第36話 過去の影
アルケーが最後のクレードルに触れると、プシューと空気が抜ける音と共にキャノピーがゆっくりと開いた。
「これは!」
クレードルの中を覗いたノーマンが呻いた。
「……!」
中を見たルリは、反射的に口元を押さえた。冷たい何かが背骨を這い上がり、指先から血の気が引いていく。視界の端が白く霞んだ。足元から力が抜けていく……カーラの温かな手が肩を支えてくれなければ、その場に倒れていただろう。
中に眠っていたのはルミノイドだった。
瑠璃色のメッシュが差した黒髪。あどけなさの残る顔。胸元を覆うボディースーツ風の装甲。
見れば見るほど逃げ場がなかった。そこに眠っていたのは「ルリそのもの」だったからだ。
ルリの喉から、か細い悲鳴が漏れた。まるで自分の魂を抜き取られたかのような感覚に襲われ、視界がぐらりと揺れる。
「わたくし……二人いる? 一体どちらが本物なのですの……?」
声にならない問いを胸の奥で繰り返しながら、ルリは縋るようにカーラの腕を掴んだ。
「中に眠っているのは、ルミノイド化途中で凍結された。そう……ルリ、君だ」
アルケーが感情のない、無慈悲とも取れる声で坦々と話す。
「どうして……私に見せるの?」
「ルリに見せても混乱させるだけでしょ!」
ルリの肩を抱き抱えたカーラがアルケーに食ってかかったが、アルケーは眉一つ動かさずに答える。
「このクレードルは緊急事態が起こったら、海底に沈むティルティアに転送される事になっている」
「だから?」
「ルリ、君が一万年前に目覚めたのもティルティアだ。つまり、目覚める前の君なんだよ、ここに眠っているルリは。……信じられないかもしれないが、それは君の今の記憶が担保している」
「そんなこと……あるの?」
理屈ではなんとか理解はできる。でも、ルリの感情がそれを否定していた。
「人間だったカーラとルリが事故に遭って、僕のところに運ばれたのは覚えているだろう?」
「私たちが救急車に乗せたのよ。忘れようにも忘れられないわ」
「二人とも身体損傷度80%以上で回復不可能だった。だから、まだ息のあるうちにルミノイドに緊急マインドローディングして意識を移したのだ。君たちを今の姿にしたのは僕だ」
「そうね。言いたい事は沢山あるけどね」
「カーラはローディング作業中にノイズが入り、暴走――正確には暴走とは違うが。完全に負の感情に意識を奪われてしまった」
「あのもう一人の私のことね」
アルケーはクレードルの中に眠るルリを見た。
「ルリはノイズが至る前に、ローディングを緊急遮断してルミノイド化を凍結した。ここに眠っているルリは、意識の60%しかローディングされなかった。……そして、元の肉体は完全に死んでしまった」
「じ、じゃあ今いる私はなんなんですの?」
ルリは今ここにいる自分こそが幻なのではないか、という考えに押し潰されそうになった。
姉のように頼れるカーラが支えていなければ、再起不能なほどに崩れ落ちていただろう。
「つまり失敗したと言うことね?」
カーラが表情を強張らせて言う。
「僕の想定を遥かに凌駕する事態が起こったのだ。この点に関しては僕に責任がある」
「あなたが非を認めるなんて珍しいわね。……それで? 嫌がらせのためにここに連れてきた訳じゃないでしょ?」
「カーラ、すげえトゲがあるな……」
後ろで見ていた加藤がボソッと言った。
「ルリを傷つけられたからな。君も怒っているだろ?」
「当たり前だろ。あたしはカーラみたいに弁が立たないんだよ。あいつ殴ると跳ね返されるしな」
アルケーは加藤に構わず話を続けた。
「これから僕たちはヌシと対峙する事になるだろう、ヌシは負の感情を苗代にして人に取り憑く。そうだな、感情を『情報』として捉えるとわかりやすいだろう」
「言っている事は理解できるが、それがルリに関係しているのか?」
「人間の脳内活動は電気信号の集合体であり、情報処理そのものだ。通常、恐怖や憎しみといった負の感情は、時間の経過と共に散逸し、熱となって消えていく。これは情報の『エントロピー増大』と同じ現象だ。秩序だった状態から無秩序へと崩れ、やがてならされる」
「……だが、ヌシは違う」
彼はクレードルに眠るルリを一瞥した。
「ヌシは本来散逸するはずの情報を一点に集め、凝縮する。つまり、エントロピーを逆行させる存在だ。憎悪や恐怖が『終わりのない燃料』に変質する。放っておけば、心の奥に溜め込まれた負の感情そのものが、ヌシの温床になる」
加藤が顔をしかめる。「なんのホラーだよ……」
カーラが加藤の方を見ると少し悲しそうな顔をした。
「あなたはアクパーラ号で思い当たる所があったはずよ?」
「……まさか、あの時の破滅の天使への恐怖と怒りか?」
「今なら分かるわ。あの事件はヌシが絡んでいてもおかしくなかった」
「……あたしが? ヌシに?」
加藤が両手で頬に手を当てて困惑する、額には汗が滲んでいた。
「何が起こったのかは知らないが、今は違うだろう? 君を見ていると分かる」
アルケーが微かに微笑んでから続きを話し始めた。
「つまり、逆に言えば肯定的な思考――喜びや希望は自然と拡散し、ヌシの餌にはならない。ヌシに取り憑かれるのは『弱さ』ではなく、『未処理の感情』だ」
アルケーはルリの目を見る、その目の光ははアルケーの真剣さを示していた。
「だからこそ、ルリ。君には自分自身の影を直視してもらう必要がある」
「そんなこと……できるはずありませんわ!」
「抑圧された怒りや恐怖は拡散せずに溜まり込む。それはヌシの好物だから、怖くても負の感情は断たなければならない」
ルリはカーラの腕を持つ手にギュッと力を入れてカーラを見た。目が合うとカーラは静かに頷いてルリの手にそっと手を重ねた。
「私も過去の自分に会ったわ。お陰で今まで分からなかった色々な事が理解できたの。ルリ、知ることを恐れないで」
「嫌ですわ……本当は、こんなもの見たくなかった……」
今のルリにとって知ることは、闇に手を突っ込むようなものだった。 掴むのが温もりか、それとも牙を剥いた怪物か。
そして、知った瞬間、今の自分が虚構になって変わってしまうことが何より恐ろしかった。
ルリは小刻みに震える膝を必死に押さえつけた。
そして、カーラに勇気付けられてクレードルに眠るルリの姿を見た。眠っているその姿は乱れた心とは対照的で、まるで自分と会話するのを静かに待っているようにも見えた。
「……できるかどうか分からない。でも、やらなければならないのですわね」
「眠っているルリの額のオーブに触れてみるといい。必要な情報は流れてくるはずだ」
ルリは大きく息を吐くと、クレードルの中に手を伸ばした。
震える人差し指が、眠るルリの額のオーブにそっと触れた。




