第八話 上善
Day −2 / 14
夜。
都心の通りは、まだ光を失ってはいない。 だが、その光はすでに“閉じる側”のものだった。
ショーウィンドウの中、宝石が最後の輝きを保っている。 照明は落とされつつあり、光は一点に収束している。
ダイヤモンドは冷たく、 ルビーは血のように沈み、 サファイアは光を吸い込んでいた。
店内は静かだ。 客はいない。 空気は動いていない。
ガラスケースの奥で、リリーが帳簿を閉じる。 その時、入口の扉が開いた。 音は、ほとんどない。
リリーは顔を上げる。
「……上善」
一瞬の間。 それから彼女は立ち上がり、何も言わず入口へ向かう。 シャッターを下ろす。
外の光が遮断される。 店内の照明が、わずかに温度を下げる。 閉じられた。 世界が一段、静かになる。
リリーは振り返る。
「いつも通りね」
上善は答えない。 懐から小さなメモリカードを取り出し、差し出す。 リリーはそれを受け取る。 重さはない。 だが、軽くもない。
「いつも通り……早い仕事」
わずかに口角を上げる。
「奥へいらっしゃい」
リリーがバックヤードへ歩き出す。 上善が後に続く。 リリーの豊満な体に吸い付くような紫のチャイナドレスは、波打つ皮膚の動きを正確になぞっている。
バックヤードは、店内とは別の顔を持っていた。 壁は無機質。 装飾はない。 ただし、過剰なまでに整えられている。
中央に机。 ノートPC。 その奥に、白い大型金庫。
リリーは金庫の前に立つ。 デジタルパネルに指を走らせる。 無駄のない動き。 短い電子音。 ロックが解除される。 扉が開く。
中から取り出したのは、赤い皮のカバーの手帳だった。 古い。 だが、使い込まれている。
リリーはそれを机に置き、ページをめくる。 紙の擦れる音だけが、部屋に残る。 上善は、動かない。
リリーはメモリカードをノートPCに挿す。 画面が変わる。 パスワード入力のダイアログ。
リリーは手帳の開かれたページを見ながら、ゆっくりとキーを叩く。 一文字ずつ。 急がない。 確認しながら。
指が、エンターキーの上で止まる。
「間違えると、二度と見れないぜ」
一拍。
「間違えても、金は頂くけどね」
リリーは眉をわずかに寄せ、上善を一瞥する。 上善は、見ていない。
リリーはエンターキーを押す。 画面が暗転し、映像が立ち上がる。
夜の路地。 街灯の下。 一人の男。 田邊隆二。 不安げに周囲を見回している。
そこへ、声。
「田邊さあーん、ってばぁ〜」
軽い調子。 だが、逃げ場のない距離感。
リリーが、くすりと笑う。 腕を組み、画面を見続ける。 映像の中で、田邊が振り返る。 会話は短い。 だが、逃げ道はない。
そして最後。
「一週間以内に、この口座に振り込んでくれ」
映像が途切れる。 無音。
リリーは小さく息を吐く。
「……なかなかイイ男じゃない」
感想とも評価ともつかない声。 彼女は金庫へ戻り、封筒を一つ取り出し、上善へ差し出す。
上善はそれを受け取り、封を開ける。 中の札束をすべて取り出す。 指が動く。 速い。正確。 まるで銀行員のような手つき。
一枚一枚ではない。 束として数える。 乾いた音。
「五十万、確かに」
札を封筒に収め、ジャケットの内ポケットへ。 リリーが言う。
「残りは、田邊隆二からの入金を確認したらよ」
上善は、わずかに頷く。 それで終わりだ。
上善は踵を返す。 バックヤードの出口へ向かう。 その背に、声。
「ねぇ、上善……あんまり言いたくないんだけど」
「だったら言うな」
振り向かない。 リリーは煙草を取り出し、口にくわえる。 マッチを擦る。 火が生まれる。 煙が立ち上る。
「その服装、何とかしたら?」
上善は立ち止まる。 背を向けたまま。 両手をパンツのポケットに突っ込む。 脚を肩幅よりわずかに広く開く。
沈黙。
リリーは続ける。
「黒い上下に、黒いシャツ」
煙を吐く。
「そこに黄色いネクタイって、変に目立つのよ」
一拍。
「痕跡を残さないのがプロなんでしょ?」
煙が、ゆっくりと上に消える。
「矛盾してない?」
上善は何も言わない。 リリーは肩をすくめる。
「それにさ」
煙草を指で挟む。
「モバイルもPCも持たない」
「連絡は直接会うか、家電だし」
「支払いは直接、現金の取っ払い」
少し笑う。
「ホント、手のかかる男よね」
火の先が、静かに赤く光っている。
「気に入らないなら、依頼しなくていいんだぜ」
「そうじゃないわ」
リリーはタバコを深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。 濃い化粧の顔が、白く煙る。
「世の中どんどんデジタル化して便利になって、今はより多くの事が短時間で出来るのよ。今回の仕事の依頼だって、あんたに何回電話したかわかる? 留守電もないんだから。メールだったら一度で済むのよ」
上善はリリーを振り向いた。
「あんた、今回の依頼主に会ったのか?」
「会ったわよ。ノートPCで、ネットで」
「俺はそういうのは“会った”とは言わない。あんたがネットで“見た”その依頼主が本人だといい切れるか?」
「言いたい事はわかるわ。ディープフェイクかもしれない。そう言いたいんでしょう?」
上善はリリーを見下ろすように立っている。
「でもね、お天道様に顔向けできない裏ビジネスなのよ。それくらいのリスクは昔から織り込み済み。そんなの気にしていたら、この仕事は出来ない」
リリーはタバコをガラスの灰皿の縁に押し付けて火を消した。
「それにさ、そういう時の為にあんたみたいなフィクサーがいるんでしょうに」
上善はリリーに背を向け、歩き出す。
「タバコは止めたほうがいい」
一拍。
「それとな、俺の服装なんざ、五分後には誰も覚えちゃいないさ。外へ出てみろよ。もっとスゲェのがウヨウヨしてるぜ」
上善は店の裏口を抜ける。
夜の大通り。 ネオン。 人の波。 様々な言語が交錯している。
「本当に日本かよ、ここは」
「どいつもこいつも、スマホばっか見て歩いてやがる。前なんか見てやしねぇ」
前からスーツ姿の男がスマホを見ながら歩いていた。
上善は立ち止まる。
脚を開き、両手はポケットのまま
スーツ姿の男はスマホを見ながら真っ直ぐに上善に向かって歩いている。
上善は動かない。
スーツ姿の男が、上善にぶつかる寸前に上善に気づいて立ち止まった。
長身の上善は、スーツ姿の男を見下ろしている。
男は上善の顔を見上げると「す、すみません」と言い残して小走りに去って行った。
「俺の住んでいる場所で前を見ずに歩く事は、命取りになる可能性があるってのによ。何がデジタル社会だ。クソ喰らえだ」
上善は両手をポケットに入れたまま、地下鉄への階段をゆっくりと降りていった。




