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第五章 泗(現在)

泗 神谷陸(現在)


 ……どうしたものか。

 僕は途方に暮れていた。駐車場で一人、目の前の市民病院を見上げている。ここにあの()が入院していることは分かっている。そのために、僕はここに来たのだ。なのだけど――どうしても、次の一歩が踏み出せない。真冬とは思えない程の陽気で軽く汗ばんだ額を拭い、僕は溜息を吐くのだった。

 あの大和という旅人――彼は、僕が彼女を、洋子ちゃんを救うのだと力説していた。大城さんに恩を返したいのなら、今がそのチャンスなのだと――大城家を守りたいのなら、遠くから見守るだけでは意味がないのだと――そんな風に、適確に僕の心を捉える言葉を選択して。その言葉に、僕はまんまと乗せられて。

 いや、そのこと自体はいいのだ。乗せられた勢いでここまで来たとは言え、僕だって馬鹿じゃない。自分が何をしようとしているかぐらいは分かっている。自分で考えて、自分で納得してここまで来たのだ。

 ――だけど。

 一体どんな顔をして、どんな台詞を使って、僕は彼女に対峙すればいいんだろう。こんな人相の悪い男が急に現れて、彼女を怖がらせないだろうか。

 目的は決まっている。

 僕が彼女を救えるのならば――こういう形で、かつての恩を返せるのであれば――やらない理由はない。大和さんに焚きつけられるまでもなく、これはチャンスなのだと思う。

 かつての僕はクラスのみんなに苛められて、人生に絶望していた。何もかもが闇の中にあった。結果、死を選んだ。

 大城さんは、そんな僕を助けてくれた。

 新畑さんは、そんな僕を救ってくれた。

 沈んでいた僕を引き上げてくれた二人に恩を返したくて、ここまで頑張ってきた。結果、僕は変われたのだと思ってた。かつての、ウジウジと下を向いているだけだった自分は捨て、熱く、真っ直ぐ、前だけを見て直情的に突っ走ることができるような――新畑さんはその度に複雑そうな顔をしているけど――そんな人間になれたと、思っていたのに。

 だったら、僕は何をこんな所で立ち止まっている?

 こんな所で――何をしている?

 洋子ちゃんが弱っているのなら、孤独と絶望に打ち(ひし)がれているのなら、せめて自分にできるだけのことを精一杯しなければならない筈なのに……。僕は、どうしてもその一歩を踏み出すことができない。

 結局、僕は怖いだけなのだ。

 彼女に拒絶されるのが、彼女に受け入れられないのが、怖くてたまらない。怯えて(いと)って(おのの)いて――どれだけ虚勢を張っても、根っこの部分はどこまでも臆病で。肝心な時に大切な一歩を踏み出すことができない。

 ふと、『風車』の店主に聞いた、大城さんの話を思い出す。当然のことながら、僕は大城さんと話をしたことなどない。彼に関するエピソードは、全て生前大城さんと親しかった人間(だいたいは新畑さんか椎名夫婦)から語られたモノだ。典型的な直情型人間で、自分が正しいと思ったら後先考えずに突っ走ってばかりだったという彼――そのせいで間の抜けた失敗談も数多くあったりするのだけど――一度だけ、弱気になって及び腰になったことがあったらしい。プロポーズの時だ。店主によれば、食堂でざる蕎麦を啜りながら、いつまでもグチグチと自信のないことを言っていたのだと言う(その後どうなったのかは聞いてないのだけど、結果から考えるに、きっと主人が優しい言葉で勇気づけるか何かしたんだろう。そういう人だ)。

 何だか、今の自分と重なるな――などと思ったところで、我に返った。……何を考えているのだ、僕は。まるっきりシチュエーションが違うじゃないか。向こうはプロポーズで、こっちは――ええと、何て言ったらいいんだろう? とにかく、大城さんのエピソードと同列に並べたりしてはいけないんだ。これでは、まるで僕が洋子ちゃんに想いを寄せているみたいではないか。そんなことは――ないのだと、思う。多分。……あれ、自分でもよく分からなくなってきた。

 落ち着け。冷静になれ。頭を冷やせ。

 僕の感情がどうであるかなんて、この際関係ない。大事なのは、僕が今何をすべきかであって、何故僕はこの一歩を踏み出せないかであって――それは改めて考え直すまでもなく、やはり洋子ちゃんに拒絶されるのが怖いからであって……。

 確かに、僕は『命の恩人』という武器を手にしていて、それをうまく利用すれば、僕が大城さんに抱いているのと同じような感情を僕に抱かせるのも可能なんだけど……そんな卑怯な真似は絶対にしたくない。そうじゃなくて、僕をどう見せるかとかじゃなくて、どうすれば彼女を救えるか、その一点を考えるべきなのに……。

 ああ、ダメだダメだダメだダメだダメだ。

 全く前に進めない。頭がカラカラ空転するばかりで、さっきから同じ所をグルグル回っているだけ。馬鹿なハムスターみたいだ。きっと、誰かに背中を押されれば――勢いで病室まで行ってしまえば、彼女の前に出てしまえば、案外何とかなってしまうのだとは思うのだけど。

 再び、目の前の病院を見上げた。屋上に誰かいるけど、逆光のせいでそれが誰なのかは分からない。建物の向こう、遥か遠い所から、真冬の直射日光が僕を照らしている。僕を、焦がしている。厚着してきたせいで、背中の汗腺が開いていくのを感じる。……取りあえず、病棟の中に入ろう。後のことはそこで考えればいい。そう思って足を踏み出した、その刹那――


 風が、吹いた。

 

 突風だ。

 さっきまでは完璧な無風状態だったのに……。あまりの唐突さに、思わず前につんのめってしまう。瞬間的に通り抜けていく暴風に、新聞紙やビニール袋が鳥のようにバタバタとはためいて、上空を舞い上がっていく。

 ――急に、何だってんだよ……。

 一瞬で止んだ風に訝しさを覚えながら、僕は体勢を立て直す。と、足下に何かが落ちているのに気が付き、拾い上げる。

 小さなフェイスタオルだ。

 今の風で、どこかから飛ばされてきたんだろうか。


「――すみませーんっ!」

 

 上の方から聞こえてくる声に、思わず反応して顔を上げた――所で、僕は固まってしまう。

 なんで。

 まさか。

 こんな――こんなことって。


「――ごめんなさーいっ! 風で飛ばされちゃってーっ!」


 病室の窓から、パジャマ姿の洋子ちゃんが手を振っていた。


 なんという偶然――いや、僥倖だろう。まさか、こんな形で背中を押されるなんて。

「これから取りに行きますんでーっ!」

 どうやら、僕が誰か分かってない様子。あの騒動以前に、何度か彼女とは話をしているのだけど……まあ、私服だし、距離もあるし、仕方のない話ではあるのだけど……何だか、少しがっかりする。

「あ、いいですよーっ! 僕が部屋まで届けますっ!」

 何号室ですか――なんて、自分でも驚くほど、自然に言葉が出ていた。さっきまでの躊躇は何だったのかと、自分でもツッコミを入れたくなる。彼女の落としたフェイスタオルを握り、そそくさと病室へと向かう。

 頭の中では、彼女に言うべき言葉を何度も何度も練り直していた。

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