8
ルカの助言通り、その日は入浴後さっさと自室のベッドに潜り込んだ。
寝室もあるが、使う気分にはなれなかった。
ホカホカになった体を、フカフカのベッドは包んでくれる。
目を瞑り、眠ろうとするが出来なかった。
戦場で、刃を交わし合い、殺しあった時とは違う胸の高鳴りが治まってくれない。
思い出すのは、彼の部屋で唇を奪われ押し倒されたときの光景だ。
今まで見たことのなかった、ジンの熱っぽい視線。
触れられたところがいつまでも熱い。
とくに、痕をつけられた首筋が疼いた。
(もう!ジンさんのばかっ!あほっ!!)
ベッドの中でくぐもった声を上げる。
こういうのは、ちゃんと好きな人にするべきだ。
そう考えれば、ソファで自分を見下ろしてきた顔が、声がさらに鮮明に思い出されてしまう。
自分のことを欲しいと言った。
あの声が思い出されてしまって、心臓が壊れてしまうんじゃないかと思うほど早く、そして大きく高鳴る。
それだけじゃない。
エルは、無意識に自分の唇に触れた。
あの、貪るようなキスもなにもかもが、エルには初めてだった。
浴場で裸を見られても平気だったのに。
こんなふうに求められなんて、思ってもみなかった。
抵抗できなかった自分にも驚いていた。
いつもだったら、以前彼に宣言したように捻ることなんて簡単なはずだったのに。
それなのに、できなかった。
もしも。
もしも、あのまま、彼を受け入れていたら、今頃は。
そんな思考にまで飛んでしまい、エルはさらに悶えてしまう。
(なにを考えてんの、自分?!)
そうして、結局、一睡も出来ずに朝を迎えてしまった。
既に身についた習慣で彼女は、その日も畑に向かった。
ジンは朝食を摂っていくのだろうか。
畑の世話をしながら、どう会話をしよう。
そもそも昨夜の今朝でうまく会話出来るだろうか。
昨夜のことを思い出せば、また心臓が壊れそうな程に高鳴る。
高鳴ってしまう。
どうしても止められない。
「………はぁ」
既婚者の長兄たち、長男、次男、三男の兄たちはこんなことを経験してきたのだろうか。
「あ、ウカノお兄ちゃんはバツ三だった」
とくに長男なんて、恋愛→結婚→離婚を3回ほど繰り返している。
恋多き男かと思われるが、そうではない。
離婚の原因もその都度違う。
実家が悪かったり、相手が悪かったりと三回ともそれなりの理由がある。
なによりも、長男のウカノは相手をとても大事にしていた。
具体的に言うなら、嫁に畑仕事をさせなかった。
嫁だけではない。
エルを含めた妹たちにも、なるべく肉体労働はさせないようにしていた。
本人たちが好きでやる分にはなにも言わなかったが。
いっそのこと長兄に相談しようか。
そんなことを考える。
考えて、やめた。
所在がわからないというのもそうだが。
どう現状を説明したところで、政略結婚に巻き込まれて、結婚後相手を本気で好きになりつつある、なんて恥ずかしすぎて相談できない。
結婚願望の強い長女、フィリアにでも相談しようかとも考える。
すぐに却下する。
母どころか、集落全体に電光石火のごとく伝わって、ややこしい事になるに決まっている。
もしかしたら、挨拶に母が海を越えて乗り込んでくる可能性だってある。
そうなったら、ガチで逃げられなくなる。
「………」
こんな時、二つ上の兄だったらきっと相談に乗ってくれたんだろうな、と考える。
一番下の兄、シンとはよく一緒に遊んでいた。
なんなら姉たちよりも一緒にいたかもしれない。
「シンノウ、元気かなぁ」
そこに、気配が現れる。
しかし、珍しいことにエルはそれに気づけなかった。
「昨日の今日で、他の男の名前を口にするとはな」
その声には揶揄うような音が含まれている。
「!」
「それが魔族の男の名前か?」
「違いますよ」
「じゃあ、誰だ?」
「兄ですよ。一番仲の良かった、兄の名前です」
昨日のようなイラつきもなにもない。
なんてことの無い、普通の会話が交わされる。
「そうか」
「えぇ」
そして、沈黙。
ジンの目に、彼女の首筋が映る。
そこには、他ならない彼自身がつけた所有印が残っている。
おそらく、誰にも触れさせたことのない肌に触れ、証を刻みつけることが出来た。
「悪かった」
すんなりと、その言葉がジンから滑り出る。
それは、本心であった。
でも、それ以上の愉悦と歓喜に気づく。
歪んだ、醜い感情に気づく。
彼女の体に、お飾りでも盾でもないという意味で自分を刻みつけることが出来たのだ。
「無理やりするつもりは無かったんだ」
本当は、大事にしたい。
戦場の頃とは違って、傷つけたくなんてない。
「……ジンさん、お疲れでしたもんね」
突き放すでもなんでもない事実を、エルは口にする。
「正直に言うと、昨日のジンさん、めちゃくちゃ怖かったです」
「ほんとに悪かった」
ここから先のエルの言動を、ジンは予測する。
《これから迎えるお嫁さんには、こんなことしちゃダメですよ》
《今から捻り殺しますね》
このどちらかだろうと考えた。
しかし、いつまで経っても言葉は返ってこない。
それとなく、エルを見れば耳まで真っ赤になっている。
「だから、その、私は、そういうことをするって意味でジンさんのこと、好きとかわからなくて」
だから、と必死にエルは言葉を紡ぐ。
「でも、わたし、私は、昨日のことがあったのに、ジンさんのこと嫌いになれないんです。
でもでも、これが好きとかそういうのかわからなくて、だから、その」
その必死さが愛おしい。
そして、たまらなく可愛く見えてしまう。
「エル」
言葉の途中だったが、彼女の名前を呼んだ。
そして、ジンは続ける。
「触れていいか?」
「え、あの、はいっ!」
勢いで、エルは答えた。
昨夜とは違い、優しく彼女を抱き寄せる。
「あ、あの、あのあの、ジンさん?」
「好きだ。愛してる」
優しく、本当に優しく抱きしめられながら、耳元で囁かれた。
「戦場でのお前は苛烈で恐ろしかった。そんなお前に憧れた。
お前のように強くなりたいと、そう思っていた。
でも、いまは堪らなくお前が愛おしい」
だから、離れてくれるな、と伝える。
「その、えと、あの」
「お前は、どうだ?」
エルは、怖々と自分の腕を彼にまわす。
同胞をたくさん殺めて、血に染まった筈の腕が彼に回される。
「き、きらいじゃ、ない、です」
たどたどしい返答とともに、エルはジンを見上げた。
「そうか」
答えて、ゆっくりと、ジンの顔がエルに近づく。
そして、それをエルは昨日とは違って受け入れる。
昨日とは違う、触れるだけの口付けを交わす。
そして、二人は手を繋いで食堂に向かう。
いつもと同じ朝。
でも、明らかに違う日々の始まりだった。
それから、二人は色々話をした。
ジンが仕事に行くまでの、短い時間だったがそれでも楽しげに話す二人を、ルカは給仕をしながら観察する。
昨夜の今朝だというのに、気まずくなるでもなく、むしろ仲睦まじい様子に、ルカは胸を撫で下ろした。
そして、日々は過ぎて。
少しずつ、本当に少しずつ、二人の距離感は縮まっていき。
温泉旅行当日となった。
カイウェル元帥には反対されるかな、とも思ったがそんなことは無かった。
彼は彼で、エルに対する不信感を持ったままだ。
それでいい、とエルは考えていた。
何かあった時、ジンに意見でき、ジンを守れる存在は貴重だから。
「今回は、無理なお願いを聞いていただきありがとうございました」
エルがカイウェルにそう言葉をかける。
カイウェルは、ふんっと鼻を鳴らすだけでなにも言わない。
そこから、エルは少し離れた場所で世話係と一緒に馬を珍しげに眺める小さな女の子を見た。
カイウェルの娘である。
「可愛いですね。お幾つですか?」
その問いに、カイウェルが不機嫌もそのままに答える。
「なにを考えている?」
「娘さん、かわいいなぁって」
「そうじゃない」
「……真面目に答えるなら、今後のことを貴方と話し合いたいと考えています」
「今後?」
「えぇ。
貴方は、私のことを身の程知らずの堆肥臭い農民女だと考えていますよね?
事実です。それは今後も変わらない、変えられない事実です。
私には後ろ盾がありません。
ジンさんの威光がなければ、ここにはいない。
そして、処刑されていた女です」
「…………」
「でもだからこそ、自分に与えられた仕事くらいはきっちりやりたいと考えています」
「仕事?」
嘲笑とともに次代の王を産むことか、と言おうとするカイウェルを遮って、エルは言った。
「ジンさんの支えになり、後継者を産むのに適した人材の選別。
それを手伝っていただきたいんです」
出てきた言葉に、カイウェルはなにも言えなくなる。
「私はたしかに身分が低く、学もない。
あるのは、人を殺す能力だけです。
けれど貴方が思うほど馬鹿ではありません。
これでも身の程くらいは弁えています。
弁えているつもりです。
私は、この大陸の人に憎まれ、恨まれている。
そんな女です。
そんな女が産んだ子を、誰が愛してくれると思いますか?
私では、いくらジンさんが求めてくれても、それに満足に答えることができない。
彼に必要なのは、良き妻であり、賢い女性であり、民に愛される子を成すことができる存在です。
そして、それは私ではありません」
言いながら、どこからか取り出した書類をカイウェルへ渡す。
「これは、長老会からの助言を元に選別した正室、側室候補者のリストです。
見てもらえば分かるとおもいますが、権力などの絡みがあり、人選は偏っています。
ここにさらに推薦者があったらピックアップを、貴方の目から見てジンさんに相応しくないとおもった人物がいるのなら、それも教えて頂けたら、助かります」
「お前は」
カイウェルに戸惑いの色が混ざり始めた。
彼女が権力に興味がないこと、それで選んでくれたジンに尽くすために、他の女だったならプライドが傷つくだろうことをやっているということに、気づいたのだ。
「それでいいのか?」
「いいに決まってるじゃないですか。
大事な、大切な人を本当の意味で支えてくれる人を選ぶなんて、中々できませんよ。
むしろ、ただの貧乏農家の末娘としては誉以外の何物でもないですよ」
このまだまだ子供だろう女の、心の内がわからない。
本心なのか、それとも嘘なのかわからない。
「それじゃ、よろしくお願いします。カイウェル元帥殿」
言うだけ言って、エルはカイウェルから離れる。
そして、運び込んだ荷物のチェックをしていたルカへと声をかけに行った。
後には、カイウェルだけが残された。




