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第五章 参(現在)

 不意に、陽が差した。

 空を見上げると、遥か上空を無数の雲が高速で流れている。きっと、強い偏西風が吹いているのだろう。その一方、地上では全くの無風状態が続いていて、屋外に出ているとポカポカと暖かい。

 ――あんなことがあったって言うのに。

 世界はそれとは無関係に廻り続ける。

 地上はそれとは無関係に――暖かい。

 市民病院の屋上で、一時の日向ぼっこを楽しむ。そう言えば、ここ数年は暮らしていくのに必死で、朝から晩まで仕事、仕事で――ゆっくりと心休める暇すらなかった。十年ちょっとで、随分と老けたようにも思える。全ては家庭のため、子ども達のため、子ども達の幸せのため――だったのに。

 それで娘の悩みに気付けないのでは、本末転倒だ。


「一足先に春がやって来たみたいな温かさだね~」


「――そうですね」

 振り返らずとも、声だけで分かる。『風車』の喜代さんだ。ご主人もそうだけど、この夫婦は昔から自分たちのことを気にかけてくれている。

 守られている――と、思う。 

 人の好意に甘えてばかりではいけないと分かっているのだけど。もっと、自分がしっかりしなきゃダメだって、分かってはいるのだけど。

「ほれ」

「ひゃあ!」

 頬に熱い物を押し当てられ、思わず頓狂な声を上げてしまう。見れば、喜代さんが缶コーヒーを差し出してニコニコと笑っている。――胸が、痛くなった。あの日、あの人に、同じ事をしたのを思い出したからだ。

「いくら日差しが強くても、こんなところにおったら体冷えるら。下の自販機で買ってきたで、アンタも飲みん」

 言うが早いか、缶コーヒー(それも無糖タイプ)のプルタブを開け、口を付けている。この人は年の割にコーヒーや炭酸飲料といった飲み物が好きなのだ。

「……洋子、どうしてます? まだ寝てました?」

 一酸化炭素中毒でこの病院に運ばれた洋子は、幸い経過も良く、明日には退院できるらしいとのことだった。だけど――体調がいいから大丈夫、という訳にはいかない。問題は、精神面にあるからだ。自分がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった。自分がもっと子ども達に目を向けていれば。もっと、子ども達の話を聞いていたら――こんなことには。

 意識が戻り、ある程度体調が回復するのを待って、色々な話をした。学校のこと、海人のこと、今まであった、自分の知らない様々なこと――無理強いするつもりはなかったのだが、意外にも洋子はこちらの想像以上に饒舌に色んなことを話してくれて――嬉しく思う反面で、胸が締め付けられる思いをしたのも、事実。洋子はいつでも明るく振る舞っていたけど――

 ずっと、孤独だったのだ。

 悩みを相談する相手もなく、ただ家族や親しい人間に心配をかけまいと、そんな余計な気遣いまでして、こんな馬鹿な騒動を起こして……。


「うん、あたしらが来たのと同じ頃に、目覚ましたみたいだったよ」

「一人でいらっしゃたんじゃないんですか?」

「香織が一緒。何かあの子、ウチの人にまた何か吹き込まれたみたいでさー。洋子ちゃんに言いたいことがある、なんて、えらい張り切りようだったわ。で、アタシは邪魔だから出てけって。ひどい孫だよねー。本当、洋子ちゃんと交換してほしいわ」

 喜代さんの物の言い方は、基本的に遠慮も容赦もない。だけど、不思議と心がほぐれる。口にしなくても、相手のことを想っているのが伝わるからだろう。

「またそんなこと言って……本当は、仲いいくせに」

「どこが仲いいもんかね。いつも喧嘩ばっかだに」

「いつだったか、私たまたま見かけたんですけど――香織ちゃん、喜代さんの胸で泣いてたことあったじゃないですか。詳しい事情は知りませんけど、あれ見て、やっぱり香織ちゃんはお祖母ちゃん子なんだなあって、思いましたもん」

「……ああ……あの子が高三の時だっけ? 右腕骨折してた時だら?」

 どうだっただろうか。言われてみれば、あの時の彼女は右腕をギプスで固めていたような気がする。いずれにせよ、その時は自分も夜の仕事に向かう途中で、そんなに集中して観察していた訳ではないのだけど。

「夏休みに、仲の良かった後輩が自殺したらしくってさ」

「――えぇ!?」

 さらりと物凄いことを言う人だ。冗談にしては悪趣味すぎるので、きっと事実なのだろうけど。

「私のせいだ、私のせいであの()は死んだんだって――あの時の香織、手のつけようがないくらいに落ち込んでたわ」

 それは、そうだろう。

「――今の、アンタみたいにね」

 再び心臓が跳ね上がった。

 彼女の言葉は、容赦なく胸を抉る。

「……でも、香織ちゃん、結局立ち直ったんですよね。今は凄い元気そうだし」

「どうかねえ? あの子も人に心配かけまいとして無理するタイプだからね――」

「私みたいに、ですか?」

 言われる前に言ってやった。それで結果が変わる訳ではないのだけれど。 

「……フン。アンタは香織によく似とるわ。頭がイイもんだから、言うことに可愛気がない」

「別に喜代さんに可愛がられたいとも思いませんけど」

「……何も香織の口癖まで真似しんでもいいだに?」

 軽口の応酬で、ほんの僅かにその場の空気が弛緩する。

 本当に――いい天気だ。

 まだ年が明けたばかりだけど、この陽気がいつまでも続いてくれればいい、と本気で思う。


「――私、ダメな母親ですよね」

 心が解れたついでに、甘えた言葉が口を突いて出る。

「また唐突に、何を言い出すだ」

「今回のことがあって、私、生まれて初めて子どもに手をあげました。……海人のこと、ぶったんです。親に隠し事して、あんな危ないことして――どれだけ心配したと思ってるのって。自分の責任を棚に上げて、偉そうなことばっかり……。私――母親失格ですよね……」

「その言葉に対して、アタシが何て返すと思う?」

「『そんなことないよ――とでも言って欲しいの?』って言うと思います」

 そう。この人は過ぎた甘えは許さない。自分にも他人にも厳しい人だ。そして、それがこの人なりの優しさなのだ。

「分かって言っとるなら世話ないわ。ホント、そういうとこは香織そっくりだよね」

 不思議な話ではある。何の血縁関係もない――それどころかほとんどまともに話もしたことないのに――共通する個性が多く、二人揃って喜代さんに甘えている。

「――だけど、アンタと香織じゃ、決定的に違うところが一つある」

「背の高さ、ですか?」

「真顔でボケるの、やめりん」

「胸の大きさ、とか」

「それ、絶対に香織の前で言わん方がいいに……」

 ちなみに、身長一五三センチで、Eカップだ。一勝一敗。だけど何となく勝ち越し。……心の中とは言え、ひどい言い草だ。反省。

「香織はね――ああ見えて、甘え上手なの。アンタらと違ってね」

「私たち、ですか?」

「そ。洋子も海人も、それにアンタも、一人で何もかも背負い込んだつもりになって、一人でウジウジ悩んで――もっと、周りの人間に甘えてもいいだに?」

 ――そう言われても。

「でも……他人様(ひとさま)に迷惑かける訳には――」

 瞬間、喜代さんの手が襟を掴み、顔を引き寄せられた。

「いい加減にせんと、今度はアタシがアンタに手あげるに!?」

 数センチの場所に、彼女の顔がある。年の割に、随分と肌がツヤツヤしている。老けてしまった自分とは大違いだな――などと、えらく場違いなことを考えていた。

「そう言うのを水臭いって言うの! 『他人様に迷惑』て、もう今の時点で充分に迷惑かけとるだに!? 今さら何を言っとるだ! アンタ、一人で生きてるつもりにでもなっとるだか? 貴文が死んだって――アンタを支えとる人間はたくさんおる。アタシも、ウチの人も、香織だってそうだし、謙介だっておるじゃん!」

『謙介』と言うのは、海辺の交番に勤務している新畑巡査のことだ。少し神経質で冷たい印象を受けることもあるが、何かと気にかけてくれている。

「挙げ句の果てには、何の関係もない人間にまで心配かけて、助けてもらって――」

 この数日間『風車』に逗留していた旅人のことだろう。やたら丁寧で、大飯喰らいで――不思議な人だと、洋子や海人が話していたのを思い出す。旅立つ前にお礼の一つでもしておきたいのだけど……彼はもう行ってしまったのだろうか。だとしたら残念だ。

 何も返せないでいる自分に毒気を抜かれたのか、喜代さんは掴んでいた手を離し、一息吐いた。

「……まあ、起きちゃったことは仕方ないけど……これからは、もっとアタシらに甘えてよ? ――じゃないと、貴文に合わせる顔がないら」

 生前から、椎名夫婦は何かと夫のことを気にかけている。……いや、夫が椎名夫婦のことを気にかけていた、と言うべきか。

 今は穏やかに暮らしている椎名夫婦だが、ずいぶん昔に、大きなトラブルに巻き込まれたことがあったらしく――当時新人警官だった夫が、椎名家のためにずいぶんと奔走したらしい。結局、詳しい話は聞けずじまいだったのだけど……。 

 

「――あ、忘れてた。アンタらを心配しとる人間、もう一人おったわ」

 屋上のフェンスに腕をかけ、悪戯っぽい笑みを浮かべる喜代さん。急に何だろう。

「誰ですか?」

「忘れた訳じゃないら。貴文が助けた小学生」

「ああ、あの子ですか」

 忘れる訳がない。夫はその子を助けて、命を失ったのだ。

 不思議と、怒りや恨みは沸かなかった。あの人は自分の意思で海に飛び込んだのだ。足を掬われて溺れたのはあくまで結果であって――あの子に罪はない。

 そう言えば、葬儀の時に新畑さんと一緒に謝りに来たっけ。何だかひどく緊張していて、見ていて可哀想になったぐらいだ。洋子が作ってプレゼントした――ロケット細工は自分が施したのだけど――あのペンダントを、形見に譲って欲しいと言い出した時には吃驚したけど……あの子は、今でもあれを大事に持っているのだろうか。

「人から聞いたんですけど――何か、警察官になったらしいですね」

「何だアンタ、大人になってから会っとらんのか」

「いえ、道ですれ違って、軽く挨拶したことは何度かありますけど……。この何年かは私も仕事で忙しくて……」

「そっか……。じゃあ、後で話したらいいわ」

「――え?」

「下、見てみん。来とるに」

 ニヤニヤと笑う喜代さんを横目に、フェンスから身を乗り出す。

 正面玄関の前、病院の建物が作る影のすぐ外側――


 陽だまりの中に、目付きの悪い青年が立っていた。

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