後編
「…………なんだと…………?」
「は…………アンタ、なにを言って…………っ」
久美子の父が呆然と聞き返し、久美子も表情をかたくする。
美咲はくりかえす。
「あなたは既婚者と知っていながら、田渕秀樹と不倫して肉体関係を持ち、彼の妻を泣かせて苦しませ、離婚にまで至らせて家庭を崩壊させておきながら、自分はのうのうと奪った男性と結婚し、子供までもうけていたんです。違いますか?」
「な、なんのこと? 意味がわからないわ」
「田渕純子。『純粋な子』と書いて『純子』。この名を聞いても思い出せませんか?」
久美子の額から、さあっと血の気が失せる。
美咲が口にした名前に夫の秀樹も狼狽した。
二人の反応に久美子の父も異常事態を悟る。
美咲は自分のバッグから数葉の写真をとり出し、三人の前に突き出す。
写真にはすべて、二十代と思しき男女と一人の赤ん坊が映っていた。
「そこの御園生秀樹は十七年前、田渕秀樹という名前で、田渕純子という妻がいました。けれど資産家の令嬢だった部下の女性と不倫関係になり、彼女の妊娠をきっかけに離婚して、妻子を捨て、不倫相手と再婚して御園生姓になりました。それがあなたの義理の息子、御園生秀樹です」
久美子の父は受けとった数葉の写真を凝視する。
写っている女は見知らぬ女。
だが男は間違いなく、若い頃の娘婿だった。
写真の端に映る日付は、すべて十七年以上前のもの。
「なんてことだ…………まさか…………」
「…………ご存じなかったんですね」
呻いた久美子の父に、美咲は同情のにじんだ声で説明した。
「私はてっきり、父親のあなたも承知の上と思っていました。娘の愚行を知ったうえで、娘可愛さに目をつぶったのだと。知らなかったなら、申し訳ないことをしました。子供が親を選べないように、親も子供を選べないのですね」
「久美子が秀樹君を連れてきた頃は…………経営が大変な時で…………正直、私は娘の恋人どころではなかった。『会ってほしい』と言われても、後回しにしていて…………だから妊娠を告げられても『軽率だ』と怒りはしたが、そこまで関係が進んでいたこと自体は…………不思議に思わなかった。まさか既婚者だったとは…………」
「離婚は、娘さんの妊娠がわかってから短期間で決まりました。その男は、二歳の娘がいたくせに、妻と娘を置いて久美子さんの家に転がり込んだんです。妻はけして納得していなかった。でも久美子さんから元カレだという男達を家に寄越されて…………恫喝された妻は『娘になにかあったら』と、泣く泣く離婚届にサインしたんです」
「な…………!」
「久美子? お前、純子にそんなことを!? やけにすんなり話が進んだと思ったら…………」
秀樹の言葉を久美子の父が訊き咎める。
「秀樹君? では、君が純子という女性と結婚していたというのは、事実かね? 久美子、お前は本当に既婚者だった秀樹君と関係を持ったのか? 男を雇って、彼の奥さんを脅したのか!?」
父親の形相に娘は蒼白になって否定した。
「違うわ! 脅してなんかいない! ちょっと話し合ってもらっただけよ!! アイツが、リョウが『百万出すなら、うまく話をつけてやる』っていうから!! リョウが勝手にやったのよ、あたしは悪くない!! 犯罪なんかじゃ…………あっ…………」
すべて白状してから、久美子はそれを自覚して口を押える。
父親は深い深いため息をついた。
「お前は…………お前達は、なんということを…………!!」
父親のしぼり出すような一言に、娘と婿はそろって絶望の表情で立ち尽くす。
「結婚前に興信所でも使っていれば、事態は変わっていたかもしれませんね。御園生さんには同情します。成人した娘の不始末に親御さんを巻き込んでしまった」
「…………君は何者だ。何故、そこまで事情を知っている。君の目的は、なんだ。その田淵純子さんの親戚かなにかか?」
「母です」
数秒間、三人は美咲の言葉が理解できなかった。
「田淵純子は私の母です。田淵純子が田淵秀樹と離婚し、旧姓の『佐藤』に戻って女手一つで必死に育てた娘。それが私、『佐藤美咲』です。そこの男は、私の父親です」
この夜、最大の爆弾が、御園生姓の三人の頭上に落とされた。
「娘…………君が、秀樹君の…………?」
瞠目する久美子の父親に、美咲はさらにもう一枚、写真を差し出す。
写真には若き日の秀樹とその妻、純子。そして生まれたての赤ん坊が映っている。
秀樹は『命名 美咲』と書かれた紙を掲げていた。
「ミサ…………お前がミサなのか…………!?」
秀樹は信じられないものを見る目つきで、『娘』を名乗る、一時間前までデートしていた若い女を凝視する。
父親のその視線を、美咲は軽蔑のまなざしではねかえした。
「本当に、わからなかったの? …………お父さん」
可愛らしい顔が憎々しげに歪む。
「いくら十七年も経っているからって…………『美咲』という名前を聞いて、なにも気づかなかったの? 『佐藤』という名字を聞いて、お母さんの旧姓も思い出さなかったの? 『佐藤』も『美咲』も珍しい名前じゃないけれど、それでも二つそろっていたなら、疑問を持つことくらいなかったの!?」
美咲はずい、と秀樹の前に進み出た。その顔に、一時間前までの甘ったるい頭の悪そうなOLの面影は微塵も残っていない。
眉をつりあげて迫ってくる娘に、秀樹は最高速度で頭を回転させ、なんとか弁明の言葉をひねり出す。
「いや、まさか、職場で会うとは…………いや、そもそも年齢が違うだろう!! ミサは、俺の娘は十七年前に別れた時、二歳だった! 生きていれば十九歳だ! お前はたしか、二十三だろう!?」
「私は今年十九歳よ。二十三歳なんて言った覚えはないわ。そっちが勝手に勘違いしていただけでしょう」
「だが、『卒業したての新入社員だ』と…………!」
「高校を卒業して入社したばかりよ。大学じゃないわ。あなたが離婚後、母に不倫の慰謝料も私の養育費もいっさい払わなかったおかげで、母は私を高校に行かせるだけの貯金を作るので、精いっぱいだったの。だから私は大学には進学せず、そのまま就職したわ。今の会社は、母方の伯父の紹介で入ったのよ」
「ほら」と美咲は身分証明書を父親の前に突き出す。
社員証明書の生年月日の欄には、たしかに十九年前の日付けが記載されていた。
秀樹は頭部を強打されたような衝撃を味わい、へなへなとその場に座り込んで動けなくなる。久美子もよみがえってきた過去の罪を、恐怖と共に凝視した。
あらためて見ると、まっすぐに久美子をにらみつけてくる美咲の顔は、秀樹に似ていない。
かわりにどことなく、十七年前に数回だけ会った田淵純子の面影が残っていた。
久美子の父が確認する。
「君が秀樹君の前妻の娘ということは…………秀樹君と不倫関係にあるというのは…………」
「説明したとおり、食事だけの関係です。もっとも、その男はそれ以上の進展を望んでいたようですけど」
「しかし、いくら実の娘とはいえ、十七年前の出来事をここまで詳細に調べあげるなど、容易ではなかっただろう。まして母親は亡くなり、父親も家を出ていったあとだ。君はどうやって、この事実を知ったんだ? 誰かから聞いたのか?」
「聞く必要はありませんでした。私は全部、知っていました。記憶していましたから」
「記憶? だが君は当時、二歳のはず…………」
「私は生まれた時からの記憶が残っています」
三つの視線が美咲に集中した。
「普通は、赤ん坊の頃の記憶は忘れてしまうものらしいですけど。私は、赤ん坊だった頃の記憶が残っています。私の一番古い記憶は、生後半年くらい。ベビーベッドに横たえられて、頭の上から私をのぞき込んでいる母の顔です。もちろん、三百六十五日すべてを記憶しているわけではないですが、重要な箇所はだいたい覚えていると思いますよ? なにしろ記憶に残るほど印象的な出来事だったので」
美咲の視線が秀樹と久美子に固定される。
「私が二歳の誕生日を迎える前後からです。この女が、休みごとに家に来るようになったのは。当時の母は仕事の都合上、土日に呼び出されることが多くて…………父は家で幼い私の面倒を見るふりをしながら、この女を家にあげていたんです。そしてその女は、母のエプロンをつけて、他人の家の台所で新妻面で父に食事を作って…………本当はその女がたたんだ洗濯物なのに、あなたは『俺がやっておいたよ』と母に言ったのよね、お父さん? お母さんはなにも疑わず、『ありがとう、助かるわ』って…………」
娘の目尻に悔し涙がにじむ。
久美子と秀樹は蒼白だった。
『何故それを知っている』とその瞳と表情がありありと語っている。
「私はあなたが嫌いだった。幼くても、あなたが私の母を悪く言って馬鹿にして、父になれなれしく甘えているのは理解できたんですよ? だから私は、絶対にあなたからは離乳食を食べなかった。あなたは私を懐柔しようと、玩具やお菓子を見せびらかしたけれど、私はすべて無視しました。あなたは怒って一度だけ私を叩いて、さすがに父に叱られましたけれど、以降は私を無視するようになりましたよね?」
「…………っ!」
久美子はもはや、化け物に遭遇した気分だった。
「寒くなってきた頃、あなたは突然、家に来て…………母に迫ったんです。『田渕係長と付き合っています』『あの人が本当に愛しているのは、あたしです』『係長と別れてください』『あたし、お腹に係長の赤ちゃんがいるんです』って。私は隣の部屋に寝かされていましたけれど、全部丸聞こえでしたよ。声が大きすぎて。…………それからは大変でした。母は父を問い詰め…………父は『俺が今、愛しているのは、御園生君なんだ』『だから離婚してほしい』。そう、あっさり言ったのよね? お父さん?」
秀樹はもはや返事する気力も残っていない。
「お母さんは離婚したくなかった。やり直したかった。夫の裏切りを知っても…………それでも夫を愛していた。出ていった夫の帰りを待って…………毎晩、私を抱いて泣いたわ。でもある日、家に若い男が三人来て…………『離婚しないとタダじゃおかない』って、お母さんを脅したのよ。幸い、脅しだけで済んだけれど…………お母さんは私に危害を加えられることを案じて、離婚に同意した。そして逃げるように引っ越して、住所も父に教えなかった」
「…………」
「それでも、電話や口座の番号は教えていたんだから、その気になれば連絡をとることも、慰謝料や養育費を振り込むこともできたはずよ。でもそこの男は、いそいで離婚したばかりに、お金についてちゃんと文書を作っていなかったことをいいことに、お母さんが何度連絡しても一円も払わなかったし、そのうち連絡自体がとれなくなって、お母さんもあきらめたのよ。そして、自分一人で私を育てる決意をしたの」
美咲は一息つくと、天井を見あげる。
「十七年間、大変だった。母はけして高給取りではなかったし…………私は家事を手伝って、高校に入ってからはバイトもはじめて…………それでも高校を出るのでせいいっぱいだった。しかも母は、私が高校二年の時に癌を患って…………忙しさにまぎれて病院に行かず、倒れて救急車で運ばれて判明した時には、もう、どうにもならなかった…………」
憎しみと軽蔑に彩られていた美咲の顔が一時、哀しみに浸る無垢な少女の表情となる。
「それでも、母は立派に自分の人生を生き抜いたわ。傷つきながらも、けして私と自分の人生を投げ出さず、プライドをもって生き抜いた。最期まで後悔しなかったわ。立派に生きた。だから私も、母のことは誇りに思っている。でも」
美咲は父とその不倫相手を指弾する。
「その二人にだけは! 絶対に! 母の死を教えなければ気が済まなかった!! アンタ達のせいで一人の妻が哀しんで苦しんで傷ついて、しなくていい苦労を重ねて!! 挙句に体を壊して亡くなったことを!! 自分達が間違いなく、一人の人間を不幸に追いやったことを、一つの家庭を壊した加害者だったことを、お母さんの犠牲と苦しみの上に幸せを積みあげて享受していた悪人だったことを!! のうのうと『優秀な娘婿』の看板を掲げて、裕福な幸せを満喫するその男に! 純愛物語のヒロイン面していたその女に!! 思い知らせてやらずにはいられなかった!! 『お母さんは、あんたの手を借りなくても立派に生きた』『お母さんの人生に、あんたみたいなクズな男は必要なかった』って、必ず言ってやると決めていたのよ!!」
美咲は細い眉を吊りあげ、父とその現在の妻を罵倒した。が、ふと表情をゆるめる。
「馬鹿馬鹿しい話よね。妻子を捨ててまで手に入れた新しい家庭、新しい人生なのに、そこの男ときたら、私が誘うまでもなく声をかけてきたのよ? 自分で、自分の新しい家庭を崩壊の危機にさらしていたの。十七年前、あんなに連発していた『本気』とか『真実の愛』は、なんだったの? 四十六にもなって娘のような若い女に手を出して、しかも本当に娘だったんだから笑えないわ」
嘲笑された秀樹はもはや顔をあげることもできない。
久美子は屈辱と羞恥に唇をわななかせ、それでも反論の術を持たなかった。
美咲は席に置いていた自分のバッグをとりあげる。
「さ。私は帰ります」
「帰るのかね?」
「今さらなにを言っても、母は生き返りません。私は、ただ教えてやりたかっただけ。希望が叶ったのだから、帰ります。あとのことは夫婦でご自由に」
困惑する久美子の父にそう言い残すと、美咲は自分の分のコーヒー代をテーブルに置いて、個室を出ていった。
あとには力を失ってうなだれる一組の夫婦、そして妻の父親が残された。
その後。夫婦の間では互いの両親もまじえて、長い話し合いが行われた。
夫側の両親は息子の不義に気づいていながら『資産家の令嬢との結婚』のために黙認していた経緯が判明したため、話し合いは難航したが、やがて一つの結論がくだされた。
「けっきょく離婚しなかったそうですね、あの二人」
「そうなのよ」
平日の昼下がり。とある小ぢんまりしたカフェの隅のテーブルで。
オレンジジュースを飲みながら美咲が確認すると、向かいに座る女が呆れたように説明した。
「久美子は『とっとと離婚して、まっさらな状態からやり直したい』なんて言ってるけどね。子供が高校生と中学生でしょ? 今、離婚したら『多感な時期の子供達に悪影響を与える』って、久美子のお父さんが絶対反対で。最終的に『子供二人が大学を卒業するまで、絶対に離婚しない』って、二人とも一筆書かされたの」
「良かったんじゃないですか? 少なくとも夫側は離婚したくなかったんでしょう?」
「そうでもないわよぉ。秀樹さんは久美子のお父さんの経営を手伝っていたけど、今回の件できっぱりと後継者候補から外されて、お給料も半分以下に減額。お父さんや上層部の人達には事情が伝わって、針のむしろらしいし。それでも『離婚までは今の仕事を辞めない、お父さんの監視下からは出ない』って、これも一筆書かされたしね。久美子も離婚したいのに離婚できないうえに、秀樹さんは毎晩、帰宅するし、『子供達の前では仲の良い夫婦を演じて、絶対に不倫の件は気取られないこと』も条件に加わったんですって。もし条件を一つでも破ったら、二人とも御園生の家を追い出されて、遺産ももらえなくなるそうよ。インパクトはないけれど、じわじわと効いてくるペナルティだと思うわ」
ころころした笑い声が明るく説明する。
「なるほど。…………あのお父さんは、本当にまともな倫理観の方だったんですね…………」
向かいの女が楽しそうに、期待に満ちた笑みで美咲へ身を乗り出してくる。
「ねぇ。子供達に本当のことを教えてしまえば? 秀樹さんも久美子も御園生の家から叩き出されて、明日から路頭に迷う様が見られるわよ?」
「しませんよ。少なくとも、私からはなにも言いません。子供は親を選べないのに、親の起こした問題には否応なしに巻き込まれてしまう。子供はあくまで被害者です」
きっぱり言い切った美咲に、女はつまらなさそうに唇をとがらせる。
「あっそぅ。無欲ねぇ。もっと久美子達を苦しめられるのに」
「苦しめたいのは、あなたでしょう。大野真弓さん?」
「あはは」と真弓はけらけら笑った。
「じゃあ、私は行きます。あなたとはこれきりです」
オレンジジュースを飲み終え、美咲は立ちあがる。
真弓が興味本位で訊いてきた。
「あなたはこの先、どうするの? 久美子から聞いたけど、かなりの額をもらったんでしょ?」
御園生家の話し合いのあと。父、秀樹が払わなかった慰謝料と養育費、そして今回の件の口封じも兼ねて、美咲は八桁の金額を手にしていた。
全額、久美子の父が立て替え、今後は秀樹と久美子が少しずつ返済していくのだという。
あの二人には、まだ二人の子供達の学費の問題もある。
子供達が手を離れだした専業主婦として自由な時間を満喫していた久美子だが、これからは働きに出なければならないし、秀樹も減額された給料で借金を完済するには、相当な時間と労力を必要とするだろう。
美咲は肩をすくめる。
「とりあえず、職探しです。前の会社は辞めたので」
「本当のことを話したら? 秀樹さんとの不倫を疑われて、居づらくなったんでしょ?」
「言いません。新しい仕事を探します」
そう言ったが、内心では美咲は大学受験を検討していた。
今ならバイトをしなくても、受験勉強さえどうにかなれば進学は可能だ。とはいえ、一生食べていける金額でもないので、もう少し検討をつづけようと思っている。
だが、そこまで大野真弓に説明する理由も必要もない。
美咲は自分の分の代金を払ってカフェを出る。
真弓は一人残ったテーブルでゆったりコーヒーをすすった。
こんなに清々しい気分は何年ぶりだろう。
真弓は久美子の不幸に、深く深く満足していた。
久美子には悪癖があった。
物でも人でも、他人のものと知った途端、欲しがる悪癖だ。
その悪癖で、真弓は何度も久美子に煮え湯を飲まされていた。
気に入っていた真弓のリボンや文房具、アクセサリー、バッグ、レポートや宿題…………。
それでも、物で済んでいるうちは我慢のしようもあった。
だが『人』は。
久美子は真弓の高校時代の彼氏に手を出した。真弓が久美子を問いただせば、
「だって真弓が好きになるくらいだもん。すてきな人だったから、我慢できなくって」
と、「てへ☆」とばかりに笑った。本当に、そういう笑い方だった。
以後、真弓は久美子に恋人を紹介することはやめた。
今の夫も、真弓の結婚式の時にはじめて顔を合わせたくらいだった。
以降は仕事や子育てを理由に、久美子とは距離を置いていたのに。
真弓は知っている。
久美子はいつの間にか真弓の夫と連絡をとり、二人で密かに会っていた。
真弓が感知した限り、関係は一時的なもので、互いに遊びと割りきっていたようだ。
が、それでも裏切りには違いない。
真弓の中で、学生時代から自分のものを奪われつづけてきた怒りと恨みが再燃し、真弓は久美子への復讐を決意した。
そして、あれこれ機会をうかがっているうちに、久美子自慢の『他の女から奪ってやった戦利品』の有能な夫、秀樹の動向が怪しいことに気づき、彼の周囲をさぐっているうちに、秀樹が目をつけていた新入社員――――佐藤美咲の存在を知って、接触したのである。
美咲と真弓はグルだった。
でなければ、あんなにスムーズに秀樹の浮気が久美子にばれるはずがない。
真弓は美咲と結託して、久美子と秀樹があの夜にあのバーで鉢合わせるよう、連絡をとりあいながら時間や店を調整し、タイミングを計ったのだ。
「すみませーん」
真弓は手をあげて店員を呼ぶ。
「メニューを持って来てもらえますか? それとコーヒーのお替りも」
「かしこまりました」
メニューと二杯目のコーヒーを持ってきた店員に、真弓は心からの笑顔と言葉を贈る。
「こちらのコーヒーはおいしいですね。こんなにおいしいコーヒーは久しぶりです」
「ありがとうございます」
店員は笑顔になって厨房に戻っていく。
「ど、れ、に、し、よ、う、か、な?」
真弓はメニューを開き、うきうきとケーキを選びはじめた。
実際に、赤ん坊の頃の記憶があるという人は、稀にいるそうです。




