第十話 火種
Day −3 / 14
土間では、薄い湯気が立っていた。
築百年の古民家の夜は早い。
土間と居間の境には、段差がある。
靴のまま入れる場所と、入れない場所がはっきり分かれている。
天井は高い。
見上げると、太い梁がそのまま走っている。
黒い。
煤だ。
長年の火が染み込んでいる。
土間の奥、かつては囲炉裏があった場所だ。
今は塞がれているが、匂いだけが残っている。
壁は土だ。
手を当てると、冷たい。
湿り気を含んでいる。
屋根は藁だ。
外からは見えないが、雨の音で分かる。
柔らかく、鈍い。
音を吸う。
足音が響かない。
外の音だけが入ってくる。
家の中にいるのか、外にいるのか、曖昧になる。
午後五時。
外はもう、山の闇に沈んでいる。
障子の向こうで、風が一度だけ木立を鳴らした。
上善は裸電球に照らされた土間の流しの前に立ち、鍋の蓋を少しだけずらした。
湯の匂いに、味噌と干し椎茸の匂いが混ざる。
火は弱い。
吹きこぼれない程度に保ち、煮え方だけを見ている。
包丁はもう使わない。
刻んだ長ねぎは小皿に分けてある。
焼き網の上では、油揚げの端が少しだけ焦げはじめていた。
その時、黒電話が鳴った。
上善は火加減を一段落とした。
布巾で手を拭き、受話器を取る。
「上善だ」
「あら、珍しく一回目のコールでつながったわね」
相手はリリーだった。
「で?」
「入ってないわ」
声に感情はない。
商売の報告だった。
「田邊隆二、まだ一円も動いてない」
上善は黙ったまま、土間のたたきに目を落とした。
煤けた土の色。
長年、同じ場所を同じ歩幅で人が通った跡が、わずかに残っている。
「……そうか」
鍋の湯が、小さく鳴った。
「どうする?」
「奴に言った事をやるだけだ」
「なるほどね。関係をバラすのね。じゃあ、二千万はナシね。あんたの報酬の半分もナシよ」
「当たり前だ」
「まあ、いいわ、あなたの好きにしてちょうだい。田邊って男、虫酸が走るわ」
リリーが、電話の向こうで笑った気配がした。
上善は無言だ。
受話器を持ったまま、流しの横に置かれた古い木箱へ目をやった。
木箱の上には、昼間駅前でもらった地元のフリーペーパーが無造作に置いてある。
その片隅に、千尋の勤務先の名前が小さく載っていた。
「火種を入れるだけだ」
短くそう言って、上善は電話を切った。
受話器を置く音は、ほとんどしなかった。
土間に戻る。
鍋の蓋を取る。
味噌を溶く。
箸で一度だけ底をさらい、火を止める。
長ねぎを散らす。
油揚げを網から下ろす。
皿に置く。
醤油を垂らす。
それらが夕食の全てだ。
土間に置かれた古い木製の食卓に皿を運ぶ。
十人分の広さはあろうかというその大きな食卓で、上善は一人で食べる。
汁をすすり、飯を口に運ぶ。
食べる速度は一定で、早くも遅くもない。
途中で茶を飲む。
箸を置く位置も変わらない。
食べ終えると、茶碗を石で出来た流しに置き、貯めてあった桶の水で軽くゆすいだ。
すぐには洗わない。
「型」がある。
洗うのは明日の朝だ。
手を拭く。
台所脇の柱に掛けてあった作務衣に着替える。
障子を開ける。
畳の間に夜気が入る。
湿っている。
山の匂いだ。
押し入れから布団を下ろして畳の上に敷く。
上善はゆっくりと布団に入る。
夜の音に集中する。
風が古民家の外壁を擦っていく音。
木の葉が揺れる音。
微かな虫の鳴き声。
上善の寝息の音が、夜の音に混じっていった。
全ては明日でいい―




