第十六章 あなただったんですね 其の一
第十六章 あなただったんですね
こんなところで人間の声が聞こえるはずはないと思った。
見回すと、いつのまに来ていたのか、10歳ぐらいの子供がにこにこ笑って見上げている。
「君、どこから来たの?」
「あっち」
服装からして少年のようだ。子供はラジュエルが戻ろうとしていた方を指さして無邪気にこたえる。
「大人は? 道に迷ったの?」
子供は答えず、
「ついてきて」
と歩き出す。
こんな山奥で、子供一人ほうっておくわけにはいかない。
「君、道わかるの?」
子供の足どりには確固たるものがあり、ゆく道はわかっているように見える。この地域に慣れた山の民なのだろうか。
「大人たちはどこにいるの? 君たちはここに住んでいるの?」
少年はあいかわらず何も答えない。狼が横でぐるると低くうなる。寄り道するのが気に入らないのかもしれない。
「ジュート、ちょっとだけだよ。大人たちのところまで送ったらすぐまた西を目ざすからさ」
子供はまっすぐにどんどん森の中を進んでいくが、いつまでたっても集落のようなものは見えてこない。
何かがおかしいと思い始めた。そもそも、こんな場所に子供が一人でいるのがおかしい。しかも、見ず知らずの自分をいきなり差しまねくのはどういうつもりなのかわからない。迷子ならもう少し不安そうな顔をしてもよさそうなのに、そういった反応も見えない。
「ねえ、君さ、何者なの? 名前は?」
前を行く子供があどけない笑顔でふりかえった。
「ちょっとその杖を貸して」
「え? これ? いや、これは大切なものだから」
「じゃあ触ってみるだけ。ねえ、ちょっとだけ」
「うん……じゃあ、ほんとにちょっとだけだよ」
グルルと狼がうなる。嫌な予感がした。
「ごめん、やっぱり……」
断ろうとした。だが次の瞬間、ラジュエルが向けた杖に子供が手を触れたと思ったとたん、驚くような力で杖がぐいと引っぱられ、握った手から引き抜かれた。
その途端、足下を支える地面がずるりとゆるむ。
「あっ!」
思ったときにはずぶずぶと足がのめりこんでいくところだった。底なし沼か。それなら前を行く子供も沼に沈むはずなのに。
子供は相変わらずにこにこ笑いながら――。
「浮いてる……」
ラジュエルの足は沈んでいくのに、子供はその場にとどまって、足の先すら汚れていない。魔物だったのか。
慌ててヒグマと狼を見ると彼らの足もずぶずぶと沈み始めている。
「逃げて!」
なんてことだ。彼らは自分を止めてくれていたのに。あの不機嫌は怪しいものだと警告していてくれたのだ。このままでは仲間ともども沈んでしまう。
笑って浮きながら、子供の姿はどんどんと変化していく。
輪郭がぼやけ陽炎のように揺れたかと思うと、緑色の炎のようになり、また人間の姿になったと思えば子供ではなく醜悪な中年男の顔になる。
こういう魔法は見たことがある。
姿はちがうが、マルリオス師が炎になったり白い大きな姿になったりした魔法によく似ている。
「ちくしょう、杖が……」
杖なしでも魔法は使えるはず。しかし考えがまとまらない。
こいつは何者だ。魔物か、それとも都から追ってきた魔法使いなのか。狼とヒグマを助けなければ、自分が沈んでしまう前に。
――杖を呼び戻せ。
師匠の声が聞こえて、はっとした。
そうだ、こういうときこそフリーナに教えてもらった呪文だ。
「レディレ・カデューク・ラジュエラ!」
子供、いや今となっては緑色の人間型の炎の中に捕らわれていたラジュエルの杖がぴくぴくっと動いたかと思うと、まるで自ら意志を持っているかのように、持ち手をふりきってひゅうと音を立てて飛んできた。
「いいぞ!」
杖は飛んでくると、まるでフリーナが、お馬鹿さんと言っているようにラジュエルの肩を軽くぽんと叩いてすぽりと手に収まる。
「僕らを引っぱり出して」
命ずると、ラジュエルの握っている杖自身がぐいと身体を上に引っぱりあげてくれる。だが足が泥に絡みついてなかなか上昇しない。ヒグマと狼も沼に捕らわれたままだ。
「この足場がどうかなればいいのか」
泥だらけの足下を見る。今は杖が力を貸してくれる。
「硬い地面に! 僕らの身体を吐き出して!」
ぶくぶくと泥沼から泡が吹き出してくる。やがてぺっと吐き出されるように二匹とラジュエルは地面に投げ出された。
ほっとして沼の方を見ると、今出てきた真ん中あたりが激しく泡立っている。まるで今にも固まろうとしている泥沼に棲んでいる生き物が暴れているように。
急にその中から巨大ななまずのような生き物が、宙に浮いている魔法使いめがけて飛びついた。
「うわっ!」
慌てて魔法使いは高度を上げたが遅かった。
血が滴っている。片足の爪先を食いちぎられたのかもしれない。
「こいつめ……」
ばたんと音を立ててなまずの怪物はさっきまで泥だった池に落ちた。潜るつもりだったのかじたばたしている。潜りそびれている怪物に向けて魔法使いが指を向けると、あっと思う間に火に包まれた。じたばたと暴れながらも怪物はもう一度魔法使いに向かって飛びかかっている。
「逃げよう」
魔法使いと怪物が戦っている間に、狼とヒグマをうながしてとにかく逃げた。ここで戦うのは無駄だ。どちらかがラジュエルのことを思い出してまた追ってこないとも限らない。
どこまで逃げただろうか。森の中、道がわからなくなってしまったが、いずれにせよ向かうのは西の方、山の上の方なのだから、決まった道があるわけではない。できるだけ危険の少ない道を選んでまた目ざせばいい。
いろいろあって喉が渇き、開けたところに座って水を飲んだ。道はどこでもいいが、水を定期的に確保できる場所の方が望ましい。
水を出せる呪文は知っているが、うまく加減ができない。また滝のような水をだしてしまったりすると目立つし、何かを破壊してしまうかもしれない。
追っ手が来ている可能性のある今、できるだけ目立たないように進みたい。
そうやって歩いているうちに木々の深いところに出てしまった。
もうすこしましな道を進みたいが、どちらに行っても蔓植物や低木が邪魔して通りにくい。どこも通りにくいならできるだけ近道をして西を目ざそうと思ったのがまちがいだったかもしれない。
急にするりと背中が軽くなった。
「あっ! 僕のパン」
慌てて見回すと、木の高いところに背負い袋が浮いている。また魔法か。戻ってくる呪文を教えてもらっておいて本当によかった。
「レディレ・パニス・マギカ」
……なにも起こらない。
「あれ? おかしいな。レディレ……」
なにかまちがえたかと思いもう一度唱えようとしたとき、くすくすという鈴の音のような笑い声が上の方から聞こえた。
また魔物かと思って見上げると、木々の間に少女の幻のような影が見える。
「精霊……かな?」
声を聞いたことは幾度かあったが姿を見たことはない。自信がなくて狼たちにたずねた。獣たちも困ったように上を見上げているが、さっきの魔法使いに対するように敵意を持っている様子ではない。
「返して。僕にはそれが必要なんだ」
――必要なのね?
――人間にはパンが必要なのね。
風がそよぐような話し方も、いつか聞いた精霊たちの話し方と同じだ。しかし、こんなにはっきりと姿を見たのは初めてだ。
――精霊にはパンは必要ない。
「そうだよ、君たちの食べ物はもっとちがうものだろ?」
返してくれるかと、ほっとして話しかける。
――必要はないけど、面白いわ。
――そう、これは面白いわ。
つづいて風で葉がすれるような笑い声がふってくる。
どうやらたちの悪い悪戯のようだ。彼女らにとってはただの悪戯でも自分にとっては死活問題なのだ。
「ねえ、返して。どうしたら返してくれるの?」
――取引?
――取引がしたいの?
また笑う。だんだんといらだってきた。相手が人間で、自分のためにパンをほしがっているのなら気持ちはわかる。でも彼女らにとっては石ころもパンも同じで、ただラジュエルをからかっているだけなのだ。しかも魔法が効かない。
――あら、綺麗な首飾りをしてるのね。
――とても綺麗な首飾りだわ。
「えっ? これ?」
――ちがう、鳥の羽じゃないわ。そっちの細工物の方。
――人間が作ったのね。とても綺麗。
――その首飾りをちょうだい……。
「これは」
カディオルの御守りのことだ。思わずぎゅっと首飾りを握りしめた。
「これは僕のじゃない、借りてるだけなんだ。だから君たちにはあげられない」
鈴が鳴るような笑い声がふってきた。
――お腹がすいたら人間は死ぬんじゃないの?
――首飾りがなくても人間は死なない。
――だから私たちにちょうだい。
――今、ここでちょうだい。
だめだ。精霊に理屈は通じない。だだをこねる幼児を相手にしているようなものだ。
カディオルの御守りは手放すわけには行かない。しかし、こんな山奥でパンがないのは相当苦しい。
しばらく考えて、ラジュエルはくるりと精霊たちに背を向けた。
木々がざわめく。
――くれないの?
――くれなかったら、パンは捨てちゃうよ。
「……でも、僕はこの御守りを君たちに渡すわけにはいかない。人間には約束というものがあるんだ。僕を信頼してこれを預けてくれた友だちを裏切ることはできないんだよ。……たとえば、君たちが他の交換条件に応じてくれるなら考えるけど」
ざわざわと木々が鳴り、精霊たちの姿が薄くなっていく。
――つまらない。
――人間ってほんとうにつまらない。
だったらパンを返せと思うが、背負い袋を持ったまま精霊はだんだんと透明になり、消えていってしまった。
狼がいたわるようにそっと顔をこすりつけてきた。
「あーあ、やられちゃったよ。どうして魔法が効かなかったんだろう」
――魔法ってのは、しょせん人間の力の一部だからな。やつらみたいに太古から存在している存在には効かないこともある。
また師匠の声だ。気のせいか、だんだんと師匠の声は、はっきりして、内容も自分の知らないことを教えてくれるようになってきた気がする。本人がどこかにいるのではないかと、思わず見回してしまう。
「しょうがないですね。僕には約束を破ることはできなかった。食べ物はがんばります。草や木の皮も食べられるって聞いたことあるし、狼やヒグマも助けてくれるでしょう。もともとあのパンだってもらったものだったし」
師匠の笑い声が聞こえる。
――パンがないとわかってたら、最初からそのように準備してただろう。だが、おまえの言うとおりだ。『力あるもの』たちは助けてくれる。そのためにここにいるんだ。おおいに頼れ。
「ええ。ありがとうございます。君たちもありがとう。頼りにしてるよ」
狼とヒグマが慰めるようにそばに寄り添ってくれ、また一緒に歩き出した。
また森がざわめいた。
今度はなんだと身を低くする。
精霊や魔物にしては騒がしい。そういったものは、もともと森に属するものだから、動くときにそれほど音がしないということに、気づきはじめていた。自分の家ではぶつからないで歩けるようなものだ。
ということは、人間か。しかも、この森になれていない人間。追っ手。
「動かないで」
ささやくような声で狼たちに話しかける。もっとも獣相手には言葉はいらないのではないかと思う。
やがて話し声が聞こえてきた。
「おかしい。確かにこのあたりで魔法の気配がしたんだが」
「人の通った跡もこっちに続いている。近くに潜んでいるとみてまちがいないだろうね」
トゥーリオ師の声だ!
ということは、出て行っても安全なのだろうか。ちら、ととなりの狼を見ると黙ってしずかに地面に伏せている。大丈夫なら狼が喜んで出て行ってもおかしくない。
ケーファ師はなんと言ったか。本当に信頼できる相手にだけ話すようにと。トゥーリオ師は信頼できる相手か? 彼はマルリオス師にいつも忠実だった。
同時に嫌なことも思い出す。『学びの塔』の地下から死体を運び出していたのはトゥーリオ師だった。あのとき、ラジュエルが生きていて、彼はぎょっとしたような顔をしたのだ。
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今週も読んでいただきありがとうございます<m(__)m>
来週もよろしくお願いいたします(^^♪
ところで余談なのですが、過去に屋久島に行ったとき、野生のヤクザルにサブバッグを盗られました。ヤクザルはからかうようにバッグを持って道路わきの木から見ていましたが、野生のサルというのは意外と凶暴で手が出せませんでした。仕方なくあきらめて、借りていた車で去ろうとしたら、後ろから軽トラックが追いかけてきて、地元の方が「おーい、これ、あんたの?」とサブバッグを届けてくれたのでした。奇跡的な奪還でした。地元のおっちゃん、すげーと思った出来事です。




