た瞬間、頭の中でまるでパズルが組み上がるように、様々な記憶がディテールを形作っていった。
「このカード……アルケーに渡した……? ……そんな馬鹿な……!」
胸の奥がぎゅっと痛み、呼吸が乱れる。逃げ場のない記憶が次々と押し寄せ、膝が笑った。
「アルケーは……わたくしのお兄様……!」
そう認めた瞬間、涙が頬を伝い、ふらついて棚にすがりついた。
けれど、苦しみの中で確かに分かった。あの幸せそうに笑う少女もまた、自分自身だったのだと。
「そう、ここで初めてアルケーに会った時、アルケー宛にとドローンが持ってきたのが壊れたペンとカードでしたわね。確かにアルケーは私の兄ですわ……」
文具店でプレゼントを選んだこと、カーラとアルケーの結婚式に出たこと、カーラとアルケーの新居に遊びに行ってアルケーに説教したこと、そして子供の頃からの記憶。曖昧なところはあるが、そのどれもが自分への愛情を感じさせるものだった。
ルミノイドになる前の記憶が頭の中に津波のように流れ込んできて、そのあまりの処理量の多さに吐き気と頭痛に襲われた。
「うう……」
ルミノイドのルリは呻くとその場にしゃがみこんでしまった。
「さすがに疲れましたわ。……でもお姉さまもこの体験をしたのですわね」
――
クレードルの前ではルリがオーブに触れたまま、フリーズしてピクリとも動かないでいた。
「おい、動かないけど大丈夫なのか?」
加藤が痺れを切らせてアルケーに聞いた。
「大丈夫だ、今はオーブ同士で情報共有をしているところだ」
「情報共有? お前さっき60%しか意識を入れられなかったって言ってなかったか? 言ったらアレだけど、不完全なこのルリと共有してもダメだろ?」
「ルリの不安定さはアイディンティティの部分的な欠落にある。その補完には不完全であっても過去の記憶が必要なのだ」
「過去の記憶ってどんな?」
アルケーは少し良い澱んでから、小声で言った。
「……愛情だよ」
口にした瞬間、アルケーは自分でも驚いたように視線を逸らした。
「言わせないでくれ……これは科学的に整理できる話じゃないんだ」
「ほへー!」
加藤がビックリした声を上げた。カーラもノーマンも目を丸くしてアルケーを見た。
アルケーは少し頬を赤くして横を向いた。
「アルケーからそんな言葉が出るなんて……」
誰よりも一番驚いていたのはカーラだった。
クレードルのルリに変化があった。オーブから手を離して「うう……」と呻いたのだ。
ルリは体を起こすと、キョロキョロと周囲を見渡した。目を開いてパチパチと瞬きをする、綺麗な瑠璃色の瞳には光が宿っていた。
「お! 目を覚ました!」
加藤がルリに近寄ると「どうだった!?」と聞いた。
「衝撃の事実でしたわ……」
そう言うと、ルリはクレードルから離れて大きなため息をついた。