第三章 見えない敵 其の三
「魔法使いなのか。俺と一緒に『見えない敵』と戦うのを許してやってもいいぜ」
男はにやりと笑ったが、その笑いは妙にゆがんでいるように見えた。
あの老人のこと、狼のこと、魔法のこと。訊きたいことはたくさんあったが、この男が信頼できるかどうかは確かめなければならない。金も持ってはいないし欺されたとしても奪われるものは大してないが、あの老人が自分に期待して預けてくれた狼に危害が加わることだけは避けたかった。
「『見えない敵』って何のことだい?」
「『見えない敵』に油断するな。やつらはどこにでもいるんだ。いつ襲ってくるかわからないだろ。現れたときにはいつでも戦えるようにしとかなきゃいけないんだ。『見えない敵』と戦えるのは、頭のいいやつだけなのさ」
男は威張るように胸を反らした。
この男は、みすぼらしく見えるが、実はすごい魔法使いなのかもしれない。あの老人だって、はじめて見たときにはすごい人だと思えなかった。人は見かけで判断してはいけないものなのだ。
「僕は戦いの訓練を受けてないんだけど」
できるだけ慎ましくラジュエルは告げた。まだこの男が信用できる人間かどうかはわからない。だが、無視して通り過ぎるのはもったいないような気がした。少なくとも、狼のことを『力あるもの』と呼んだのだし、『見えない敵』のことも何か知っているのだ。
「誰だって最初はそうさ。ついて来な。そんな獣と一緒じゃ宿には泊まれんだろう」
ずばりと当てられて嬉しくなった。。この男はわかってくれる人なんだ。あの老人と別れて、はじめて味方に出会えた。やはり導きはあるのだ。
「君は?」
「俺はボルード。この町の英雄になる男さ。おまえは」
「ラジュエル」
羊飼いだとは名乗らなかった。英雄でも魔法使いでもないことは隠すつもりはないが、羊飼いという仕事では、あまりにも彼とつりあいが取れない気がした。
ボルードは町の門が見える距離まで近づくと、近くの朽ちかけた小屋を指さして言った。「さすがに狼を連れてちゃ町へ入るのは無理だろ。その小屋なら、誰も使ってないから勝手に入って泊まってもいいぜ」
「ああ、そう」
ラジュエルは小屋を見て、正直、がっかりした。ここでもあの村で神官が提供してくれた道具小屋と五十歩百歩の宿しか許されないのは同じだったのだ。
それでも、この冬のさなか、野宿よりはましだ。それに、今度は狼も一緒に泊まれるから、少なくとも寂しくはない。それに狼の身体が温かいことは何度も経験していた。
ラジュエルと狼がその小屋に近づくと、小屋全体が揺れるように見え、つづいて煙のようなものが小屋から一斉に反対方向へ流れていった。
「へええ、こりゃいい」
ボルードは楽しげに笑った。逃げていった煙と見えたものは、大量のネズミの群れだった。狼の足音を聞いて、近づく前に逃げ出したらしい。
「その獣はネズミ取りの仕事ができるな」
本当は何か言うべきなのかもしれないが、なんとなく不愉快な気持ちになってラジュエルは黙っていた。
ネズミ捕りの仕事が羊飼いの仕事に比べて下賤だと思っているわけではない。だが、『力あるもの』とまで言われるこの狼はただの野生の獣ではなく、何か不思議な力すら持っている誇り高い獣であるような気がしていた。その高貴なものが、ネズミ取りの仕事などさせられることは、自分が馬鹿にされたような気がして嫌だった。
「君の家は?」
「あそこだ」
ボルードの指さした方を見て、今度は少しほっとした。
ラジュエルに提供された小屋よりはましだが、決して豊かではなさそうな小さな古い家だった。これなら故郷の自分の家の方がずっと心地がいい。
なんとなく自尊心を満足させられてラジュエルは狼とともに小屋の方へ向かった。ボルードもひょこひょことついてくる。その歩き方を見て、ようやく、この男は少し足が悪いのだと気がついた。そんな足で『見えない敵』とどうやって戦うのかと訊きたかったが、失礼に当たるかもしれないと思って黙っていた。
「明日になったらまた来るよ」
「うん。ありがとう。ところで、町で食べ物を手に入れられるかな」
「いくら持ってるんだ」
鋭い狡猾そうな視線がラジュエルの背負い袋に走った。
「お金は持ってないんだ。売れるようなものもない。手伝いをするとか、なにか労働をして食べ物をくれる人はいないかな。前の村では神官様の家で薪割りや水くみをやって泊めてもらったんだ」
「ふうん」
急にボルードは興味がなさそうな顔つきになり、じゃあな、と何も教えてくれず出て行った。やはりなんとなくこの男のことも好きになれない。これもまた導きのひとつなんだろうかと考えながら小屋の点検を始めた。
道具小屋のようなものだったのだろうか。小さな木の窓がひとつあるきりで、その窓も壊れかけすきま風が吹き込んでいる。床には汚れた藁が敷いてある。ひどく貧しい人が住んでいたのかもしれないが、今はもう誰も使ってないとボルードが言っていたから、今夜は誰も来ることはないのだろう。裕福な人々は城壁の中に住んでいると聞いたことがある。壁の外には農民や、町に住めなかった人々が住んでいるのだ。そしてこの町で、叔父が亡くなったのだ。
火を炊きたかったが、炉が切られていないので、床の上で火を炊くのは危ないと思いやめておいた。藁の中でもきれいなものを集めて、その上に座って堅パンと残り少なくなった葡萄酒を飲む。明日には食べ物を手に入れなければならない。狼は食事のために一度出て行った。
「夜にはもどっておいでよ。ここは人が多いから」
声をかけると、一度ふり向いた。うなずきはしないが、わかってくれたのだと感じる。
狼が戻ってきたのは、ラジュエルが眠る前の祈りを捧げ終わったときだった。口に何か加えていると思ったら、兎を一匹持って帰ってきてくれたようだ。獲物をぼとりとラジュエルの前に置く。
「お土産かい?」
黙ってラジュエルを見つめるところをみると、そういうことらしい。最近人々には優しくしてもらえなかっただけに、狼の気持ちは心にしみた。
「水を探さなきゃな。でも、今日はもう暗いから、日が昇ったら行こう」
ぽんぽんと狼の背中をたたくと、大きな身体をすり寄せてきた。
川は町の西側を流れていて、そこから一本の運河が町に向かっている。町の人たちは人工的に引いてきた水を使っているのだ。
薄い雪の残る川原で、ラジュエルは手を洗い、兎の処理をした。父に持たせてもらった短いナイフはこういうときに役に立つ。川原の乾いた流木を集めて火を炊き兎の調理にかかっていると、誰かが近づいてくるのに気がついた。ボルードだった。
「よう、見事な毛皮を手に入れたんだな。それで帽子を作って売れるぜ」
「そうか。でも、裁縫道具は持ってこなかった」
「俺は持ってる。おまえ、作れるのか」
「うん、作ったことはある。あんまり上手じゃないけどね」
となりに腰掛けながらボルードはちらちらと、焼いている兎肉に目を向けている。
「上手そうな匂いだな」
「ずっと肉は口にしてないんだ。久しぶりだよ」
「なあ、塩と交換に少し肉を分けてくれるってのはどうだ」
塩か。そういえば塩は持ってきていない。家には商人が売りに来た岩塩があったが、堅パンにはいらないので持ってきていなかった。確かに肉には塩があった方がいい。だが、兎は二人で分けるにはいかにも小さかった。
「君の朝食は?」
「うん、まだだ」
「何の仕事をしているんだい」
「俺か。俺は『見えない敵』と戦うのが仕事だ」
「どうやって?」
「塩を取ってくるよ」
ボルードはまた答えを言わずに立ち上がった。
戻ってくるまで食事は待つしかなさそうだ。せっかく狼が持ってきてくれた肉なのに取り分が減ってしまうのは残念だったが、今日には何かボルードが仕事を紹介してくれるのかもしれない。あきらめて今度は兎の皮を水で洗うことに専念しはじめた。
水は冷たく手はすぐかじかんでしまった。水から手を出しては火で温め、また洗うということを繰り返しているとボルードが戻ってきて食事になった。
肉にがっつきながらボルードはちらちらと狼の方を気にしている。
「大丈夫だよ、噛みついたりしないから」
「そうか?」
しかし狼は手を伸ばそうとするボルードにぎらりと光る牙を見せたので、彼は慌てて手を引っ込めた。
「なあ、どうやって『力あるもの』を手に入れたんだ」
老人から託されたんだよ、とラジュエルは忌み人と出合ったことを簡潔に物語った。そのために自分は羊飼いの仕事をやめて旅立たなければならなくなったことも。
「ふうん」言葉とは裏腹にボルードの口調には羨ましさがにじみ出ていた。「ともかく、そいつがいれば『見えない敵』と戦うのも楽になる。協力するだろ?」
当然のようにボルードは言ったが、なんと答えたらよいものかわからなかった。狼を見てもなんの答えもない。
「それが仕事ってことは、食べ物やお金をもらえるのかい」
「え? ああ、まあな」
はっきりしない答えだった。しかし特に今日やらないといけないことがあるわけでもない。食べ物がもらえる可能性があるならやってみてもいいと思った。
ボルードについて城門へ向かうと、いかめしい顔つきをした門番が誰何していたが、ボルードは顔見知りらしくラジュエルのことだけ訪ねられた。
「ああ、こいつは俺の仲間だ。狼は『見えない敵』と戦う強い味方になる。大丈夫だ、よく人に馴れてるから」
まるで自分の狼のようにボルードは紹介したが、ラジュエルでさえ狼が人にどれほどのことをするのかわからないのに、どうしてそんなに自信満々に言えるのだろうといぶかしく思った。
ともかく狼も一緒に町へ入れたのは助かった。
門からは広い通りが町の中心部へ向かって続いており、ところどころで朝市が賑わっていた。パンやバターを買い求める人々、ミルクやエール(酒)を売る農民たち、走り回る子供……。狼を連れた二人連れを見るとみんなぎょっとした顔つきでふり返ったが、一部の人々が隠れるように建物の影に逃げ込んだほかは、あまり気にせず日常の生活を続けていくところが今まで来た村とはちがっていた。
ボルードは町の中央近い一件の豪華な家のドアノッカーをたたいた。見事な細工をした木のドアは神殿のものよりも大きかった。