従姉のシュリー
カナトにはイダルという名の軍人になった兄がいる。
弟のカナトは送魂師になることを選んだ。
それが正解だったのか、そうでもなかったのか、時々わからなくなることがある。
もし軍人になることが出来たのだとしても、こんな時勢では苦難の方が多いだろう。
数多の災害を引き起こす異常気象や食糧難を避け、人間が土の中へと居住の場を移してからかれこれ一〇〇年近くが経つという。
エクセラントもそうして地中へ潜ることを決断した国のひとつで、およそ八〇年程前に移住を完了し、なにもかもが政府によって厳重に管理されるようになった。
エクセラントと同盟中のネア共和国連邦、イゼラダ王国、フォアロ大公国との行き来が可能な地下鉄道も、例えば政治的、軍事的な不都合が生じたりすれば、上の岩盤を破壊していつでも通行不可能にしてしまえる準備まで整っているといわれているのだから、実際のところいつどうなってもおかしくない関係だとエクセラントの国民の多くが思っている。
かつては楽園とさえ呼ばれていた地上の現在の状況も、地上探査部隊と軍の上層部しか把握していないという。
なんとも不審感溢れる世の中ではあるが、これが現状だ。
居候先の家に帰ってくるなり、カナトはショルダーバッグをズルリと肩から滑らせて、そのまま床へ倒れこんだ。
「おかえり……て、そんなとこでなにやってんのよカンちゃん?」
目を開けたら、ショートパンツに膝上まであるソックスをはいた白い脚がそこにあった。
頭上遥か高い位置までそれを辿ると、カナトの従姉シュリーが半ば呆れ顔でこちらを見下ろしている。
シュリーはカナトの母方の従姉だ。
学校を卒業したと同時にそれまで入っていた学寮も出なくてはならなくなったカナトは、彼女の父方の祖父ガラの家に居候させてもらっているのだ。
元軍人である彼女は去年街へ戻ってきて、ガラが営む石屋を手伝いながら食事の支度に掃除洗濯……家のことをひと通りなんでもこなしている。
エクセラントのシティは一見平和そうだ。
が、シュリーも軍人であり続けたならば、二十歳そこそこにして厳戒区域に立たされていたかもしれない。
「──疲れた」
カナトは片頬をヒンヤリとした床板へ張りつかせたままモゴモゴと言うのが精一杯だった。
疲れすぎて体も頭も使い物にならない。
瞼が重くてこのまま眠ってしまいそうだ。
カナトが帰ったとたんにシュリーが居間へと出てきたのは、台所で夕飯の支度をしていて物音にすぐ気がついたからだろう。
「その前に『ただいま』でしょ」
「──ただいま」
「ちょっといつまでそこへ寝そべってる気? 踏んづけちゃうよ」
「──オヤスミ」
「おいー」
ヒュイっとありえない浮力が働いたと思ったら、カナトが纏うベル型ケープの襟が真後ろから掴み上げられた。
「イテテテテッ、やめ」
「寝るならあっち。邪魔邪魔」
「わかったわかったから、自分で立」
「はいはいそっちね」
最終的にソファへと突き飛ばされ、カナトはやっとまともにシュリーの顔を仰いだ。
両手を腰に当てた金髪ポニーテールの従姉が、電灯の下でグラマーな胸を突き出して立っている。
両側が肩の方まで緩く開いた白いニットの襟元からは、タンクトップの紐がチラリと覗いていた。
いくら制服があるとはいえ、彼女が軍にいた頃は男子兵隊諸君もさぞかし目のやり場に困らせていただろうと思われる体つきだ。
本人には悪気がまったくないのだろうが。
「最近毎日ね、カンちゃん。そんなんじゃこの先続かないよ」
「わかってるよ、でも忙しくてくたくたなんだ」
おまけに、いろんなことがあった後だ。
今日はとりわけ、朝から特別におかしな日だった。
「仕事なんてね、七〇パーセントくらいでガンバっときゃいいの。一〇〇パーセントで頑張ったって、どうせ上の人間は一三〇パーセントくらいを要求して来るんだから。七〇パーセントでやっときゃ一〇〇パーセントくらいを要求されて、ホラねだいたいちょうどいいってもんよ」
「シュリーセンセ、さすがの説得力であります──けどさ、それって頑張り時の準師に言っていい言葉なの……?」
「わたしはね、カンちゃんを心配してるの。そして応援してるのよ」
シュリーは天青石を思わせる澄んだ瞳と長い睫毛でパッチリとウインクしてみせた。
「中間試験があるんだ」
ソファへお尻が沈み込んでいく感覚を心地よく感じながら、カナトは思い出して打ち明けた。
ソナも言っていたが、送魂師たちにとって今は大事な時だ。
試験の出来は昇格を大きく左右する。
「なんだか学生みたいね。ちっとも卒業した気がしないんじゃないの」
「取らなきゃならない検定もたくさんあるし」
「外国語検定Fすら取れなかったじゃないカンちゃん」
「うるさいよ」
これ以上『カワイソウなカンちゃん』みたいな顔をされるのが嫌で、カナトは本当にこのまま眠ってしまいたくなった。
「試験ばっかなんて、軍からの請負仕事人らしいわね。──あ、もうご飯だからロウを起こしてきてくれない? おじいちゃんもお店閉めて来る頃だわ」
シュリーの言葉に、半分閉じかけていたカナトの瞼がピクリと持ち上がる。
「また寝てるの、ロウェンさん」
ロウェンとは、この家にいるもうひとりの居候人だ。
「たぶんね。いいのよ、好き勝手やらせてあげて」
従姉の顔からフッと力が抜ける。
僅かに床へと視線が落ち、それからまたカナトへと笑いかけた。
そんな顔をされたら、カナトもなんだかいたたまれなくなる。
「いいよなぁ、あの人は気楽で」
「本当に気楽ならあんな風に篭っちゃいないわよ。人によって急いだってどうにもならないこともあるわ。──ホラ頼んだよっ、行ってこーい」
シュリーに腕を引かれ、カナトは強制的にソファから立たされた。
続いて従姉は、イダルとそっくりな色をしたカナトの髪の毛をわしゃわしゃと掻き混ぜてくる。