喧嘩のあとは
春日井の相談編、終結します。
「…………琴葉」
ふと我に返って隣を見る。この冷たい空気を揺さぶったのは彼女だ。
加納が珍しく怒ったような表情で春日井を見ていた。
「美咲の気持ちも分かるよ。すごく分かる……。でも今は彼の言葉を聞いてあげるときじゃないかな?」
「それは……」
春日井は戸惑った顔をして、言い淀む。
怯んだ彼女に、加納は一歩詰め寄る。そして言葉を重ねる。
「陽斗くんの話も、智也くんの話も、私は全部信じてる。いま智也くんがここにやって来たのも、謝っているのも、辛そうにしているのも、全部美咲のために動いてるからじゃないかな?」
「…………」
その言葉は、冷たくもあり、温かくもあり。
――そして。
「美咲が変わらないと、智也くんが可哀そうだよ」
綺麗で透明感ある声が、春日井の固まった心を溶かしていく。
あれだけ頑なで、あれだけ堅牢に思われた春日井の心が。
――少しずつ解けていく。
「聞いてあげよ? 智也くんの話」
優しく微笑む加納。その笑顔を向けられた春日井の瞳に、光が戻っていく。
「…………うん」
頷く春日井。それを見て再びニコッと笑う加納。
緊張感で張り詰めていた教室の空気が、いつの間にか柔らかな雰囲気に包まれていることに気付いた。
……すげえな加納。
「ごめん、琴葉……。それにともちーも」
春日井が顔を上げる。その表情はいつもの明るさを取り戻していた。
智也の方を見ると、彼もまた恥ずかしそうな笑みをこぼしている。
「……あ、ああ。いいけど……。それより、そのあだ名やめてくれよ……恥ずかしいぞ」
「ええ! 私はこのあだ名好きだよ! 私とともちーしか知らない秘密のあだ名だから!」
「ああ、そうだな……。完全に、ここにいる二人には筒抜けだけどな……」
そう言って智也が俺と視線を合わせる。ん、なんだよその目は。いまのは聞かなかったことにしてくれ、とでも言いたげだな。……残念ながらダメだ、ともちー。
それにお前が来る前から、もうすでにこいつあだ名のこと喋ってたからね? 二人だけの秘密のあだ名、普通に俺らに漏らしてたからね。口が軽いって言うかバカなんだろうなぁ、春日井。カップルそろってアホだった。はいはいお似合いお似合い。
「ふふふっ」
「はははっ」
いつの間にか、智也と春日井は屈託のない笑顔を見せ合っていた。
さっきまでの反動からか、あるいは今までの微妙な関係がようやく解けた気でもしたのか。理由こそ分からないが、二人はとにかく笑い続けていた。俺と加納の存在なんて気に留めることも無く、ただ解放されたかのように、安堵の念を噛み締めるように、ただひたすらに、笑い続けていた。
その様子を、加納は呆れたような表情で見ていた。
こいつが声を上げなければ、二人は未だに冷たい雰囲気の中に取り残されていたに違いない。まるで彼らの道しるべのように、加納はあのとき声を上げた。あの一言が、この二人を救ったと言っても過言ではない。
加納は言っていた。春日井が怒っているのを見て、もう諦めるしかないのだと……。
でも、それはたぶん、彼女の本心ではなかったのだろう。加納も春日井のことをどうにかしたいという思いがあったからこそ、あんな風に声を上げたんじゃないだろうか。
それはそうだろう。加納だって、友人の恋愛が徒爾になるのは嫌だったはずだ。諦めるしかないとは言いながらも、心のどこかで何とかしたいという思いがあったのだ。
加納琴葉という女の子は、そういう人なんじゃないだろうか。
――そんな彼女に、俺は……。
「………………なに見てんの、キぃモいんだけど?」
「お、おう……悪い」
前言撤回、マジなんなのこいつ。
春日井たちが俺たちのこと気に留めてないからって普通に素で言いやがったぞこの野郎。
そんな大して見てたわけでもねえのによ……。いや、まあ、見てたけどね。そりゃ。だって外見だけはめちゃくちゃ可愛いし? お前のこと見直しかけたのもそうだし? ……なによりそのデカい胸に目を吸い寄せられて目が釘付けになってましたって……ああ、すみません、全部口に出てましたね、ごめんなさい、許して、悪かったって、腹つねんな腹!
「はぁ……なんでだろ。さっきまで怒ってたのが馬鹿馬鹿しくなってきちゃったわ」
春日井が笑い過ぎて零れた涙を拭き取っていた。
智也もなんだかんだ笑い過ぎたのか、腹を手で押さえてにんまりとしていた。
「二人とも、いい?」
俺のわき腹を強烈に抓りながら、加納は二人の注目を自分に集める。
いつもの可憐な笑顔を振りまいて、その朗らかな声を響かせた。
「仲直りは早めにしちゃおう!」
加納の言葉を聞いて、はにかむ二人。春日井と智也は互いに赤い顔をして向き直る。
……仲直りはいつだって恥ずかしいものである。
「誤解させるようなことをして悪かった……。美咲」
「こちらこそごめん、ともちー。浮気とか、色々酷いこと言って……」
赤面する二人。そして少しだけ笑みをこぼす二人。
互いに非を認め、互いに相手の非を許し合うことができたならば、それはもう仲直りできたと言って差し支えない。
そうだ。喧嘩したら仲直りするのが道理って言うもんだ。
二人は笑みをこぼす。互いを見つめ、互いの愛を再確認できた。
春日井美咲と大里智也は、こうして関係を修復した……。
はずだった。
「でもね、ともちー?」
「うん?」
「アタシ、全部許したわけじゃないの」
「……ふぇ?」
春日井の言葉に腑抜けた声を漏らす智也。これで全部元通りと思っていたのは智也だけではない。俺も、それからたぶん、加納も思っていた。だから、その場にいた春日井以外の三人誰もが、春日井の言葉に呆気を取られていたと思う。
……結論から言おう。春日井美咲は大里智也を許してなどいなかった。
「今日からともちー、アタシの下僕ね?」
「ちょっ――なんで? 流れ的に美咲も仲直りしたんじゃ……」
「流れとか意味分かんないから、そういうの無いから」
「待ってくれ美咲……? 下僕ってどういう――」
「とりあえずともちー。今日から毎日携帯チェックね。あと駅前の新しいケーキ屋さん行きたいのよねー。あそこお値段するから敷居が高くてちょっと入りづらいんだけどー」
なんか春日井が以前よりもさらにヤバい目になっている気がした。くくくと笑うその笑顔からは妖気とか殺気とかが出てそうだった。たぶん吸ったら死ぬと思う。
あ、思い出した。今日は智也の絶望記念日だった。
見ると智也がハムスターのようなうるうるした目でこちらを見ている。そんな仲間になりたそうな目でこちらを見てもダメです。
「…………陽斗?」
「おっと、もうこんな時間かー。早く帰らないとな―。部長、帰宅許可願います」
「許可します」
はい。許可が出たので早めに帰ります。今日は記念日だし。――おつかれした。
「待ってくれ陽斗! 実は俺も相談したいことがぁぁぁっ!」
断末魔が背中の方から聞こえてくるが知ったことではない。振り返ってはいけない。その先にあるのは絶望だと俺は知っている。
アレだ。あとは若いお二人さんで、っていう粋な計らいである。
まだ最終下校時刻の三十分前。俺と加納は一足先に部室を出るのだった。