祈り
沸き立つような石灰色の斑。
その向こうに広がる薄い青色。
瞼を開くと、巨大なマーブル模様が視界の端から端まで広がっていた。
瞳に映ったそばから思考を停止させてしまいそうになる、胸の奥へジンワリと響く色だ。
青い広がりは曹灰針石の色にも、カームの制服の色にもよく似ている。
カナトは仰向けになり、ただボンヤリとそれへ目を向けていた。
手を伸ばせばひょっとすると届いてしまうんじゃないかと思えてくる不確かな距離感。
だがよく注意するとそれはあまりにも遠く、錯覚でも引き起こしているのかゆっくりと形を変えているように見える。
三半規管の調子も狂いだし、しだいに酔ってきてしまいそうになるのにどういうわけか意識を逸らせなかった。
感じたことのない途方もなさ。
自分がどれだけちっぽけであるか、ただの一度その瞳に映しただけで思い知らされる光の中での絶望──そんな神秘的な迫力ばかりがどこまでもどこまでも広がっている。
(俺、死んだのかな)
わからない。
身動きが取れなかった。
指先を少し動かしただけで、この景色は一瞬でカナトの視界から消えてしまうのではないだろうか……そんな怪しげな予感までが、微かな風と共に鼻先を掠めていく。
風は迷子の霊魂や、闇の精霊が作り出す空気の流れとは別のものだった。
もっとずっと透明で、無邪気で、時おり虹色の輝きを帯のように閃かせていく。
(風──エルラエナ様……俺、祈ってももう無駄なんでしょうか……もう、届かないんでしょうか……)
どれだけ頑張ったって駄目なことはある。
自分は送魂師としての教えに背いたのだ。
それでもカナトは、カームが祀る風の精霊の名を祈るように胸に留めずにはいられなかった。
風は風でも、エルラエナは上昇気流を司る精霊だ。額に描かれている紋様からは、響くようにエルラエナの流れを感じる。
カナトの強張っていた頬から、フッと力が抜けた。
エルラエナが、きっとカナトを導いてくれる。
それは思い込みでもなんでもなかった。やがて風は、カナトの別の感覚器を刺激し始めた。
古く錆びた鉄の臭い。
微かではあるが、懐かしい、緩やかな感動がカナトの意識をもう一歩進めて、待てよ、と立ち止まらせる。
カナトの体の下には平たくて硬い物がある。触感。
肉体があるのなら、ここは霊魂の世界ではないのではないだろうか。
(じゃあ……俺──ここ、……どこだ?)
錆びた鉄の臭いを頼りに、視界いっぱいに広がっていた青と白のまだらからようやく意識を逸らせる。
つい先ほどまではただひとつのことばかりに気を取られていて気がつかなかったが、カナトの片肘には、ペンキも剥がれ、朽ち掛けた板が当たっていた。
体の下にもあるのも同じ感触のものだから、それはどうやらベンチの形をしているようだ。
(霊魂の世界に、ベンチ?)
ありえない。
そう思ったとたんに、カナトは肘に当たっていた背もたれへ手を掛けて、弾かれたように体を起き上がらせていた。
『ヨンゴダの船』は?
ソナは?
リニーは──?
体を起こすと、青と白の斑は頭上に広がっていた。
カナトがいるのはやはり古ぼけたベンチの上で、片足を下ろすと靴の裏には硬いものが当たる。
ベンチはカラカラに乾燥した黄土色の地面よりも一段高い位置にあった。
そこは紛れもなく小さなプラットホーム。
段の下にはプラットホームを挟む形で二対のレールが敷かれている。
地震かなにかでところどころせり上がったり陥没してしまった地面に耐え切れず、どちらのレールも歪んだり折れたりしながら痛ましい残骸となって遥か遠くの地へと続いている。
エルラエナが運んできた錆びた鉄の臭いの元は、これだ。
「……よかった。気がついて」
ふいに声がし、カナトはドキリとして振り向いた。
そこには、自分と同じベンチの端に座る獣術姫の姿が。
名前を呼ぼうとして大きく息を吸い込み、カナトは激しく咳き込んでしまった。
座っていると体のあちこちまで響くように痛い。
「大丈夫、カナト?」
彼女が心配そうに覗き込んでくる。
幻ではなかった。
──リニー。
本当にリニーがここにいる。
「大丈……夫だよ──ケホッ」
埃っぽい空気を吸い込んで悪しき喘息がとうとう再発したか。
着ているのは制服ではなく、マスク代わりになる長い襟もなかった。
すがるように袖を口元に当て、ようやく発作がおさまってくれる頃にはカナトはぐったりしていた。
どうやらここは、使われなくなったかつての無人駅らしい。
もはや、単なる錆び色の鉄板とそれを支える細い鉄柱でしかなくなってしまった駅名表示板の名残のようなものが、カナトたちのいる朽ち掛けたプラットホームに立っている。
やっとカナトがまともに呼吸出来るようになった頃、彼女は頬についた煤を両手でしきりに拭っていた。
グレイサス駅の地下にある閉鎖空間から少しずつ取り戻してきたあの声で、リニーは再生ボタンが壊れたプレイヤーのようにカナトの名前を何度も口にする。
「リニー、震えてる──?」
「……うん、止まんない」
普段から今にも泣き出しそうな顔をしていながら決して泣かなかったリニー。
頬の煤はたちまち流され、拭う両手も間に合わずにジーンズの上へパタパタと落ちては吸い込まれていく。
(ああ……)
カナトの身にもなにかが沁みた。
体の中心から広がった波紋が、腕を伝い、脚を伝って、その先を痺れさせる。
いてもたってもいられなくなる。
「泣かないでそんなに。闇の精霊が怖いなら、俺が払ってあげるから」
そうは言ったものの、リニーの周りには彼女を苦しめる闇の精霊の姿は一体たりとも浮遊していなかった。
時おりエルラエナが小さく虹色を閃かせ、百のライトを集めたよりも強烈な光の親玉のようなものが頭上の青と白の斑の間に見え隠れする。
影といっても、側にはカナトたちが座るベンチが落とすものと、自分たちのものが小さく張りついているだけだ。
「……違うよ、カナト」
リニーは両手で顔を覆った。
それから止まらなかったものを拭ききると、ためらいがちに顔を上げた。
「ホッとしたの。そしたら……あたし、泣かない子だったのにな」
目を赤くしたリニーは視線をベンチへ落としたりカナトのことを見上げたりしながら、後ろめたそうに微笑んだ。
彼女は『ヨンゴダの船』で真の強さを垣間見せた。
けれどその笑顔はこんなにも弱々しくて。
強さと笑顔の距離に、カナトの胸はギュッと締めつけられた。
僅かでもいい、その距離を埋められたら──そう思ったとたんに眩暈のような衝動がフワリとやってきて、堪えきれずにカナトはリニーへと両手を差し伸べ、気づいたときには彼女の体を強く抱きしめていた。
カナトもソナも、自分の立ち位置を守ろうとリニーを隠すのに必死だった。
送魂師は生きているイクシーディングやパーミテッドに出会ってはならないから。
出会ったときの生に対する衝撃が汚点となり、送魂師としての勤めに後々響いていってしまうから。
だからとにかく、カナトたちはリニーとの出会いはなかったものにしようとして、隠した。
「寒い? カナト──毛布とか、あればいいんだけど。ここ、なにもないから風邪引いちゃったかな」
「泣かない方がおかしいよ、こんなの……生きてるんだから。リニー怒ってる? 俺──」
思い切って大事なことを言いかけたとき、カナトの頬に触れていた彼女の煙色の長い髪が揺れた。




