A.M.?P.M.?(2/2)
そのメモを残したからといって、次の日彼と目が合うようになる…ということにはならなかった。
黄緑色のノートはもう立てらかしていない。
それでも私に不安はなかった。
その人はきっとメモに気づいて、それが私だと彼は分かって、そしてその時間に速水さんは来てくれるって。
彼のやさしさに気づいたんだ、何もこわくない。
現に彼のパソコンの右下に、私が残したピンクの付箋はもうなかった。
+
8日 朝8時。
既に出勤していた私は、時計をちらりとのぞいて
あと12時間で付箋に書いた時間だ、ってふと思った。
当然仕事は、個人の都合に合わせて量が減ったりなんてしてくんない。
ましてやいつもより多いといっても過言ではないほどだ。
万が一にも行けないってことがないようにてきぱきと仕事に身を入れる。
そういえば何の因果か、内川くんと長嶋さんがお昼を外に食べに行く日は今日らしい。
彼らに「市田もどう?」と誘われたけれど私は断った。
みっちり1時間、彼を待ちたかったので休憩をお昼にとりたくなかったんだ。
彼はどうやってその時間に来るのか知らない。
というか今だって彼の姿はデスクにないし……。
パチンと私は両頬を軽くたたいた。
仕事だ仕事だ!
悩むのはあと12時間後にとっておかないと。
そして、真っ暗闇の8時。
深呼吸して、私は給湯室のドアを開けた。
「お疲れ様です。」
「お、お疲れ様です。」
動揺した私はつい声が淀んでしまった。その人は速水さんじゃないのに。
挨拶を交わしたのは隣の部署の男の人だった。
私は彼に違和感を持たれないようコップにコーヒーを淹れ、
流し台に寄りかかるとゆっくりそれを飲み始めた。
幸いなことに彼はもう出るところだったのか、
2口ぐらい私がコーヒーを含んだところで「失礼します。」と出て行った。
ふはぁと私はたまらず深呼吸する。
バクバクバクバクさっきから心臓がうるさい。
時計はもう5分をすぎた。
俯いた私の脳裏に、あの日がフラッシュバックしてくる。
飲み会が仕事でこれなかったみたいに今日も都合が悪かったら……。
30秒後、
それが杞憂に過ぎなかったことを私は知る。
「はあ。」
ため息が一つ。私のじゃない。
顔をあげた私は、びくっとして。
たまらず彼から目線を外した。
…いきなりため息つかなくたって。
藍色のスーツに小さく私はぶつくされた。
「どうした?」
先に口を開いたのは速水さんだった。
部屋の中にまで進み、コーヒーをコップに注ぎ始める。
「えっと…。」
話したいことは山ほどあった。
でもありすぎて、どれから話していいか、どういう風に話したらいいか……。
「さ、サンドイッチ……食べたいなって。」
言ってすぐに、ばかって自分につぶやいた。
サンドイッチなんて話したいことに一番かけ離れている話題だ。
悔恨の念にかられる私とは裏腹に、
彼は可笑しそうに
「うん、いいよ。1個?」なんていう。
私はこくんと一度頷いた。
別に欲しかったわけじゃないのに。
「3個ぐらい頼んでもいいんだよ?」
「そ、そんなに食べないですよ!」
「ふ~ん。」
彼はまだ笑っている。
のっけからこの調子、彼の思い通りだ。
ちゃんと話せるかと先が思いやられる…。
でももしかして今も彼にすくわれちゃったのかもしんないな。
心臓がさっきよりもおとなしくなってる。
「ファイル。」
「え?」
「何落としてんだよ。」
コツンと彼の小突きが私の頭にふってきた。
「すみません…。」
「会議室入って足元に目立つ青いものが見えたからすぐ気づいた。」
「私のだって…ことですか?」
私の横に同じように流し台にもたれた彼は頷く。
「あんな目立つ落とし物するようなおっちょこちょいは、
市田か内川ぐらいしか思いつかない。」
失敬な…とむくれながらも、
彼の心なしか綻んだ表情を見ると何もいえない。
代わりに
「パソコンのピンクの付箋。」そう呟いて
「私だってわかったんですか。」
話を新たに切り出した。
「…そうだね。」
「ちょっとだけ、来てくださらないかと。」
「どうして?」
私は俯く。
「怒って…らしてるのかなって。」
「怒ってはないよ。ただ…」
「ただ?」
「…いや、何でもない。」
速水さんはコーヒーを飲んだ。
ただ…、何だろう?
私も彼と同じことをする。
「最近もしかして残業してる?」
速水さんが首を傾げる。
「あ、はい。ちょっとここのところ…。」
「無理すんな、帰りも危ないし寒いし風邪ひくぞ。」
私は頷いた。
「…っていっても市田は残業するんだろうけど。」
笑う速水さんにつられて私も微笑む。
本当に安心できる笑顔をする人だ……。
「速水さんは優しいですね。」
「…意地悪じゃなかった?」
一緒に仕事をしたとき、そう言っちゃったんだっけ。
彼にからかわれてばっかりだったから。
「あの時はそう思ってました。
でも、誤魔化しているだけなんですよね?」
彼は私の方を見なくなる。
「だいぶ前私のデスクに置いてあったコーヒー缶。
速水さん…でしょう?」
「ファイルの中にあった薄黄色の付箋も。」
「違うよ。」
誤魔化すように笑う彼に私はフルフルと首を振った。
だけど彼は
「ファイルは落ちてたから拾っただけ。
コーヒー缶は長嶋だよ、俺なわけないだろ。」
と言って、私が予想した通り私の答えを相手にしない。
「私、知ってます。
速水さんがどんな字、書くのか。
一緒に仕事させていただいたとき、書かれてた文字見えたから。」
珍しく私は強気で食ってかかった。
でも、彼はムキになっている私の気持ちを無視して、また話を逸らし始める。
「市田。」
「はい。」
「俺、怒ってないから。」
苦笑しながら言う彼、
「だからさ、そんな俺の機嫌うかがって無理に取り繕うとしなくていいよ。」
彼は一気にコーヒーを口に流しいれる。
私のは、まだ2口しか減っていない。
「4人で飲むとき、このままじゃ気まずいって思ったんだろ?
お前のことだから。」
「…気まずくないですよ。」
負けじと言い返した私に、
「飲んだとき嫌そうにしてたくせに。」
苦そうに彼はつぶやく。
「あの、それは―――」
説明しようとした私。
「もういいよ。」
「え?」
脆く、呆気なく、私の言葉はプツリと閉ざされる。
「この間の飲み会行けなかったのはただ忙しかっただけ。
市田がいるいないは関係ない。もうこの話は終わりな。」
口早に言うとぐしゃっと彼はコップを握りつぶした。
「飲みの付き合いの場に私情持ち込むほど、俺は変な歳の食い方してないから。」
「だからさ、もう本当俺のこと気にするな。」
速水さんは笑って目を合わせてきた。
隣にいるのに、なんでだろうな。
目が合っているのになんでだろうな。
今は、遠い。
手を伸ばせば触れられるのに、すごく遠い。
そのコップが示す意味を知っているから、すごくすごく痛い。
「速水さん……」
ありがとうってただ伝えたかっただけなのにな。
気づくの遅くなってごめんなさいって謝りたいだけ。
あなたの機嫌をうかがうために取り繕うとして言ったわけじゃない。
そんな理由で呼び出すわけないじゃん――――
「速水さん、はやみさん……」
避けてたのは違うんだよ。
嫌いだからじゃないんだよ。
彼はふっと小さく笑いをこぼした。
「サンドイッチは明日の朝冷蔵庫入れとくから、好きなとき取りな。
お金は飲み会行けなかったお詫びってことで。」
そんな私の気も知らないで、
彼は掛け構いなく飲み終わったコップをあっさりとゴミ箱に手放した。
「早く帰れよ。」
速水さんは給湯室のドアに手をかけにいく。
ためらいもなく。
振り返らず。
1歩1歩ドアに向かうたび。
彼の背が小さくなった。
あーあ、行っちゃった。
また、当分話せなくなる、1か月半がまた来ちゃう。
長いなぁ、今は12月だから今度は2月になってるや…
「速水さん…。」
ぽつりとつぶやく。
違うね、今度は
「待ってください!」
無期限かもしんないね。
ぐいっと後ろ背の彼のスーツの裾を引っ張った、
しかし私は大事なことを一つ忘れていた。
彼を引き留めることに意識が全面的に持っていかれていたからかもしれない。
「あ゛!」
左手に持っていたコップから、
勢いよくコーヒーが波打ち、彼の足元横にびしゃんという音。
「え?」
若干つんのめっていた彼も足元を見て、
「やっちゃったな。」
そう言いながらかけていたドアノブから手を離した。
彼を引き留めるのがこんな形になっちゃうなんて。
「す、すみません。」
「大丈夫だから雑巾取って。」
彼はしゃがんでそれを求めるように私に手を伸ばした。
私は雑巾をとり伸ばした彼の手に乗せると、続いて布巾を濡らして彼のズボン裾をふき始める。
「俺のはいいよ。
ちょっとだけしかかかってないから。」
彼はすぐにそう言ったけれど、
「コーヒーって少しだけでも匂い残っちゃいますから。
…床拭かせちゃってごめんなさい。」
聞かずに私は淡々とふき続ける。
言っても聞かないと分かったのか観念して
「…市田床拭いてくれる?
俺のは自分でやるよ。」
持っている布巾と雑巾を私たちは交換した。
床にこぼれたコーヒーを拭くついでに、目立ってた床汚れも掃除し始めた私に、
「おら、ついでに掃除始めない。」
速水さんが私から無理やり雑巾をはぎ取って、布巾と一緒に洗面台で洗い始めてしまう。
「ちゃんと裾ふきましたか?匂い残るんですよ。」
じろりと私は彼のズボン裾に目をやる。
「大丈夫だから。」
くすりと彼は破顔した。
「お前は本当真面目だからいろいろ手妬くよ。」
「…そんなことないですよ。」
「あるね。」
否定の言葉は間髪入れず。
「どういう所ですか。」
たまらず私が聞くと、速水さんはそういわれると困るとクスリと笑う。
「やっぱりないんじゃないですか…。」
「冗談。」
彼のその言葉に「意地悪。」と言いそうになったけど今は思っとくだけにした。
「でも、少なくとも俺は頑張り屋だって市田のこと思ってる。
長嶋もいい子だってよく褒めてるよ、お前のこと。」
「…や、めてください。」
嬉しかったけど、恥ずかしかった。
速水さんに言われてるんだから余計だ。
なんか、とっても、くすぐったい。
「たまにぽけーっとしてるけどな。」
まぁその彼の一言で、恥ずかしい気持ちは吹っ飛んでいったけどね。
褒められてからかわれて、
コーヒーこぼす前の雰囲気はどこへやら私も速水さんも普通に話す。
そんなとき速水さんは言ったんだ、
「長嶋にもよく見るように言ってんだけど、
あいつもあれで結構不器用だから…。」って。
やっぱりって思った。
見つけられていない優しさをまた見つけた。
「……長嶋さんにですか?」
「うん。たまに飲むから二人で。」
「隣の部署なのに、私のことを心配して?」
「……。」
返ってこなくなった返事。
封切るように私は言った。
「速水さんなんでしょう?
付箋もコーヒー缶も。
私のこと心配して、長嶋さんに声かけてくれていたみたいに、
してくれてたんですよね?」
速水さんは何もいわないでじゃーっと水で雑巾を洗う。
先ほどまでの饒舌が嘘みたいに、
何度言ってもそれが俺だと肯定してくれそうにない様子――、
でも構わず私はつづけた。
「私、ずっと分かんなかったんです。
すぐにからかってくるし、意地悪ばっかりだし、」
「……告白してきた人がするようなことじゃない、から、何なんだこの人はって。
じゃぁあれは間違いだったのかなと思って、はっきりさせたくて
告白は何だったんですかって聞いても速水さんははぐらかすだけ。
好きか嫌いなのか全然分かんない。
速水さんのことどんな人かも全然知らない。
仕事中もつい意識してしまうし、支障をきたしそうだったから
これ以上速水さんのこと考えるのやめよう、関係を絶った方が楽だって……
だから私は避けてました。」
きゅっと水を止める音が響く。
「でも、気づいたんです。」
「気づいた?」
こくんと私は頷く。
「速水さんは意地悪で、全然優しくないけど、
でもそれは隠してるだけで、
本当はすっごく優しい人だって…。」
「優しくないのに、優しいの?」
くすっと速水さんは意地悪そうに笑う。
「…優しくないのに、優しんです。」
「だけど。」
「だけど?」
速水さんは洗ったそれらを置いて私の方に向き直る。
「気づくのが、私は遅かったのかもしれません。」
私は視線を床に落とした。
「避けたのは嫌いだからじゃないです。
今日呼び出させていただいたのも、それを言うためなのと、
ありがとうございますって伝えたかったから。
優しいことたくさんしてくれたのに、分からなくてごめんなさい。
避けて傷つけちゃってごめんなさい。」
「速水さん。
もう、嫌いになりましたか…?」
視線を上にあげることができず、
ただ
ポタ、ポタと蛇口から水滴が落ちる音だけ、私は聞く。
5滴、いや10滴ほど耳にそれを入れて
「えっと。」
彼の声が、はいってきた。
「俺のこと嫌いじゃないわけ?」
ポタ。
滴がまたシンクに落ちる。
小さく上下に頭を振った。
「…あ。」
「あ?」
一音だけ聞こえて。
続かなくなった言葉に何だろうと顔をあげると
「あ、せったー…。」
ため息交じりな声、その大きな手で顔を覆い隠している速水さん――。
「嫌われたんだと思った。」
言葉を発している今だって、彼は顔にやっている右手をどかそうとはしない。
見える彼の右瞳はそっぽを向いて、落ち着かない様子……
でもそのほうが都合がいい。
彼の好色染みたその瞳に今捕らえられたら、私どうしていいか分かんなくなってしまう。
「先日の飲み会の時に同じことをお話しさせていただこうと思ってたんですけど、
来てくださらなかったんで、呼び出すしかないなって…。」
「あぁ、うん。」
はっきりとしない返事。
「実は今日速水さんから聞く以前に、
内川くんから飲み会来られなかった理由私伺ってたんですよ。」
「あ、そうなんだ。」
まただ…。
ちゃんと速水さん、私の話分かってくれてる?
「伺う前は私と顔合わるのが嫌で来なかったのかなってちょっと…、」
思ってました。という私の語尾はうやむやになった。
「嫌なんてあほか。」
うだつの上がらない返事をしてた速水さんが、今度はきっぱりと発したから。
「行こうとしてたよ。」
彼が手をどかして、隠していた表情が露わになる。
一瞬速水さんを盗み見みたものの、
「はい。」と頷く私はまだ視線が定まらない。
どきどきどきどき、胸が騒がしい。
「あの、で。」
私は蛇口をきゅっと捻った。
気を少しでも紛らわせたくて。
「ん?」
彼の首辺りを見て私は言う。
顔を合わせたらとてもじゃないけど平気でいられなくなりそうなんだ。
「答えまだ聞いてないんですけど、
コーヒー缶とかして下さったの、速水さんでいいんですよね?」
「……。」
てっきり「うん。」とすぐに返事が返ってくるものと思っていた私は
この変な間に違和感しかわいてこない。
あ、れ。
本当に返事がなかなか…、
「ファイル拾ったのは俺。以上。」
伏せていた頭をパっと私はあげた。
ここにきてまだ認めないの、速水さん…!
強情な彼に半ば呆れた私だが、
速水さんは速水さんで、もう質問は受け付けませんとばかりに口を固く締めている。
話す気がないと悟った私は観念して、
「じゃぁ勝手に思っておきます。
絶対あれは速水さんだから。」
彼に向き直るのをやめ流し台に体を預けた。
何で、そこまで話したがらないんだよ…。
そんな恥ずかしいことでもないのにな。
不服気にちらりと盗み見て、
目線が合って、
一瞬何も考えれなくなって―――私はまた、眼をそらす。
ずるいなぁ、見つめてくるとか。
男の色香ってやつに惑わされちゃうよ。
「携帯。」
変わらず速水さんはつづけた。
私はまだ心乱されてるよ、なんて冗談でも言えないから
「…何ですか?」って平常心を装う。
「見たよ、昨日。」
軽い返事をしながら、
その話もあったなって考想をめぐらす。
「内川から俺の連絡先貰ったの?」
「はい。」
内川くんから無理やり…は失礼か、
内川くんのご厚意で連絡を貰って
えっと悩みながら送った短い文章、確か3,4文ほど。
送ってからも返事来ないってうずうずしてたけど、
こうして話せてる今はもう大した問題じゃないのかもだな。
結局彼に連絡を送った私の心内は、
ただ話したいってだけだったんだから。
それにしても何て送ったんだっけ、
確か―――あ…、
まずい。
「仕事立て込んでるとき、あんまりつつかない主義だから。」
「そういう理由でしたら、安心です。」
ぴしゃりと言い切り、
「速水さん。」私は次の話題を提示しようとした。
早くはやく―――でも遅い。
彼は私の言葉を無視して声を上乗せすると、
「飲み会、来てほしかったんだ。」って
意地悪く、ほくそ笑んでる。
あーもう一足遅かった。
寝首を掻かれるってこのことだ。
「うるさいですよ、!」
精一杯の抵抗、恥ずかしくて困ってることを何とか私は隠したい。
「へー、来てほしかったんだ。」
そんな反応を楽しんで彼はくすりと口元を緩める。
「私、何も言ってないじゃないですか。」
「そういう表情してる。」
ハハハっと速水さんは笑った、お得意の見透かしを披露中らしい。
「さっきまでのおとなしい速水さんに戻ってくださいよ。」
そっぽを向いてむくれる私。
「避けてたの嫌いじゃないなら何だっけ?」
彼はわざとらしく首をかしげる。
止まぬ追及にかあーっと頬が上気した私は
「速水さん、こそ、避けてたじゃないですか!」
答えるのを免れるようにムキになって尋ね返した。
「好かれてない人にしつこく関わっちゃだめだろ…。」
「まぁ、それはそうですけど。」
冷静な彼の答えに空気がいったん落ち着く。
「それに、」
彼がつづけた。
「それに?」
「……押してもだめならひいてみろ、みたいな。」
「はい?」
「あー、やっぱ何でもない。忘れて。」
どぎまぎした口調で言った彼は、今度は内が見えるよう手を額に当てた。
そっぽ向いて全然私の方を見てこない。
「何なんですか?」
その、押してもだめならひいてみろって。
聞いても答えてくれなかった。
それどころか目線すら合わせてくれない。
変な速水さん。
私は彼が言った言葉を頭打ちで繰り返した。
「ヒントないんですか?」
またも私の言葉だけが空を舞う。
おーい、と私は上半身を回り込ませて彼の顔色を伺った。
と、彼は途端に体を少し他所にそむけようと動く。
……もしかして。
私はもっと体を回り込ませた。
「速水さん。
照れてますか?」
じろり、彼は手を顔からどかし、眉間にしわを少し寄せて露骨に嫌そうな眼
「うるせー。」
するや否や私の頭をお得意の右手中指で小突く。
ジンときた鈍痛に彼を横目で見て無言の訴え、
速水さんは知らんぷりして視線をどこかに外してる。
だけどすぐに私は笑った。
彼の頬がほんのり朱がかっていたから。
「にやつくなよ。」
後ろ髪をかきながら彼がぶつくされる。
「ごめんなさい。」
でも私はまだ笑ってる。
「あー、もう。」
彼は心底嫌そうに、そして心底照れくさそうに、笑った。
そんな笑いに一区切りがついたところで、
壁にかかっている時計を何気なく確認すると既に30分が経とうとしている頃だった。
「そろそろ戻りますか?」
冷静に考えてみればここは給湯室、誰が休憩しにきてもおかしくない。
最も、時間が時間だからその可能性は昼間よりも下がるわけで、
だからこそ誰にも邪魔されずに今まで二人で話せていたんだろうけれど。
「俺に話したいことないの?」
「私は結構すっきりしてます。」
伝えたいことも聞きたかったことも十分消化できた、第一こうして彼の前でも素直に笑えているし。
が、一方の速水さんはまだ何か言いたげな様子。
「聞きますよ。」
微笑みながら首を傾げた。
すると彼は一泊置いて大きく息を「はぁっ」と吐く。
「速水さん、さっきもそうやってここ入る時ため息してましたよね。
ちょっとショックだったんですからね、私。」
2回目のそれを冗談交じりに指摘した。
指摘できるようになるほど、私は彼を心の距離近くに感じていたんだ。
「…市田のせいだろ。」
「なんで、私のせいなんですか?」
彼は一瞬ためらって、だけど気まずさそうに
「朝もここにきてたの、俺。」って。
「恥ずかしすぎる。」
彼がボソッとつぶやいた。
「朝?」
どういうことですか、また私は首をかしげる。
「…午前の8時もあり得るじゃん。」
後ろ髪を彼はせわしくかきながら
「お前、午前か午後かちゃんと書けよ。」
いじらしそうに言った。
「……え。」
それって、心配になって朝、つまり午前8時にも給湯室来てたって…ことだよね?
わーっ、それは何というか、、
照れくさい……
「感銘受けてんな。」
浮かれてる私の頭を元に戻すように、ゴツンと彼は強めに小突いた。
「すみません。」
思わず叩かれた頭を手で押さえてしまいながら、私はそろーっと彼を上目で見る。
嬉しくて。
すると彼はじろっと私に向き直って、
「仕事でしてたら誤解されて大変なことになるかもだぞ、気をつけろよ。」
そう上司らしく私に告げた。
途端に私はしゅんとなる。
叩かれたって、嬉しいって気持ちでしかなかったのに、
彼の言葉で一気に仕事でそんなことがあったらって、考えさせられちゃったから。
そうだよね、ついうっかりなんて仕事には通用しない。
万が一ってことがないようにしなくちゃいけないんだ、速水さんは的を得てる。
「市田。」
と、彼が私の名前を呼んだ。
「嘘だよ、照れ隠しで言っただけだから。」
顔をあげて目が合うと彼は照れくさそうに視線を下にさげて、
「だから落ち込むな…。」
優しく私に告げる。
「ちゃんと夜だとは思ってたけど、
朝行ってみていないの確認したらしたらで、変に焦ったから…。
本当に市田くんのかなって。」
「んで夜行ったら普通にいるし…、なんか気が抜けて。」
それだけ言って彼は手の甲で顔を隠しながらそっぽを向いた。
今彼が言ってくれたのはため息した理由らしかった。
照れながらの不器用な説明。
彼の仕草とか表情の火照り具合が彼の心内を物語ってる。
あー、本当いちいちこの人は……
どきんと胸がうずいた。
あの意地悪な速水さんが、
私のことで今こんなに照れてるよ。
彼の頬の朱が私にも伝染して、二人の間に妙な時間があいた。
「市田。」そんな時にふいに彼が私の名前を呼ぶ。
なんですか、って私はぶっきらぼうに聞き返す。
私もたいがい素直じゃない。
「……まだ、付き合う?っていうか、
交際…は早いんだよな?」
慎重に慎重に、な速水さんの言葉。
……ふいうちずるいや。
まだ照れはひいてないってのに。
私はそっぽを向く。
「お、おーい。」
速水さんの少しだけ焦った口調が横から聞こえてきて、ようやく私はうんって返事した。
追い打ちかけるみたく、
恥ずかしいことを続けて言ってきた彼へのちょっとした仕返しだ。
もしかしたらそう企んでたことがばれてしまうかも、
と私の頭の片隅によぎったが、今回は例外らしい。
「待つから。」
そう言って速水さんはいつもの意地悪い表情とは反対に、嬉しそうに微笑んでいたから。
だけどそれを見せてくれるのは一瞬だけ。
すぐに顔をふいっと他所にやる。
「…ずるい。」
彼の表情が、絶賛頭の中を独占中だ。
当の本人は何もなかったという顔でつったってるってのに。
優しそうに笑った彼の表情にひどく惹かれてるんだ。
そんな風に彼のことを考えていたから
「市田、」って私の名を呼ぶ声を私は聞き逃した。
「市田?」
もう一回彼がよぶ。
「へ?あ、はい。」
裏返った前半の声が恥ずかしい。
「照れてんの。」
彼がくすっと笑いながら、腰を少しまげて私に目線を合わせてきた。
私の身長156センチ。
彼の身長178センチ。
20センチほどの距離が一気になくなって、今の身長差0センチ。
瞳がゆっくり閉じて開いて、
彼の右目じりほくろが、色っぽく私を捕らえる。
か、顔が近いよ!
手で顔をガードしたくなるのを抑えながら私は目線をせわしくどかす。
「恥ずかしい?」
彼が意地悪く笑う。
「そんなこと…ないです。」
なけなしの一滴を絞り出すかのように、私は弱く。
「本当?」
いやらしくまた弱いところを突いてくる。
「……う、も、もう、恥ずかしいですよ。」
たまらず私は離れてとばかりに彼の肩をトン、と押した。
ふらつきもせずに彼は背を屈めるのをやめてくれる。
「市田は、からかいがいがあるよね。」
私が焦がれたあの表情とは別の容貌で、ハハハって破顔した彼、
「そろそろ戻るか。」
お気楽そうに告げてくる。
…自分が照れてるときは嫌でもこっち見ないくせに。
内心むくれた私。
「ゆっくりでいいから。」
ポンって彼は私の頭を撫でる…とはいかないけど手を優しく置いた彼に、
私は「亀のペースで行きます」って言った。
「え、それはどれくらいの…?」
後に続くはずだったペースという文字が消えてなくなる。
「とてつもなくゆっくりですよ!
slowじゃないですから、most slowlyですから!」
興奮気味に答える私。
「はぁ?」
彼がどういうことだよってつづける。
「いっぱい意地悪するからです!
もうからかう速水さんなんか嫌いだ!」
ふてくされた私に
彼が焦った様子で「ごめんって。」って笑いながら謝ってくる。
「ばか。」
だけど私は彼に何度もそう言う、
「ごめん。」
そのたびに彼がそう返す。
それが何回か続いて、
「…サンドイッチ2つですからね。」
そう折れた私に、
彼は「分かった」って笑った。




