赤いブレーキランプ
青色:
安定感や冷静さ。
勝負ごとや大きな決断をするときなど、キャリアカラー。
冷蔵庫の一番下の段、
あまり冷えないようにと気遣ってくれたのか
わざとらしく手前に入っていたそれを私は取り出した。
すぐに冷蔵庫を閉める。
袋は手に取った途端、ゴワっと音がなった。
たぶんビニール袋じゃなくて茶色の紙袋に商品が納められてるから。
最近はビニール袋がめっきりだけど、
そうそうここのパン屋は昔ながらの紙袋で渡されるんだ。
味もいいけど、こういう昔ながらの感じ仕様なのがますます嬉しかったりする。
ほら、映画とかできれいなお姉さんがよくフランスパンを大きな紙袋に入れて
街道を歩いてたりするじゃない?
あれみたいに。
といっても、袋の表には速水さんの名が特に書かれていたわけでもないし、
100パーセントそれだという確信がもてたわけではない。
本当にこれかな?
と一瞬疑って、紙袋を手中で一周させてみる。
最後の側面をひっくり返して、杞憂に過ぎなかったことを私は悟った。
絶対これ!
すぐに思った。
だってそこには見覚えのある、薄黄色の付箋がぺたりとくっつけてあったから。
おまけに男勝りな字で
『サンドイッチ 市田』とも書いてある。
お笑い芸人にいそうな名前だ、なんて
書いてあった言葉に思わず吹き出しそうになりながらも、
隣にはほかの社員さんが休憩を取っていらしているので、何とか堪える。
思い出し笑いでもしそうなので
そそくさと、他の社員さんに挨拶を交わすと急ぎ足で自分の席へ戻った。
もちろん前もって汲んでた、コーヒーが入ってるコップも一緒に。
デスクに座ると、早速紙袋から3つともすべてを取り出した。
一気に私のデスクの上をそれらが支配する。
味は卵、レタスとハム、シーチキン。
指定したわけでもないのに、全部私が好きな奴。
ちょっとだけ嬉しい。
好きな味だから、ってのもあるけど、好みが一緒なんだ、ってこと、でもあるから。
黄色の紙で梱包してあるそれを剥ぎ取り、ハムっと一口頂く。
パンの焼き色がカリッと音を立て、パンの内はふわっと優しく広がった。
中の具材のレタスはシャキッ、ハムは艶っと柔らかい。
その対比が面白くて、本当に、美味しんだ。
とにかくとてつもなく。
何円なんだろう、このサンドイッチ。
食べながら、2つのうちの一方を手に取った。
これだけ美味しいのだから値段はどれくらいなのかという興味でひとつ。
あとは、お金を返さなきゃいけないから
値段があって貰わないと困るっていう私事でふたつ。
しかし反するように、それらしきシールは張られていない。
当然ご丁寧にレシートが袋に入ってる、なんてこともなく。
給湯室で汲んだコーヒーは困った私を、嘲るかのようにゆらゆら湯気をあげて、おいしそうな香りをかき立てる。
…聞いてもいらないっていうだろうしな。
ちらりと湯気の合間からその人をのぞいた。
私の気も知らずに彼は仕事に向かってる。
彼の背を見ながら少しだけ悩んで、
そうだ!って妙案を思いついた私は二口目を頬張ると、引き出しからいつかと同じ付箋を取り出した。
それから無事本日の業務は終了。
サンドイッチが効いたのか、エネルギーを十分に補充できた私は、この日早めに帰宅することができていた。
夕食をとりいつもならだらけてしまう所を、
5分も置かないうちに動き出し片づけると、その流れでお風呂も済ませてしまう。
まだ21時前。
随分と就寝まで余裕がある。
何をしようかな~、
タオルで髪をガシガシふいていると、
私は携帯がピカピカと光っていることに気がついた。
遥かな?
電源を入れロックを簡単に外すと、ポップアップ画面が表示され
連絡をくれた人の名前と文字が大きく表れる。
お。
心のうちで変な声をだして、私はその人の連絡先の画面を開いた。
『ド阿保』
『お金いらないっつの。』
……あほは余計だっつの。
というか、始めてくれた連絡がド阿保って!
1人ツッコミを終え、
なんだかなと思いつつも笑いながら私は文字を打ち込む。
『値段も教えてくれないだろうし、
手渡しでも受け取ってくれないと思ったので、
帰り際デスク上に置いておきました。
お疲れ様です。』
サンドイッチ食べてる途中、
付箋を取り出したのはそれをするためだった。
真四角の付箋に軽く文字を書きおとし、
十分か不十分か分からないけど平均をとって500円玉をひょこりはせたんだ。
速水さんはすぐに返事をよこすタイプじゃないので、
待っている間に歯磨きを終わらせると、
『手渡しがよかったなー、』
『あほあほあほ』
と先ほどに引き続いて2件。
『なんでですか?』
『でもお金足りてないでしょう?』
今度は間髪入れずに
『なんでだと思う?笑』
『足りてるよ、おつりが出るぐらい。』
と返信が来た。
携帯を挟んでいても速水さんだな、と思いながら
彼から来た2言目で、また嘘っぱちいってるってすぐに思う。
『画面の中でも意地悪してこないでください。笑』
『絶対嘘ですよ!足りませんって。』
『ばれた?笑』
『嘘はつきませーん。』
『大バレですよ!』
『また嘘ついて!』
何通か交わし、23時ぱったりに速水さんの連絡が来なくなる。
寝ちゃったのかな、と思っていると23時30分。
『お釣りの分、今度飲みで返す。』
一瞬意味が分からずに
1拍2拍おいて、私の頬がぼっと火照り始める。
照れくささやら何かやらで、
もう今日は返事が返せないと思った私は、狸寝入りを始める。
目をつむる、1秒、2秒、3秒…あーだめだ!
眠いのねの字もでてこないぐらい寝れる気がしない。
飲みって2人?それともみんなで?
お釣りの分飲みって、お釣は一体何円?
そうやってぐるぐる考え事が絶えず寝る邪魔をしてきてんだ。
気になる気持ちの方が勝った私は、携帯を再度手に取って
彼に人数を尋ねる連絡をついに送る。
23時47分と時間が小さく文字横に表示された。
気づかぬうちに日付がまたがろうとしているようだ。
結局のところせっかく早く帰れたのに、
眠りにつけた時間は普段よりも遅かった。
+
だめだ、思い出せない…。
昨日から考えているのに、頭を何度捻ってもサンドイッチの値段が一向に浮かばない。
それもそのはず、おいしいそれが売られているパン屋に私は半年ほどもう行ってないんだ。
思い出すをことをあきらめた私は、
今日のお昼メニューである目の前のおにぎりにかじりつく。
デスクの上には携帯を開いていて、
もしかしたら返事が来ているかもと速水さんのトーク画面を確認中。
だが無情にも一番下には、
今だ言いっぱなしになっている私の言葉が載っていた。
『ふたり?』
その4文字の言葉が。
はやく答えを教えてほしい。
変に緊張してしまってるから。
15分ほどして昨夜送り返したのが悪かった、
彼はまだ確認してすらいないのかもしれない。
と、ふいに
「市田さん。」
珍しく隣の席に座っている品川さんが声をかけてきた。
慌てて私は携帯の画面を閉じて返事する。
「今お昼ですよね?」
「はい。おにぎりいただいてます。」
「もしよかったら、これ食べませんか?
私ちょっとお昼今日持ってきすぎちゃって。」
彼女はカレーパンとパッケージに書かれた袋を私に差し出した。
「いいんですか?」
「それ消費期限今日までで私お弁当もあるんです。
食べてもらえると嬉しいです。」
にこりと微笑む彼女。
お腹に余裕がある私は
「おいしくいただきますね。」とお礼をして
おにぎりを食べ終わった後に、品川さんからのパンもありがたく頂戴した。
その間も携帯をつついていたけれど、
結局お昼に返事はなかった。
満腹になった私は、お昼休憩の最後にお手洗いに行っていた。
お花をつみ、手を洗いながら午後からの気合いを入れる。
顔を洗うとスッキリするみたく、
手を洗うと同じように気持ちがリセットするんだ。
よし!
手を拭いた私は静かにそこを出る。
左に曲がると、廊下の遠く向こうに誰か二人立っている。
お手洗いは会議室よりも給湯室よりも資料室よりも向こうにあり、どの部屋よりも遠い。
そのため、廊下で誰かがお話しをしていて
例えそれが叱られている場合でも、
深刻そうな顔つきでの話の場合もその横をすれ違わなければならない。
何度かその経験がある私は今日は大丈夫かな…と心配しながら
頭を伏せがちに廊下を歩いていく。
心配した通りの状況だったら嫌だから、二人の顔も姿も見ないようにする。
そして、顔をあげていれば、
その姿形、色が視界にはっきり捕らえられただろう距離になった時、
一瞬ちらっと様子を伺って、
あ。って背筋をびくつかせた。
だけどすぐに心を落ち着かせる。
「お疲れ様です。」
小さな声で存在を目立たせないように、そして顔を見ないように細々と挨拶を交わし、
早歩きに近い形で疾走のごとく過ぎ去ろうとする、
「市田。」
が、その二人の内の一人に声をかけられてしまい、私は渋りながら頭を向けた。
「俺の机の上に資料あるからそれ見といて。」
優しい口調の長嶋さんに「分かりました。」と私はすぐに返事する。
できるなら早急にこの場を立ち去りたい。
別に長嶋さんだけだったら急ぐことはないんだけど……
「お疲れ。」
うー、いってるそばからこの人は―――っ
長嶋さんと話していた相手が私に話しかけてきた。
長嶋さんの前で話すのは、何となく気まずいのに!
そんな動揺を隠し、私はその人に挨拶を返す。
聞き終えて彼の口端がくすっと緩んだあたり、私の反応を絶対面白がってる。
「俺らこれから昼なんだよ。」
「まだお昼取られてなかったんですね。」
私はわざとらしく長嶋さんの方にぐいっと体を向けた。
その人が変なことを喋ってこないように。
「市田は取った?」
「はい、おにぎり頂きました。」
「へーいいな。」
長嶋さんが陽気に笑う。
「あと品川さんにカレーパンも頂いちゃって。」
くす。
そうこぼれた笑いは長嶋さんのものじゃない。
顔に手の甲を当てて笑うのをこらえている、その人のものだ。
陽気な長嶋さんにのせられて、うっかり話してしまった余分な話がいけなかったらしい。
その人は今にも噴き出しそうに表情を緩めている。
また馬鹿にしてるし…!
隣で肩を若干揺らしている彼に
「怒りますよ」って言うのをなんとか我慢して、私は長嶋さんに微笑む。
こうなったらとことん無視する以外ない。
だが幸いなことに長嶋さんは
「じゃぁ速水行くか。」
とそこで話を切り上げてくれた。
その人は「ん。」って頷く。
まだ口の端は緩んでるけどね!
「何食べるかな~。」
長嶋さんが声をあげる。
聞けばすぐ外にある定食屋へ行くところだったらしい。
お昼を食べに会社を出て行くとはいえ、階段フロアはろうかとつながっていない。
長嶋さんと速水さんもとりあえず
私たちのデスクがある場所、メインルームに戻らなきゃならない。
二人が歩く斜め後ろを私もゆっくりついていった。
「俺とんかつだな。速水は?」
「カレー。」
……私がカレーパン食べたからからかって言ってるの?
速水さんはこっちを見ない。
むっとされっぱなしってのもさすがに気にくわない。
私は長嶋さんの様子を少し伺って、
振り返ってこないことを確認すると
速水さんの上着のスーツ裾を軽く引っ張った。
自分が思う以上に長く引っ張ってしまったのが悪かったのか
ちょっとだけ速水さんはつんのめる形になって、
やばいと思った私はすぐに引っ張るのを止める。
絶対何か言われる…!
内心私はびくついていたのに、
彼は何事もなかったように歩くだけ。
振り返りもせず淡々と歩を進めてる。
何もしてこないの?
珍しいなと違和感を感じながらも、
何かされるよりかはマシかとほっと胸をなでおろす。
長い廊下を歩き終え、
その先、長嶋さんがメインルームにつながる扉に手をかけた。
ところが誰か向こうからもドアに手をかけた人がいるようで、
ばったり出くわすと長嶋さんはその人とその場で会話し始めてしまった。
速水さんと私は無理やりそこを通り過ぎようとするでもなく、
その場に立ちつくしたまま成り行きを見守る。
長嶋さんはすっかり話に夢中で、私たちがいることを今だけは忘れているみたい。
「止まっちゃいましたね。」
そのまま黙ってるのも何なので世間話を彼に振る。
返事はんー、でもあぁでもなく、
退屈そうにちらりと私を見降ろして、
「阿保。」
ってそれだけ。
しかも口パク。
「……阿保じゃないです。」
私も同じように口パクで返す。
「引っ張ったくせに。」
「意地悪してくるからですよ。」
変な会話。口パクだから尚更。
「カレー食べるんですか。」
そう聞こうとしたとき、
速水さんは何か気づいたような表情を一瞬して一気に私に近寄ってきた。
「な、なに…!」
今度のは口パクじゃない。
だからさっきよりも分かりやすく早く伝わってるはずなのに、
速水さんは何も返事してくれずに
ただ顔を私のにぶつかる勢いで近づいていく―――
「っ!」
ちかい……!
思わず目を閉じた瞬間、
「ふたりで。」
耳元に速水さんの低温が響いた。
ふわっと苦い香りが離れていきながら速水さんがくすりと笑う。
かぁっと勢いよく私の頬が上気する音が聞こえた。
な、長嶋さんたちに見られてたら…!
でもそれはいらぬ心配。
速水さんは、長嶋さんたちがメインルームの方を揃ってみている間の死角を狙って、
今のをやったみたい。
言葉にならない思いに私はまだパクパク口を動かして、
「キスだと思ったの?」
速水さんのその言葉に、また頬が熱くなる。
「う、うるさい!」
速水さんの胸かどっかを軽く叩こうとしたけれど、
今はもう長嶋さん達がこちらを向いていらっしゃるからそれはできない。
速水さんばっかりずるい。
スーツのすそ引っ張ることしか私はしてないってのに。
今日も彼のペースに振り回されっ放しだよ。
「来週の金曜夜、明けとけよ。」
ふわっと速水さんが表情を崩す。
「…意地悪じゃなくて、
最初っからそうやってもっと優しく誘ってくださいよ。」
文句をボソリと言った私に速水さんはハハっと笑うと、
「カレー楽しみ。」
ただそれだけ言葉を残した。
狡猾そうに。
黒いフレアスカート。
この間は彼に振られちゃって見せれなかったから。
(見せれなかった、っていうのはちょっとだけおかしいけど。
だって、見せたかったわけじゃないし!)
トップスは、茶色よりも少しだけ落ち着いたモカ色…というべきだろうか
そんな暖色をセレクト。
最後に、出勤するときはいつもそれな白いコートを私は羽織っている。
場所は会社前。
さっきオフィスの中で彼が指定してきた。
コピー機に向かってる私に、
すれ違い様「会社前」って小さく言葉を落としていったんだ。
時間は事前に彼がいつにする?って聞いてきて、
7時ぐらいって私は携帯を通して文面で答えた。
既に会社を出て5分ぐらいは立つ。
夏ならまだしも真冬の5分立ちっ放しは結構キツイ。
速水さん遅いなぁ…。
はぁっと私は手に息を吐いた。
連絡してみようかとカバンに入っている携帯を取り出す。
するとタイミングよく着信が来て、
速水さん
その名が表示されてる。
電話はじめてだ。
文面で連絡するときよりも若干緊張しながら
「はい、もしもし。」
声を出す。
電話の向こうからカチカチ音が聞こえた。
「車にいるんだけど分かる?」
「え?」
辺りを見回すと、ハザードランプをピカピカ光らせているそれらしき車が一台。
「向かいますね?」
「うん。」
通話を切らずに私は耳に当てたままその一台に歩み寄っていく。
歩く私を見ているのかは分からないけど
「早く来いよ。」
意地悪な声が耳元から聞こえて、
「うるさいですよ。」
って答えた。
ちょっとだけそれで緊張が解ける。
私は後ろ座席のドアを開けた。
「え、なんで後ろ?前でいいよ、前で。」
電話で話したか直接話したか、どちらが正解か答えることはできないけど、
とにかく速水さんがそうすぐに突っ込んだ。
私はおとなしく前に移動して座席に座り、今度こそは電話を切る。
「…お疲れ様です。」
「お疲れ。」
音楽もかかってないから静かな車内だ。
挨拶しか私たちはできずに、沈黙が続く。
たぶん、速水さんも少しだけ……緊張気味?
「じゃぁ行くか。」
彼がハザードランプを切る。
「はい。」
私はシートベルトを締める。
カチ。
ウインカーが点滅しだす。
車道にいよいよ出ても、私たちは話さない。
ただ前の車の後をおとなしくついていって止まったらポンピングブレーキ、静かに止まる。
車が多い今日は60キロ出せることが多くない。
私はそんな彼の運転する様子を見守るだけ。
上手だなーって関心する。
初めて乗るけどこのまま寝て、任せちゃっても大丈夫なくらいだ。
疲れがたまっているときなら絶対うとうとしてしまう。
落ち着いていて掃除も行き届いている車内。
速水さんの匂いがそこかしこにするっていうのも落ち着くポイントなのかな。
すっかり感傷に浸っていた時、
「…運転集中できないんだけど。」
唐突に速水さんが言った。
「え?」
信号が赤だから彼が私に目線を合わせてくる。
「そんなジロジロ見られると。」
少し戸惑った声に、
「あぁ!」と焦った私はごめんなさいって言ってすぐに目線を外した。
彼がアクセルを踏み始める。
「速水さん、車通勤だったんですか?」
「うん。」
聞けば飲み会の時は飲酒になってしまうから、
お酒を飲む時だけ車を会社に置いて電車で帰るようにしているらしい。
「じゃぁ、今日飲まれないんですか?」
驚いた声を出す私に
「…誰かさんがすごい飲むってこの間噂に聞いたんだよね。」
ちらりと速水さんが運転の合間に目配せ。
その言葉に、
長嶋さんがこの間飲んだときのことを告げ口したんだ、って確信した。
例のやけ酒のやつ。
いつかは速水さんにもばれてしまうとは思ってたけど、こんなにも早いとは。
このままだととんだ飲み娘だと思われてしまう。
すぐに誤解を解こうと言葉を紡ぎ始める。
「違うんですよ、長嶋さんと内川くんで飲んだときはですね!」
そこまで言いかけて、はっと私は言葉を止めた。
「何?」
「いえ、なんでもないです…。」
言えるはずがない。
速水さんがいなかったからヤケ起こしたなんて。
死んでもいえない……。
「でろでろに酔ってもいいよ、俺が責任もって送り届けるから。」
からかう彼に、大人しく「はい。」って返事することしかできない。
「もうちょっとで着くから。」
そう彼が微笑んで話を逸らしてくれたのが少しの幸いだった。
そうしてついたお店は、私が初めて来る居酒屋さんだった。
長嶋さんとはたまに来るらしいそこは、
割と海辺の近くにあるらしく、車から出るとほのかに海の香りがしてくる。
少し距離がある駐車場を匂いを楽しみながら歩いていくと、
先にお店へと速足で向かっていた彼は、
引き戸を開け、ゆっくり歩いていた私を待ってくれていた。
速水さんが扉を開け、中へどうぞとエスコート。
すみませんってお礼を言って進むと、
カウンターと、4人席のテーブルが3つほどの居酒屋さん。
といってもライトも落ち着いたオレンジ色で少し暗く、
他のお客さんも比較的おとなしく飲んでいる。
長嶋さんたち4人で飲んだお店とは、同じ居酒屋でも随分雰囲気が違う。
「カウンターでいい?」
速水さんに頷いて私は一番奥の席に座った。
彼は私に合わせて隣に来る。
「荷物足元におけるから、大丈夫?」
「はい。」
初めてのお店ってなんか緊張しちゃう。
速水さんとだから余計そうだ。
彼のエスコートを受けながら私は簡単に注文を済ませた。
「緊張する?」
「…はい。」
「俺も。」
速水さんが笑いながらお水を飲んだ。
こういう時、速水さんって優しんだよなぁ。
分別つけてるというか、私が戸惑ってるって分かってくれてるのかな。
私も同じようにお冷を口にする。
「お店勝手に俺が決めちゃったけどよかったの?
市田が行きたかったところでも俺はよかったんだけど。」
「ここで十分です。ステキな雰囲気で。」
カウンターに立っているお店にの人に微笑みながら、私は再びお水を口にする。
緊張はするけど、こういう落ち着くお店は好き。
勿論騒がしいお店も嫌いじゃないけど。
「長嶋と二人でこの間飲んでで、」
「はい。」
「市田とここ来たいなって、
ちょっとだけ思ってた。」
言ってすぐ、彼がお水を飲み込む。
今日の速水さんはやけに素直だ、お酒も飲んでいないくせに。
私もお水を飲む、彼の方を見ずに。
ドキドキドキ、心がうずく。
なんだかとっても恥ずかしさが積もってくる。
隣にいる彼の横顔さえ見る余裕今ないけど、
速水さん。
私と同じ、どぎまぎしてるって思っていいよね…?
注文が届き始めると私たちは仕事の話をした。
同じ部署ではないから立ち入った話ができないこともあるけれど、
速水さんだからこそ話せる話題もある。
うん、うん。って聞いてくれて
そっか、そっかってたまにあしらって、
適当…ではないんだけど
でもなんか好きに喋っていいよって言ってくれてるみたいで、とても話しやすい。
たまに笑ってくれる感じも、心がほっと落ち着く。
そんな風に彼が聞き上手だから
「頬赤いぞ。」
ってたちまち速水さんに言われてしまった。
先ほど追加で頼んだファージ・ネーブルはもう半分より随分下。
自覚していないところで思わず、私お酒が進んじゃってる。
「…酔ったんですかね?」
手で頬を冷やしながらお水を飲んだ。
「結構飲んでるもんな。」
速水さんはジンジャエールを飲む。
速水さんの隣は一席空白だから、特に会話を聞かれているわけでもない。
だから何でも話せてしまう。
それがいいのか悪いのかどっちなんだろう、?
「かわい。」
ぼそっと速水さんが口にした。
聞き間違いかなって思うほどの小さな小さな音量で。
あーあ、……悪いね。
やっぱり悪い。
速水さんにそんな風に言われたら、
私恥ずかしくていたたまれなくなっちゃう。
「…なんか真っ赤だぞ?」
聞かれてないと思ったのか彼は普段の口調で聞き返す。
「何でもないです。」
私は言葉を濁しといた。
オレンジ色のライトの下で見る彼の眼もとは、ひどく妖艶。
下手な女性より色っぽい。
ネクタイを緩めているから覗く鎖骨の具合が重なっていつも以上に色香が増してる。
「ずるい。」
私は水をまた飲む。
「何?」
彼が聞き返す。
「何でも。」
私さっきからなんでもないしか言えてない。
「ごちそうさま。」
「ありがとうございました。」
お店の人に挨拶をして私たちはお店を後にする。
外に出た途端、体に当たってきた冷たい風に
酔いもすっかり醒めてしまいそう。
それでもたまにふらつきながら私は彼の隣、半身後ろを歩く。
車は一番入り口から遠い。
来た時はどうしてそこを選んだのか詳しく聞いてなかったけど、
速水さんいわく、そこに駐車すると海の香りがたくさんするから。
私よりも寒がりなくせにね。
私が海の香り好きなんですよって言ったばっかりに、彼はそこに止めてくれたんだ。
彼の背中をじっと少しみて、
見上げて、
「あ、星がきれいですよ。」
そんなことを私は言う。
「本当だ。」
速水さんも同じように見上げる。
「オリオン座しか分かんないかも。」
笑う彼に、
「カシオペア座はwの形の奴です。」
って言ってでもそれ以上他のは知りません、と私は笑い返す。
そうして見上げているうちに車へたどりついたのに
私はまだ上を夢中で見てたから
立ち止まった彼の背にこつん―――、
「あ、ご、ごめんなさい。」
「ばか。」
私は何となく気まずくて慌てて助手席に入った。
車の中の方がドキドキするってことも忘れて。
彼がエンジンを入れて、
温まるまで私たちは車の中で過ごす。
変な時間。
私の家の道順をもう教えちゃったから特に話題がない。
あわてて紡いだ今日のお代の話も彼に一蹴されてしまった。
半分以上速水さんに出させちゃったっていう、結構大事なことなのに。
「じゃ、行こうか。」
「はい。」
シフトレバーが動く音だけが響く。
車の中の時計は、21時37分。
いわゆる、どうにかなってもおかしくない時間。
「本当飲みすぎちゃいました。」
そんな空気を和ますように話を切り出した。
「がぶ飲みしてたもんな。」
「そんなしてないわい。」
思わず出た突っ込みに、彼がハハハと笑う。
「最後またお酒頼んでたやつがよく言うよ。」
「速水さんが勧め上手なだけです。
本当飲む気なかったんですから。」
今日初めてだったカクテル。
カタカナだらけの名前はどれもこれもちんぷんかんぷん。
そんな中で彼は私に飲みやすいものをセレクトしてくれて、そこから私はこれかなって頼んだ。
「カクテルって意味あるって聞いたことあるんですけど、
速水さんそこまで知ってたりするんですか?」
「んー、どうかな。
軽いカクテルしか俺もよく分かんないし。長嶋の方が詳しいよ。」
「長嶋さん浴びるほど飲みますもんね。」
思わず笑いがこぼれる。
前の車のブレーキランプが赤く光って速水さんは車を止めた。
「ちょっと混んでるな。時間平気?」
「はい。」
先ほどからあまり車が進まない。
ここらへんの信号機は変わるのが早いから、そのせいもあるのかもしんない。
「速水さんこそ、大丈夫ですか。」
「んー。」
「運転、疲れちゃいますよね。」
私は彼の横顔を見つめた。
途端、彼と目線が合う。
あ、やば。
不自然に視線を外す。
前の車のブレーキランプの赤い光のせいで、彼の顔は少し赤みを帯びていた。
「…気にしなくていいよ、第一誘ったの俺だし。
楽しかったし。」
はい。って私は返事する。
「もうちょっと。」
彼がまた発する。
「何ですか?」
車が発進した。
「このままいたいのが、本音だけど。」
ひと際赤く照る前の車のバックライト。
「……うん。」
車内に私の言葉が残る。
彼はそこから喋らない。
私も喋らない。
信号に止まったって、私たちは顔を合わさない。
今、彼の顔を見たら、
ゲームオーバー……な気がする。
見覚えのある道にでて、そこが私の家の近くだと気づいたとき
「もう着くよ。」
彼が口を開く。
「…い。」
随分口をつむいでいたから頭の言葉が思うように出ない。
「寝てた?」
「うとうとぐらいです。」
「あほ。」
彼が笑う。
うとうとなんかしてなかったけど、
不自然に話さなかった間を埋めるには、ちょうどいい理由だった。
狭い小道をくぐって私のアパートの駐車場に入ると、
私の部屋番号が地面に書かれてあるスペースにとりあえず止めるよう彼に指示する。
「帰り道分かりますか?」
「市田じゃないから大丈夫。」
「どういう意味ですかー。」
ぶーたれる私にハハハっと彼が笑った。
収まると、車内はぽつーんと静かになる。
じゃぁって言って、その場を後にするのに最適な時間だ。
だけど何となく私は言いたくない。
言わなくちゃ、いけないんだけど。
「市田酔ってんのか?」
速水さんが首をかしげる。
なかなか出ていこうとしない私を心配したみたいだ。
「酔ってないですよ。」
私はシートベルトを外した。
もう部屋に戻るよって行動で示すためだ。
すっかり肩からずれ落ちていた鞄のひももかけなおす。
「じゃぁ、」
そう言いかけて、彼の顔を見た。
彼の目線と私の目線がトクンってぶつかる。
私の心臓もドクンってなる。
速水さんと今日ずっといたからかもしんない、
彼のずるいところが私にもうつったのかもしんない。
ひどくひどく、ずるいことを私は言ってしまいそう。
「市田。」
彼の口が私の名前を形どった。
…ばか。
ここで名前呼びは反則だよ。
「嘘。」
ほら。
おかげでこんなこと言い始めちゃってる。
速水さんが名前なんて呼ぶからだよ。
私がずるいことを言っちゃうのは、速水さんのせいだよ。
私は小さく口を開く。
「酔ってる。」
最後に飲んだカクテル、
カルーアミルクが私に速水さんを誘惑させた。
速水さんは黙って私に視線をぶつけ体を近づけた。
色っぽい目じりのほくろが私を離さない。
彼が今解いた、シートベルトが車のドアにぶつかる音がする。
でもそんなの関係ない。
苦い香りが一層強くなって、
彼が体を動すときに立てる音を聞くたび、私の胸がうずく。
そして…。
「いっ!」
おでこに痛みが走った。思わず私は手で覆う。
「酔い醒めた?」
彼はハハハっと笑いながらまた体勢を元に戻した。
「…醒めました。」
人差し指でよくおでこ突かれるけど、その時の痛み以上だ今日のは。
たぶん、今のはでこピン……。
「カクテルの意味も知んないくせに、飲みすぎるから。」
「ですね…。」
痛みでまだ顔をしかめながらの返事だけど、早く立ち去ろうと言葉をつづける。
「お風呂入って今日はよく寝ますね。酔いも醒めましたし。」
「うん。」
それがいいと彼が言った。
「今日は本当ありがとうございました。
おいしかったです、でも速水さんが飲めなくてごめんなさい。」
私は申し訳ないですって体をなして、さっきまでは随分遠く感じたドアを開ける。
降りた瞬間、コンクリートにヒールがぶつかってカツカツって2つ音を立てた。
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
ドアをバタンと閉めようとする。
「あ。」
寸前で声をかけられ私はやめた。
「どうかしました?」
また中をのぞく。
「今日ので変に意識して、避けるとかしたら怒る。」
彼がからかい口調で残した言葉に、
「そんなことしません」って笑いながらドアをようやく閉める。
彼の車が完全に見えなくなるまで、私は隅に立って見送った。
手を振るのは違うから代わりに頭を何度かさげた。
そうして見送りが終わると、かばんから鍵を取り出し部屋に入った瞬間、
「ふはぁ~。」
ため息とも嘆きとも言えないような何かが私の口からこぼれる。
同じころ、速水さんが煙草をくわえながら
「あー、もう。」
そう声をこぼしてるとも知らずに。




