第十三話 砲壊
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朝。
田邊隆二は一番乗りでフロアに入る。
約百人が勤務するオフィスは静かだ。
音がない。
気配がない。
田邊はこの時間が好きだ。
自席に着く。
部長であり、同時にこの会社の執行役員でもある田邊の席は、窓際に設置されたパーティションで仕切られたブースになっている。
シーリングライトを点ける。
オフィス内を映すモニターの電源を入れる。
パソコンの電源を入れる。
モニターにOSのブートシーケンスが流れていく。
コンビニで買った冷たい缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲む。
もう何年も、同じ缶コーヒーを、この席で、この時間に飲んでいる。
朝のルーティンというより、儀式に近い。
これを飲むと、オンになる。
心理的な切り替えが起こるのだ。
ログイン。
メーラーを立ち上げ、「未読のフィルターと要約」をクリックする。
自分に関係のあるメールだけが仕分けられ、その要約が一覧表示される。
日々、八割のメールは田邊の目に触れることなく捨てられる。
定例。
報告。
確認依頼。
スクロールが止まる。
赤字の警告メッセージ。
警告レベルW5。
送信元メールアドレス不明。
CCなし、BCC不明。
ウイルス未検出。
開封可能。
田邊は、その赤い警告の下に表示された「開封」をクリックした。
メールの全文が表示される。
――差出人:西崎千尋
田邊さん、西崎千尋です。
あなたが私と子供にしたこと、一生忘れません。
視線が止まる。
あり得ない。
西崎千尋の社内メールアドレスは抹消されているはずだ。
社外メールは、特定アドレス以外は受信拒否される。
沈黙。
田邊は動かない。
短い。
だが、重い。
眉がわずかに動く。
マウスを握る。
「削除」にカーソルが近づく。
止まる。
指が離れる。
考える。
――どういうことだ。
そのとき。
ドアの開く音。
社員が入ってくる。
「おはようございます」
パーティションの外からは、中にいる田邊の姿は見えない。
だが田邊は、思わず姿勢を低くし、息を潜めた。
遠ざかる足音。
椅子の音。
パソコンの起動音。
いつもと同じ。
だが――
少し違う。
キーボードの音が一瞬止まる。
小さな間。
また音が戻る。
新規メールを開く。
宛先:IT管理部門
指が一度止まる。
打つ。
念のための確認ですが、
退職した西崎千尋のメールアドレスは登録抹消されていますか?
送信。
すぐに画面を閉じる。
腕を組む。
――あり得ない。
自分に言い聞かせるように思考を整える。
退職者のアカウントは無効化される。
それはルールだ。
なら、このメールは――
なりすまし。
そう結論づける。
そのとき。
画面の右下に通知が出る。
――受信:IT管理部門
速い。
田邊はわずかに眉を動かす。
開く。
既にアカウントは抹消済みです。
現時点でログイン・送信はできません。
田邊は画面を見たまま動かない。
誰かが……いる。
社内に。
自分と千尋の関係を知っている誰かが。
考えてみれば当たり前だ。
千尋が自分との関係を口外していても不思議ではない。
だが――
なぜ自分は、千尋に限ってそんなことはあり得ないと思っていたのか。
いや。
そんなことをする女ではないと判断したから、関係を持ったのだ。
自分の判断が甘かった、ということか……。
――待て。
あの男。
自分と千尋の関係を知っていた男。
二千万円を要求してきた男。
だが――違う。
あの男が、このメールを送ることはできない。
気づけば、オフィスには声が満ちていた。
始業前の談笑。
スマホで客と話す声。
低く抑えた囁き。
田邊の姿勢は、まだ低いままだ。
まもなく朝礼が始まる。
田邊はメーラーを閉じ、立ち上がる。
そしてブースから出ていった。




