第21話 誰かの日常
街灯の明かりすら届かない橋の下だった。
冬の川風が吹き抜けるたび、湿ったコンクリートの匂いと鉄錆の臭気が混ざり合い、肺の奥まで入り込んでくる。
真白は立ち尽くしていた。
視線の先。
そこには柚葉の遺体があった。
血溜まりの中に横たわる身体。
胸部には大きな穴が開いている。
吸血鬼の命そのものと言われる血核だけが、綺麗に抉り取られていた。
まるで最初からそこだけを狙っていたかのように。
まるで人間が果実の種だけを取り出すように。
あまりにも慣れた手際だった。
だから余計に腹が立った。
怒りで視界が赤く染まりそうになる。
脳裏に浮かぶのは数時間前の光景だった。
Yumeで笑っていた柚葉。
ひよりを見つめていた優しい目。
どこにでもいる母親だった。
ただ娘の幸せを願っていた。
それだけの人だった。
それなのに。
それなのに。
こんな終わり方があるか。
「……プレゼントは気に入ってくれたかな」
背後から声がした。
真白は振り返らない。
振り返らなくても分かる。
この声を忘れるはずがなかった。
「少し早いがクリスマスプレゼントだよ」
楽しそうだった。
本当に楽しそうだった。
誰かに贈り物を渡した子供みたいな声だった。
そのことが余計に真白の怒りを煽った。
「腐れ外道が……」
吐き捨てる。
拳を握る。
爪が掌へ食い込み、血が流れた。
それでも痛みは感じない。
胸の奥を焼く怒りの方が遥かに強かった。
「無垢な捜査官二人を殺しておいて、そんなこと言われる筋合いはないよ」
根津は肩を竦める。
まるで世間話でもしているような態度だった。
「害虫は駆除されるものだ。そして君もすぐに――」
最後まで言わせなかった。
真白は地面を蹴った。
コンクリートが砕ける。
血が弾ける。
全身から放出された鮮血が空中で形を変え、一振りの剣となる。
血剣。
怒りそのものを形にしたような紅い刃だった。
「死ねぇぇぇぇぇッ!!」
叫びながら振り抜く。
空気が裂ける。
血の軌跡が夜を赤く染める。
だが。
ガギィィィンッ!!
火花が散った。
根津の鎖が血剣へ巻き付き、その勢いを無理やり殺したのだ。
鎖が蛇のように蠢く。
一本ではない。
二本でもない。
何十本もの鋼鉄の蛇が夜空を埋め尽くしていた。
「リーチの差では勝てないよ」
余裕だった。
真白の全力を受け止めながら、根津は笑っていた。
その笑みを見た瞬間。
真白の中で何かが切れた。
怒りだったのかもしれない。
理性だったのかもしれない。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
ただひとつ確かなのは――もう、この男と会話をする気が失せたということだった。
橋の下を吹き抜ける風が強くなる。
冷たいはずの冬の空気が、今の真白にはまるで感じられなかった。
視界の端には柚葉の遺体がある。
血溜まりの中に横たわったまま、二度と起き上がらない身体。
数時間前まで笑っていた人間だった。
ひよりのことを話す時、少しだけ誇らしそうに笑う母親だった。
それが今は。
ただの物言わぬ肉塊になっている。
その原因を作った男が。
目の前で笑っている。
「……よくそんな顔で笑えるな」
真白が呟く。
声は驚くほど静かだった。
怒鳴り声ではない。
むしろ逆だった。
あまりにも怒り過ぎると、人間は静かになる。
「ん?」
根津が首を傾げる。
「君たち吸血鬼は面白いね。人間を喰う側なのに、被害者みたいな顔をする」
鎖が鳴る。
ガシャリ、と。
それだけで空気が張り詰めた。
「彼女だって吸血鬼だろう?」
根津は続ける。
「なら、いつか人を襲ったかもしれない」
「襲わねぇよ」
「君に分かるのかい?」
「分かる」
即答だった。
「少なくとも、お前よりはな」
根津の笑みが少しだけ消えた。
真白は血剣を握り直す。
掌から流れ落ちた血が刃へ吸い込まれていく。
赤黒い刀身が脈打つように揺れた。
まるで怒りそのものを喰って成長しているみたいだった。
「お前は知らねぇだろ」
真白は一歩踏み出した。
「ひよりが苺ミルク抱えて喜んでたことも」
もう一歩。
「味なんて分からねぇのに、大事そうに持ってたことも」
また一歩。
「柚葉さんが、それ見て笑ってたことも」
血が溢れる。
足元へ落ちた血液が意思を持つように広がり始める。
コンクリートの地面を這い。
壁を登り。
橋脚へ絡み付いていく。
まるで巨大な血管が橋の下に張り巡らされていくようだった。
根津の眉が僅かに動く。
初めてだった。
彼が少しだけ警戒を見せたのは。
「なるほど」
それでも根津は笑った。
「感情による能力強化か」
鎖が持ち上がる。
何十本もの鋼鉄が宙へ浮かぶ。
橋の下に無数の影が生まれた。
「若い吸血鬼らしいね」
その瞬間だった。
鎖が放たれる。
一直線ではない。
四方八方から。
獲物へ飛び掛かる蛇の群れみたいに。
逃げ道を塞ぐように。
殺すためだけに。
真白へ襲い掛かった。
普通なら避けられない。
普通なら。
だが。
真白の足元で広がった血が爆ぜた。
轟音。
赤黒い飛沫が噴き上がる。
その反動で真白の身体が横へ弾かれた。
鎖が地面へ突き刺さる。
コンクリートが吹き飛ぶ。
橋脚に巨大な穴が開く。
だが真白は止まらない。
空中で身体を捻る。
壁を蹴る。
橋脚を駆け上がる。
重力を無視するような速度だった。
吸血鬼の脚力。
そして怒りが引き出した身体能力。
橋の側面を走る真白を見上げながら、根津は初めて舌打ちした。
「速いな」
次の瞬間。
真白は橋脚の上から飛び降りていた。
血剣を振りかぶりながら。
まるで断頭台の刃のように。
一直線に。
根津の頭上へ。
落ちる。
空気が裂ける。
血が散る。
怒りが唸る。
そして。
真白は初めて見た。
根津の笑みが消える瞬間を。
根津の身体が揺れた。
視界が歪む。
橋の下が消える。
代わりに映るのは知らない景色だった。
小さなアパート。
狭い台所。
冷蔵庫に貼られた子供の落書き。
夕焼け色の部屋。
そして。
笑っている親子。
「……これは」
根津の呼吸が乱れる。
違う。
これは幻覚じゃない。
記憶だ。
真白の《魔眼》が見せているもの。
だが、それは単なる幻覚ではなかった。
《魔眼》。
それは吸血鬼の中でも、ごく限られた個体だけが持つ異能。
全ての吸血鬼が使える力ではない。
何百、何千という吸血鬼の中で、ごく僅かに生まれる突然変異。
その能力は個体によって異なる。
相手へ幻覚を見せる者。
感情を操る者。
精神を侵食する者。
未来の断片を垣間見せる者。
同じ《魔眼》でも、その力は二つとして同じものが存在しない。
だから厄介だった。
何が起きるか分からない。
対処法が確立されていない。
未知だからこそ恐れられる。
そして真白の《魔眼》は――
感情を流し込む。
言葉では伝わらない痛みを。
記憶ではなく想いを。
相手の精神へ直接叩き込む異能だった。
感情ごと流れ込んでくる。
暖かさ。
安心感。
家族を見つめる幸福。
失うことへの恐怖。
そして――
絶望。
胸が締め付けられる。
柚葉が死んだ瞬間。
ひよりが泣き叫んだ瞬間。
世界が壊れた瞬間。
全部が。
全部が。
自分のことのように流れ込んでくる。
「やめろ……!」
根津が顔を歪める。
初めてだった。
今まで数え切れない吸血鬼を殺してきた。
その全てを正義だと信じてきた。
だが。
流れ込んでくる感情は。
どうしようもなく人間だった。
怪物じゃない。
害虫じゃない。
娘を愛した母親だった。
「違う……!」
根津が叫ぶ。
橋の下に声が響く。
「吸血鬼は人を喰う!」
まるで自分へ言い聞かせるように。
「だから殺さなきゃならない!」
鎖が暴れる。
コンクリートを砕く。
橋脚を削る。
だが。
真白は止まらない。
一歩。
また一歩。
血を滴らせながら近付いてくる。
赤い瞳が根津を見つめていた。
その瞳の奥には怒りがある。
悲しみがある。
憎しみがある。
そして。
どうしようもない喪失があった。
「なら聞く」
真白の声は静かだった。
怒鳴っていない。
なのに重かった。
「柚葉さんが何をした」
根津は答えられない。
「ひよりが何をした」
答えられない。
「苺ミルク抱えて笑ってただけの子供が何をした」
答えられない。
言葉が出てこない。
魔眼が容赦なく流し込む。
柚葉の記憶。
ひよりの記憶。
Yumeで過ごした時間。
笑顔。
温もり。
願い。
全部。
全部。
全部。
「黙れ……」
根津が震える。
「黙れッ!!」
鎖が襲う。
だが遅い。
真白は既に動いていた。
血が舞う。
空中へ散った血液が何百もの弾丸へ変わる。
真紅の豪雨。
橋の下を埋め尽くす。
鎖が迎撃する。
だが防ぎきれない。
肩を貫く。
腕を裂く。
脇腹を抉る。
鮮血が飛び散る。
根津が膝をついた。
初めてだった。
彼が地面へ膝をつくのは。
「終わりだ」
真白が目の前に立つ。
血剣が形成される。
赤黒い刀身。
柚葉の血。
真白の血。
怒り。
悲しみ。
全てを混ぜ込んだ刃。
根津は見上げる。
そこには吸血鬼がいた。
だが。
不思議だった。
怪物には見えなかった。
泣いている人間に見えた。
(……ああ)
その瞬間。
根津は理解した。
遅すぎる理解だった。
自分が殺したものは。
数字じゃない。
害虫じゃない。
誰かの母親だった。
誰かの日常だった。
誰かの幸せだった。
(四ノ宮君……)
弟子の顔が浮かぶ。
(すまないな)
もっと教えることがあった。
もっと話すことがあった。
けれど。
もう遅い。
真白が剣を振り上げる。
「これは」
震える声。
「柚葉さんの分だ」
刃が振り下ろされる。
そして。
「ひよりの分だ」
赤い軌跡が夜を裂いた。
首が飛ぶ。
鮮血が噴き上がる。
冬の空へ。
まるで赤い花が咲くように。
根津の身体が崩れ落ちた。
もう動かない。
もう喋らない。
橋の下には風だけが吹いていた。
真白はしばらく立ち尽くしていた。
勝ったはずなのに。
仇を取ったはずなのに。
胸の穴は何も埋まらなかった。
視線の先では。
柚葉が静かに横たわっている。
そして真白は。
血に濡れた顔のまま、小さく呟いた。
「……遅ぇよ」
その声は。
誰にも届かなかった。
「……手袋、なんかして……そこまでして、吸血鬼に……触れたく……なかったのかよ!」
震える声でそう呟くと、真白はその手袋を静かに外した。
現れたのは、男の手には不釣り合いなほど綺麗に磨かれた銀の指輪。
左手の、薬指に――しっかりと、嵌められていた。
「……なんだよ、それ……」
つぶやきながらも、真白はもう、涙を止められなかった。
それが、誰のための指輪だったのか――今となっては、知る術もなかった。
彼を失った“誰か”
彼が、もう戻れなかった“日常”
自分たちと同じだ――ただ立場が違うだけで、失ったものは、きっと変わらなかった。
「……クソッタレが」
膝をつき、真白は震えながらつぶやいた。
根津は、もう動かない。ただ静かに、夜の中へと沈んでいた。
「……仇は取ったぞ、ひより……」
血に濡れた冬の夜の空気の中で、橋の下に冷たい風が吹き抜ける。
その風は、泣きじゃくる少女の背を、まるで“寒さ”が哀れんだかのように包み込んでいた。




