第七話 暗約
Day −2 / 14
千尋はベッドに横になり、目を閉じ、耳を澄ましていた。
千尋の腹部にそっと置かれた手を、カーテンの隙間から漏れる月の光が柔らかく照らす。
湖の月光に揺れる小舟のように、その手のひらが腹部を優しく愛撫している。
「ねぇ、あなたはどうしたいの?」
千尋は再び小さく呟いた。
耳を澄ますと、普段は意識していない音が耳元で鳴り始める。
どの音も遠くで小さく鳴っている。
電車がレールを擦って走り去る音
飛行機の飛び去っていく音
過ぎ去っていく救急車のサイレンの音
そして―
近づいてくる靴音が聴こえてきた。
あの男の靴音だ。
靴音が止む。
男の声が蘇る。
「産むことは許さない。下ろすんだ、いいね。費用は全てこちらで持つ」
再び男の靴音が鳴り出す。
靴音は遠ざかっていく。
そして、聴こえなくなった。
千尋の目が開く。
千尋はベッドから起き上がると、ベッド脇のサイドテーブルの上に置かれたタブレットにタイプし始めた。
>お願いがあります。
数秒の沈黙。
タブレットのモニター上の幼虫は動かない。
千尋は続けてタイプする。
>一千万は今の私の全財産です。会社を辞めたので、お支払いする事は出来ません。
一拍。
千尋は天井を仰いだ。
>相手の男に支払わせる事は出来ませんか?一流企業の役職者です。"費用は全てこちらで持つ"と言いました。
モニター上の幼虫がモゾモゾと動き出す。
>男の氏名を。男の勤務先は、あなたが辞めた会社ですね。
千尋は下唇を軽く噛んだ。
>田邊隆二
モニター上の幼虫がクルクルと周り出す。
千尋は目を閉じ、腹部に手を置く。
数十秒後。
モニター上の幼虫が回転を止め、モゾモゾと動き出す。
>承知しました。一千万は、田邊隆二さんから頂きます。デュプリカントのモニターの件は無かったことにするよう手配します。安心してデュプリカントとの生活の準備を進めてください
幼虫の体表がわずかに歪み、
意味を持たないはずの形が一瞬だけ現れ、
そのまま静かにフェードアウトしていった。
千尋は小さなため息をつくと、ベッドに横になった。
目を閉じると、一粒の涙と共に言葉が漏れ出した。
「これで⋯いいんだよね」
Day −3 / 14
夜。
都内某所。
ビジネス・リュックを背負った男が、街灯に照らされた住宅街の通りを足早に歩いている。
濃紺のスーツ。
ネクタイは外されている。
襟元がわずかに開いている。
整った顔立ち。
「田邊さあーん」
男は立ち止まり、後ろを振り返る。
誰もいない。
男は再び足早に歩き出す。
「田邊さあーん、ってばぁ〜」
男は再び立ち止まり、後ろを振り向く。
十メートルほど後方、そこには長身の男が立っていた。
長髪、口髭、黒い上下のスーツに、黒いシャツ、黄色いネクタイが街灯の灯りを鈍く跳ね返している。
両手をパンツのポケットに入れ、両脚をその筋肉質な肩幅よりも広く開いて立っている。
「田邊隆二さんですよね~」
「誰?」
田邊隆二は目を細め、男を確かめようとする。
男はゆっくりと田邊隆二に向かって歩き出す。
「どなた⋯ですか?」
男は田邊隆二の二メートル手前で立ち止まり、両手をポケットに入れたまま、田邊隆二を見下ろした。
「はじめまして」
その体格に似合わず、声は細く掠れている。
顔には無駄な贅肉がない。
街灯の灯りが、その顔をスケルトンのように浮かび上がらせている。
「ご帰宅途中にすみませんねぇ」
田邊隆二の全身に力が入る。
――まずい、面倒なことになる
直感だった。
田邊隆二は固唾をのんだ。
「千尋の⋯件ですね?」
男は黙って頷くと、右手でVサインを立てた。
「やはり⋯千尋の件ですね。それで、どんなご要件でしょうか」
男はフッと失笑すると、右手のVサインを田邊隆二に突き出した。
そのVサインは、田邊隆二の両目の瞳孔を一瞬で開かせた。
「ああ⋯二百万⋯というわけですか」
男はVサインを突き出したまま、何も言わない。
「⋯しかし、た、高いなぁ、二百万は。堕胎にそんなにかかるのでしょうか⋯。私の調べた限りでは⋯」
「何にも分かっちゃいねぇなぁ、あんたは」
男が田邊隆二の言葉を遮った。
「な、何がでしょうか⋯」
男はフッと失笑すると、右手の親指と人差し指で円を形作る。
「ゼロが一つ足りない」
田邊隆二の顔が紅潮する。
「二千万! 冗談じゃない。そんな金払えるか! その根拠は何だ!」
男は、そのスケルトンのような顔に微かな笑みを浮かべた。
「俺は気が短いから一度しか言わない。費用は全て払う、と言ったんだろう。あんたは値踏みする立場にないんだよ」
「し、しかし根拠が⋯」
「これが公になった時のあんたの経済的なダメージを考えてみろ。随分とお安いだろう。あんたは大した高給取りのようだからな」
「恐喝か⋯」
「俺の世界では“取引”と呼ぶ」
「け、警察に⋯」
「好きにしろ。だがな、俺はあんたの知らない裏世界のプロだ。取引が経済的な価値で済むうちに応じたほうが利口だと思うがね」
田邊隆二は下を向いている。
息が荒い。
全身に力が入り、汗ばんでいる。
冷たい汗だ。
「いいか、自分のしたことをよく考えてみろ。やっちまったことをナシには出来ねぇんだよ。それからな、相手の女が負った傷と、これから負うであろう傷の深さを考えてみろ。それを、女は二千万で全てを忘れてやる、と言っているんだ。あんたに払えない額じゃないだろう。なんとも慈悲深けぇじゃねぇか」
田邊隆二が顔を上げた。
「もし……」
そう言いかけて、首を横に振り、再び口を閉ざした。
「一週間以内にこの口座に振り込んでくれ」
男が紙切れを、田邊隆二のシャツの胸ポケットに突っ込んだ。
「もし、期限内に入金がない場合、ある“処理”が行われる。それは、あんたにとって生き地獄になるだろう」
男はそう言うと、田邊隆二の横を通り過ぎていく。
男の足音が遠ざかっていく。
田邊隆二はしゃがみ込み、両手で頭を押さえた。
汗、鼻水、そして涙が同時にアスファルトの上に落ちる。
そして、震える声で小さく呟いた。
「千尋⋯」




